*
ケーナを布で拭いながら、嘉島が目線を部屋の隅に動かした。
「気になってたんだけど、あれ、ベース?」
まだ荷解きもせずに積んだままの段ボール箱。
その横に、黒いソフトケースに入ったベースが立てかけてある。
火事のときも、こいつは無事だった。
もっとも、高校を卒業してからずっと、触ってはいないけど。
俺が頷くと、嘉島の目がキラリと光った。
「弾けるの!?」
また、ウンウン。
「いいこと考えた!今度の火曜日、合わせようよ!」
身を乗り出して、「うん」以外の答えが返ってくるとは思ってない、子どもみたいな笑顔。
あっけに取られた俺の手の中で、チャフチャスが返事をするようにチャリ、と鳴った。
「美音さんがベース。俺はケーナ。中音域薄いから、俺がギター録音してくるよ。二人とも足首にチャフチャスつけてさ!どう!?」
嘉島の純粋な熱が、俺にぴたりと貼りついていた最後の薄い膜を溶かした。
チャフチャスも、ベースも、声が出なくたって弾ける。
俺にも……音が出せるんだ。
俺はうん、と一度、力強く頷いた。
嘉島は、それまでとは違う、音楽療法士の顔で、にこっと笑った。
玄関まで見送りに下りると、リビングから母と祖母が出てきていた。
「じゃあ練習、頑張って!俺もコンドルが飛べるように頑張る!」
嘉島が握りこぶしで宣言した後、少し視線を落としてから、もう一度目を上げた。
「もし合わせてみて、美音さんも納得の素敵な仕上がりになったら──俺がボランティアで顔を出してる失声者の会で、お披露目してみない?きっとみんな、すごく喜ぶと思う」
その穏やかで深い瞳が、俺を開かれた世界へと誘った。
深い水底に、細い光が届いていた。
「失礼します!」
嘉島がお辞儀をし、ドアの向こうに消える。
戻りがけに祖母と視線が合った。
目の周りが赤く、目じりに新たな涙が滲んでいた。
「コンドルが飛んでいく、おばあちゃん、大好きだよ」
その言葉に、俺は頷いて笑おうとしたけど、祖母につられてうまく笑えず、皺だらけの手をとってぎゅっと握り返した。
まだ嘉島の気配の残る部屋に戻り、ベースのケースを掴んで床に座りこんだ。
懐かしい。あんなに夢中になったのに、大学に入って以降、触ったのは一、二度だ。
ジジ……とチャックを開けるのも、ちょっとどきどきした。
ネックを掴んで、引き出す。
ボディからヘッドまで、すべてが黒い、俺のベース。
貯めてたお年玉と入学祝をつぎ込んで買った、相棒だ。
楽しかったな──脳裏に鮮やかに蘇る、あの頃。
それなりに本気で、全国大会には、あと一歩足らなかった。
構えると、まるでずっと弾いてなかったのが嘘みたいに、手に馴染んだ。
軽くフィンガーで弾くと、ビィン……とかすかな金属音が部屋に響き、すっと消えた。背中がざわっとした。
ふふ……指が痛い。全然だめだな。
口元をむずむずさせながら、嘉島が置いてった楽譜を前へ持ってくる。
コード進行を目で追いながらルート音を弾くと、頭の中のケーナの音と重なって、アンデスのメロディになった。
ベースをぎゅっと抱き寄せて、目を閉じる。
指先の痛みが、ちゃんと“生きてる”って知らせてくれる。
声がなくても、音はある。
声がなくても、伝わる。
できることがある。
俺は、生きてる。
ベースをゆっくり立てかけ、窓辺に近づく。
庭の満開の金木犀に誘われるように窓を開けた。
濃く漂っているはずのその香りも、ほとんど分からない。
それでも──抜けるような空の青さが、目に刺さるようだった。
冷たい風に、カーテンが柔らかく揺れる。
その揺れが、まるで拍を刻むようで──
俺は、胸の奥で小さくリズムを取った。
コンドルが、飛んでいく。
まだ不器用に、ぎこちなく。
けれど確かに、風に乗って。
俺の中の何かも、少しだけ、動き出していた。
了
虚無に抗う愛の美学 episode2 ひろの @yunyun6
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