妣が國へ
いつき
第一節
年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。部屋の窓からふと外を見る度、僕は虚しさにかられた。道行く人々は毎日のように移りゆき、止まって見える木でさえも春には花を咲かせ夏には葉を茂らす。なぜ皆、動いてしまうのか、なぜ、進んでしまうのか。時はいつも輝きを台無しにしてくれる。進まぬものは世界から見放される。美しかった桜の花も、数日経てば散って地面に積り、さらに数日経てばそこら辺の落ち葉と区別がつかなくなる。汎ゆる存在のエントロピーは増大し続け、人も入れ替わらなければ数カ月で朽ちる。なぜ世界は、一刹那の美を虚空に突き落とし、僕達を幻滅させ、僕達に歩み続けることを強いるのだろうか。もしかしたら、僕の求めている世界はここにはないのかも知れない。そう感じる度、僕の胸はグッと傷み、足が地面から離れていってしまうような気がした。
毎朝、日の出とともに僕の一日は始まる。朝6時、カーテンの隙間から漏れ出す光を頼りに僕は布団から出た。机に付くと、少し前に読み始めた本を手に取り、栞を挟んだところの一つ前のページから読み始めた。朝は頭の中が静かだった。
ふと壁に掛かっている時計を見る。もう8時だ。一度深く呼吸をし、そっと立ち上がった。カーテンの中に手を入れ、窓を開ける。春風が部屋の中に入り込んでいた。風に乗って、外の声も聞こえる。風でカーテンが持ち上げられ外の様子が見えた。僕の部屋は二階にあり、この時間は登校している学生達の姿が目に入る。そしてもう一度、鼻から大きく息を吸った。春の香りが鼻を通った。それから席につくとペンを取り、早速勉強を始めた。朝のこの時間が一番集中できる。程よく頭も冴えていて、眠くもない。一方で頭が回りすぎてしまうこともないので、淡々と勉強するにはうってつけだ。
別に勉強が嫌いなわけではなかった。ただ、それ以上に僕は考えることが好きだった。考えることで日常から抜け出せ、より遠い世界に行ける気がした。だから沢山の本を読んだ。勉強は午前中に片付け、午後はじっくりと本を読み、考えるための時間に回した。読む本は様々で、形而上学などの哲学書やビジネス書、専門書、自伝、歴史書などなどが部屋の脇にある本棚にずらりと並んでいる。読んだ内容は紙にまとめ、線で結んだりして体系化していった。そして他の本の内容とつなげたりしながら、全体像を組み立ててゆく。それが考えるということであると思う。それが僕にとって何よりの楽しみで、僕の生きがいにすらなっていた。それに、僕の中から湧き上がる虚しさのようで、好奇心のようで、懐郷心のようなこの胸騒ぎも、考えるという行為を通じて上手く発散できている気がした。考えるという行為は、叫びたがっている僕の心の喉となってくれた。それによって僕が僕のうちにあるものから食い破られずに済んでいると言っても過言ではない。
勉強の途中、トイレがしたくなり部屋を出た。部屋の中が薄暗かったため、廊下の眩しさに目が眩む。廊下には大きな窓があり、そこから陽の光がそそいでいた。僕はグーと伸びをし、体をほぐす。トイレから出ると、起きてからまだ何も食べていないことに気づいた。まだ目覚めきっていない筋肉を動かし、一階へと向かう。そして、いつも通り緑茶を沸かし、りんごとバナナを刻んでいく。この時間帯は通学や出勤の時間が過ぎた頃でそとも静かだった。誰もいない静かな家の中で、コツ、コツと包丁の音だけが響いていた。そんな音を聞いていると、僕は嫌でも寂しさを感じてしまう。考えずとも、音が感情に訴えかけてくる。そしてその寂しさが引き金となって、またあの胸騒ぎがした。
「いただきます!」
わざと沈黙を破るかのように、そう大きな声で言った。食欲はなかったが、食べ始めるとそんな事は忘れてしまう。フルーツとヨーグルトはどんな時でも喉を通るし、それに腹を満たしてくれる。食べ終わり、二番煎茶を飲み切ると、茶葉をゴミ入れに捨てて食器を水でさっと洗い、棚にかかっている布巾で手を拭いた。部屋に帰ると、畳み忘れていた掛け布団を丁寧に畳み、カーテンを開け、また勉強に戻った。昼になるまで、集中が途切れることはほぼ無かった。やはり継続は力なりである。
「ブー、ピコン」
