白川津 中々

◾️

「同じ程度の人とお付き合いしなさい」


 母に何度も言い聞かせられてきた言葉が毎日頭の中で繰り返されるのは文実あやみのためである。


 文実と男女の付き合いを始めたのは春頃だった。いつも行く本屋でうんうんと唸っている彼女を見て声をかけてみると「村上春樹むらかみはるきの本が欲しい」という。しかし、春樹の何が欲しいかと聞いても「村上春樹」としか答えない。最近新作を出しているわけでもないから、ひとまずねじまき鳥クロニクルとノルウェーの森を探して渡してやったら随分嬉しそうにして「ありがとうございます」と礼を述べられた。村上春樹など読むような人間は嫌いだったが、彼女の朗らかな笑顔は好ましく思えた。


 それから数日後に、また同じ本屋で彼女を見かけた。「坊ちゃんが欲しい」と歯切れが悪く心許ない口調だった。「春樹は読んだのかい」と聞いてみると、気まずそうにはにかむばかり。なんだかその様子に、僕はいいようのない焦りのような衝動に駆られた。


「一緒に夕食でもどうですか?」


 思わずそんな台詞を口走ってしまった。書店で女を食事に誘うなど聞いた事がないうえ初対面に近い関係である。あまりに軽薄で、言葉を出した瞬間にのぼせたような汗がじわりと吹き出す。「嫌です」と返ってくるに決まっている。僕は、先に頭を下げようとした。ところが、「はい、いいですよ」と、朗らかな笑顔を見せられたのだ。僕は少し動揺しながらも坊ちゃんだけ買って、二人でダイニングバーに入り、カウンターで肩を並べた(ここで初めて彼女の名前を聞いた)。


「大学で、読んだ本の好きな表現について二千文字で説明しないって課題が出まして」


 溜息混じりに文実はそう落とした。春樹は難しいと教授に相談し、坊ちゃんを勧められたという。課題の程度が低く、通っている大学も聞いたこのない名前で、恐らく受け皿の広いところなのだろうと合点し、彼女の知的レベルも推し量れてしまったから、僕は「そうですか」とだけ返した。それから彼女が地方から出てきて一人で部屋を借りている事や、親しい友人ができない事を聞かされた。

 僕は頭が悪く、周りに馴染めない彼女に哀れさを覚えた。きっと、酒のせいで過度に感情が昂っていたのだろう。彼女がグラスについた口紅を指で拭うのを見て嫌な気持ちにならなかったのもきっと、酔いが情緒を優先させていたからに違いない。


 僕達はもう二、三杯飲んでから店を出て、それから一緒に僕の部屋に泊まって、日付が変わる頃に恋人になった。


 付き合っていくうち、文実の無邪気さと懐の深さはまったく愛らしく感じられたのだが、一方でがさつさ、無知無学、マナーの悪さにどうしても目がいってしまうのだった。箸の使い方から置き方。ナイフフォークのぎこちなさ。日常の生活態度。暮らし方。全てにおいて野蛮といわざるを得ず我慢ならなかったが、彼女の朗らかさを前にすると、口を挟めなかった。


 今年、彼女は大学を卒業する。


「働くけどさ、私。やっぱり。早く結婚したいな」


 そう言う文実に愛想笑いで答える。頭で繰り返されるのは、「同じ程度の人とお付き合いしなさい」という母の言葉。このまま文実と一緒になっていいのか、それで幸せになれるのか、彼女の教養のなさを許容できるのか、不安ばかりが募っていく。


 それでも、僕は彼女の笑顔を手放したくないと考えてしまう。それは一時の感情かもしれないし、生涯の中で守るべきものなのかもしれない。いずれにしても僕自身の中で結論は出せないでいる。文実の部屋にあるねじまき鳥クロニクルとノルウェーの森と坊ちゃんはもうずっと埃を被っていて、読まれた痕跡はない。

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白川津 中々 @taka1212384

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