その日の午後5時を回った頃、最近では滅多に鳴らなくなった僕の携帯に通知が来た。僕は気にせず読書を続けた。そしてその内容を紙にメモしていった。シュッ、シュッと、鉛筆の音が部屋に響く。だがまもなく、またも携帯が鳴った。智也さんからだろうか。しかし日中にメールが来たことは一度もない。少し心配になり、一度ペンを置き、ベッドの棚にある棚に手を伸ばした。智也さんからだった。
「拓也から連絡来てない?」
拓也...。
一瞬混乱した。もう何ヶ月も、下手すれば1年近くその名を聞いていなかった。今更どうしたというのか。できることなら関わりたくはなかったし、思い出したくもなかった。
「なにも来てないよ?なんかあったの?」
僕はそう返信し、すぐにスマホを閉じた。
空も段々と赤みを帯びてきて、僕は焦るようにカーテンを閉めた。夕日が嫌いだった。ヘッドフォンを付け、机においたスマホを再び開いてYouTubeで音楽を流した。この時に聞く曲はだいたい決まっていて、僕のスマホはほぼそのためにあるようなものだった。そして、足で地面を蹴って椅子を窓とは反対側に回した。意識を音楽に集中させ、空が赤から黒へと変わるのを待った。音楽のおかげで、僕の心は静かに保たれていた。途中、本を読んだりしながら、僕はこの時間を過ごした。だが途中、またもやスマホの通知音がなった。
「帰ったら話すよ。なんか連絡きたら教えて」
智也さんからだった。
「フー...」と息をつき、僕はまた読書に戻った。
「ただいまー」
夜7時が過ぎた頃、その声を聞き僕は急いで部屋から出て階段を駆け下りた。とにかく早く事情を聞きたかった。リビングは小一時間前に作ったカレーの匂いに満ちており、その日常感溢れる香りは、逆に僕の不安と緊張を煽ってくる。一階では、ちょうど智也さんが手を洗っているところだった。
「おかえり...」
僕は控えめな声で言った。歩いている途中、ふと玄関の横にあった鏡に写った自分の姿が目に入った。とても暗い顔をしていた。
「カレー作ったから一緒に食べよ。隠し味入れて工夫してみたから」
わざと明るい声で、僕は言った。ただ、自分でも分かるほどに声に感情が表れていた。それから、僕達は無言のまま、温め直したカレーを器に注ぎ、お茶を用意する。最近は帰りが遅い事が多く、こうして一緒に食べるのは久しぶりだ。
「いただきます」
しばらくの間、部屋にはスプーンのカタカタという音だけが鳴り響いた。
「拓也の件だけど、」
智也さんは声色を変えずに話し出した。
「いなくなったらしくてさ。家から。俺には全然情報くれないから詳しいことはわかんないんだけど、なんか手紙が残されてたらしくて。」
そういってスマホを取り出し、しばらく操作した後、僕に見せてきた。手紙はノートを切ったようなもので、丁寧な文字で書かれていた。
「このたびは、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。颯季に会いに行ってきます。直接言ったら止められると思い、こういう形になってしまいました。できるだけ早く帰ってきます。どうか心配しないでください。」
しかし、僕にはなんの連絡も手紙も来ていない。第一、拓也はこの家の住所も、僕の連絡先も知らないはずだ。
「連絡しても返事が来ないみたいで、心当たりない?」
智也さんの質問に、僕は戸惑った。
「ごめん、何にも連絡来てない。新しい電話番号もメールアドレスも知らないから、連絡しようにもできないはずなのに...どうやって合うつもりなんだろう...」
そんな事をいうのが情けなかった。弟のことなのに、なぜか他人事に思えてしまうのが嫌だった。そして同時に、触れたくなかった記憶が、徐々に蘇ってくる。思い出さないようにと別のことを考えても、拓也の顔が、声が、脳裏に浮かんでしまう。
「颯季、大丈夫?」
智也さんの声で、やっと手が止まっていることに気づいた。僕はそのまま顔を上げず、カレーを黙々と食べ続けた。智也さんも、しばらく僕を見ていた後、無言で食べ続けた。
その後も僕は風呂に入りながらずっと考えていた。なぜ拓也は、あんな手紙を残していったのだろうか。あれを使って僕の方から連絡をさせようとしているのか、それともただ、家出の言い訳として利用しているだけなのか。風呂には水の音が響いた。ポタン、ポタンとシャワーの管に残った水が地面に落ちる。頭上では換気扇がゴーゴーと音を立てていて、うるさいはずなのにとても静かなところにいる感じがした。貧血で、あまり長く入っていると出たときに立ち眩みになってしまうことがある。だが今日は早く上がるつもりはなかった。湯はまんべんなく僕の体を包み込み、僕の不安を薄めてくれる。水に墨汁を垂らしたかのように、僕はどんどん湯船全体に広がっていく。そして湯船だけにはとどまらず、湯気にも、風呂の壁にも、僕は広がっていった。広がるたびに僕は薄まり、この体が受け止める僕の量は減っていった。例えばため息をつく時、僕は息にも広がり、つまり息は僕の一部を背負って僕の体から出ていってくれる。ポタポタと垂れる水の一滴一滴が僕であり、僕は水であり、風呂の天井や壁であり、世界となっていった。きっとまたすぐに僕の体に収縮してしまうのだろうが、それは束の間の休息であった。
そういえばいつか、二人で東京の街に行ったことがあった。どこへ行ったかとか、なんで行ったかとかはもう忘れたが、確かどこかの高いビルの外階段から見える東京の風景を二人で見渡した。その時はとっくに日が暮れていて、その夜の景色に、僕達はただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。あの夜景を見たときに感じた肌の感覚や匂いは、今でも鮮明に覚えている。そしてその時、僕は何かを悲しんでいた。多分、涙も流していたと思う。隣りにいた拓也も同じように泣いていて、互いの泣き顔を見ないようにと正面を向いたまま、何かを話していた。
「あっ...!」
その瞬間、何かに気づいた。あの時何を話していたのか、少し分かった気がした。僕らは別れた。だけれどもまたいつか会える日が来たらどこかで会おうと、僕も拓也もそう思っていた。そうか、だから今、拓也は僕に会おうとしてるんだ...。
風呂を上がり、二階で寝支度をしている最中も、それが頭から離れなかった。今夜はとても寝れそうにない。とはいえ、ベッドの中で長い時間ずっと考え事をしているのも嫌いだ。普通だったらこのまま自分の部屋に行き、本でも読みながら眠りにつくのだが、そもそも一人でいること自体が落ち着かない。下の階はまだ明かりがついており、僕はそこで過ごすことにした。一度部屋に戻り、薄手の上着をはおり、数冊の本と携帯を両手に抱えながら、肘で部屋の扉を開けた。
階段へと向かおうとしたその時、ちょうど智也さんが着替えを持って部屋からでてきた。そして僕を見ると一瞬、とても心配そうな顔をした。
「行くの?拓哉のところに...」
一瞬戸惑った。
「まさか...一階で過ごそうと思っただけだよ」
すると智也さんも安心したようで、そのまま僕と一緒に階段を下りていった。だがその時気付いた。僕は拓也のところに行きたがっているんだと。僕は階段を逆戻りし、部屋に戻る直前、智也さんに言った。
「ごめん、やっぱりちょっと探してくる。思い当たる場所があって。」
それを聞いて戸惑う様子を見ながらも、僕は長らく放置されていたバッグにお気に入りの本数冊と携帯、財布や家の鍵を入れ、手櫛で紙を整えた。その後、階段を降りると、智也さんからは一言、11時を越えると補導されるため、それまでには戻ってくるよう言われ、それから僕は急いで靴を履き、玄関の扉を開けた。
外は冬のように寒く、そんな中を僕は、少しずつ道を思い出しながら駅に続く大通りへと歩いていった。最後に外に出たのはたぶん5年以上前のあの時だ。緊張のためか腹が痛み、呼吸も浅くなっていった。ただ今は、刻一刻も早く拓也に会って家に戻らなければいけない。歩くほどに足が疲れ速度が落ちるが、その度にペースを上げていった。無論、外の空気を吸うたびに足はすくむし、冷たい風に手足はすくんだ。だか、そんなことをいちいち立ち止まって気にしている暇はなく、ただただ歩いた。
夜の住宅街に人影は無く、駅まで続く道を歩くのは僕ただ一人だった。道には街灯や街路樹、それに加え所々にバス停の看板が立ち並んでいた。道沿いにある家はどれも立派で、所々の窓から明かりが漏れている。そして静けさに混じって、あちこちから楽しそうな話し声が聞こえた。そんな何とも無い風景ですら、僕には初めてのようで、そのせいか駅へと続く道は、僕の目には涙が出るくらい美しく映った。足に伝わるアスファルトの感覚や、よる独特の匂い、それら全てが新鮮で、今の僕なら何でもできるような気がしてならなかった。歩いていると突然、手に何かが当たった。見るとそれは水で、一瞬戸惑ったがすぐにそれが雨だと思った。雨の勢いは次第に増し、傘を持っていなかった僕は濡れないようにと走った。
走りながらふと、あのビルについて思い出していた。あのビルからは確か東京スカイツリーが見えて、大きさからしてたぶんかなり近かったと思う。赤や紫のイルミネーションをまとっていて、その光は周りのビルをも華やかに彩った。まるで異世界のような風景だった。ただその美しさにはどこか、僕達には到底手出しできないような冷たさがあった。壮大で美しいのにその景色は、僕達が生きているのとはまた違う世界にあった。僕達がどうしようとも、あの美しい世界にはとどかないし、あの世界の一部にはなれない。薄らぼんやりとした記憶の中でも、そういう寂しさは、まるで今の事かのように感じる。
駅の前に着くと、かろうじて何人か人が居たが、それにしてもこの時間帯にしては静かだった。急いで改札を通った後、少なかったパスモの残高をチャージし、僕はとりあえず東横線のホームへと向かう。いつか、気になって首都圏の路線について調べた事があり、主要な駅や路線はある程度記憶していた。時刻は8時40分。帰りの事も考えると、残された時間は一時間半程度だ。改めてスマホで路線を確認しつつ、しんとしたホームで電車を待っていた。
電車に乗り込みドアが閉まると、なんだか取り返しのつかない事をした気持ちになった。そのためか、逆に
今まで感じていた不安や緊張はパタリと止み、僕の中にあった幾つもの言葉もいつの間にか消えていった。電車の窓から見える夜景にも、震えているこの体にも、僕の意識は向かない。電車の音やその空気は、確かに僕の心に響いてくるが、しかしその心にさえも、意識が向くことはなかった。
車内に入った。久しぶりにかぐ匂いだ。電車はものすごいスピードで地下トンネルを駆け抜ける。ガタンゴトンという音とともに、トンネル内の街灯が窓を通過する。速度が変化すると吊り革が揺れ、椅子に座っていながらも加速度の変化を感じる。まるで子供の頃のようだ。初めて一人で電車に乗ったときのような緊張、そしてこの胸の高鳴りを、まさかもう一度味わうとは、あの頃でも思っていなかったろうに。
アナウンスの一つ一つも、やけに胸に響いて来るのが分かる。まるで映画のワンシーンのように。地下鉄の窓から見える景色は淡々としており、時間は永遠のようで一瞬だった。駅構内の経路に迷いながらも、なんとか電車を乗り換えた。さすがにここまでくると、電車にもちらほら人が乗っていた。全員が大人だった。そしてまた、淡々としたトンネル内の景色や揺れる吊り革を見ながらただ椅子に座っていた。
少しすると、段々と電車の音が変わってきた。ガタンゴトンという音が、段々と大きくなっている気がした。何だろう、と思ったその時、列車はトンネルを抜け、窓一面に神々しい光を放つ大都市が映った。
「はっ...」
思わず息を呑んだ。その景色はそれまでの想像とは異なり色味を帯びており、まるで太鼓の音の如く腹にまで響いてくる。ただその響きすらも、これまで同様にまるで他人のもののようだった。
「次は、押上、東京スカイツリー前、押上、東京スカイツリー前でございます。お降りのお客様はお忘れ物のないよう…」
車内にアナウンスが響く。膝の上に置いていたバッグに手を通し、降りる準備をした。
駅舎内には、いくつかゲームセンターにあるような、小さな電車のアトラクションがあった。小さい子供もよく来る駅なのだと思う。ただ、やはりこの時間になると子供もいないようで、沢山の大人が歩いていた。上着をはおってはいたものの、駅の出口から吹いてくる風は肌寒い。ちょうど、近くにいくつかの自動販売機があった。僕はバッグから財布を出し、ホットレモネードを買った。財布の中には、無防備に一万円札15枚が入っている。確か5年前のあの日、銀行から下ろした僕の全財産だ。以来、一切使っていない。家に入れば、お金を使うことは無い。欲しい本は智也さんにネットで買ってもらっていたし、料理も家にあるものでしていた。ゴロンガシャン、と音を立てて、レモネードが出てくる。温かかった。
駅を出ると、太い歩道が両側に伸びていた。辺りはまるで祭りの夜のように眩しい。そして後ろを振り返ると、赤紫色に光る東京スカイツリーがそびえ立っていた。山よりもずっとずっと高く、まるで針のようだ。歩道には沢山の人が歩いており、大半の人は今から帰る様子だった。とりあえず、僕は歩道を歩いた。歩く度に新しい景色が見えてくる。飽きる暇もなかった。歩道沿いには店があり、客もいて、眩しい程に明るいのだが、その割には静かだ。活気があるのだか無いのだか、そんな事をふと考えながら、歩道を歩き続ける。そして気づけば、僕が元いた場所に戻っていた。スカイツリーの周りを一周したのだ。然し、拓也はどこにもいなかった。所詮は妄想に過ぎなかったのかもしれない。こんなに沢山の人の中から一人を見つけるなんて不可能だろうし、ここに入る確率すらも低い。冷めて生温かくなったレモネードを飲み干し、駅の出口のすぐ近くにあったゴミ箱に捨てた。
足がつかれたのか、急に力が入らなくなり、すぐ隣にあったベンチに座った。歩道沿いには木々が植わっていたが、皆元気が無さそうだった。当たり前だ。近くに仲間がいないのだから。建物のベランダに植わっているツタ植物も色味を失っていた。空を見上げても、雲も星も見えない。ただそのかわりに、地上では輝かしい星々が光っていた。何だか息苦しいところだ。そろそろ帰りたくなってきた。もしかしたら、久しぶりに外に出てみたかっただけなのかもしれない。だとすれば、もう十分満足したはずだ。こういう景色は、たまに少し見るくらいがちょうどいい。駅舎の時計は、9時50分を指していた。
「ふー...」
一息ついた。帰れば、また元の日々が続くだろう。拓也だって、そんなにお金を持っているわけでもないだろうし、少しすればきっと家に帰るはずだ。ただ、顔を上げると一棟のビルが視界に入った。少し離れたところにある薄ピンク色の小さなビルだ。僕達は5年前、あのビルに登って景色を見た。出口を出てすぐ、二人でどこか登れそうなビルがないかと探して、あのビルに登ることにしたのだ。もしかしたら、あそこに居るかも知れない...。そう思い、最後に近くまで行くことにした。
ビルは川の向こうにあった。ここらへんのビルで唯一このビルだけが外階段から周りを見渡すことができる。ところどころに居酒屋らしき飲食店があった。どこからか、香ばしい焼鳥の匂いが漂ってくる。遠くからくる車のヘッドライトが道を照らす。ビルの上を見上げた。もう一度登ってみようと思い、僕はビルとビルの隙間に入った。そしてその瞬間、後ろから来たもう一台の車が、階段を照らした。上の方に僅かながらに人影が見えた。
「拓也...」
僕はそう呟き、階段を駆け上がった。各階ごとに鉄格子越しに外の景色が見渡せ、登るごとに段々と遠くまで見えるようになっていった。半分くらいまで登り、僕は鉄格子と天井の間にある隙間から上を見上げた。拓也の顔が見えた。こっちを見て驚いた表情を浮かべていた。僕はさらに速度を上げ、階段を上がった。上からもドタドタと駆け下りてくる音が聞こえる。音は、段々と近づいてくる。そしてついに、自分の真上の天井を走る音がした。
「拓也!!」
拓也が視界に入るや否や、思わず大きな声で叫んでしまった。ぶつかる寸前で、僕達は止まった。
「颯季...会えて良かった。」
僕とは違い、小さな声で拓也はそう言う。
「こっちおいでよ、綺麗だよ」
そう言い、拓也は階段を登っていた。僕もそれについて行った。階段を登っている間、僕達は無言のままだった。何を喋ればいいか分からなかったからだ。そして一番上の階に着いた。そして僕達は、鉄格子の間から顔を出し、景色を眺めた。あの時と同じだ。過去と今が繋がっていると気づいたその瞬間、全身に鳥肌が立った。これまで響いて来なかった感覚が、一斉に僕の心に押し寄せる。他人事のように感じていた寂しさも不安も感動も、全てが押し寄せてきた。まるで過冷却水が自身が冷え切っていることに気づいて一斉に凍るように、全てが今この瞬間の僕に正面衝突してくる。
そして一気に足に力が入らなくなり鉄格子をつたるようにしてその場にしゃがみ込んだ。涙が溢れてくる。隣の拓也は、無表情のままずっと景色を眺めていた。そんな拓也を見て、ますます涙が出てきた。呼吸も上手くできない。ただ、その景色は僕の求めているものではなかった。違う、ここじゃない。宙を掴むような虚しさが、さらに僕の胸を、呼吸を締め付けてきた。
妣が國へ いつき @m-ituki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。妣が國への最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます