わたしだけのお疲れ様刑事
國村城太郎
わたしだけのお疲れ様刑事
古びた建物の事務所で、在庫が切れるまで使い続けている蛍光灯の明かりの中、ただキーボードの音だけが響いていた。
来年には建て替えで移転が決まっている警察署の一室が、私――小山美沙の職場である。
来客がない限り、カタカタと私の打つキーボードの音と、蛍光灯の唸る音だけが、この部屋で生きているもののようだ。
この場所の主な仕事は、遺失物・拾得物の管理。窓口業務と事務処理の両方を、この小さな部屋で一人でやっている。
私が休んでいる日だけは、他の事務職員さんが代わりに入るけれど、ほとんどの日は、三十路の派遣の私がこの部屋の主だ。
食堂でご飯を食べていても、誰も気に留めない。窓口の向こうに訪ねてくる一般の方々と話す機会の方が、この警察署の中の人と交わす言葉の数より多い。
落とし物を管理するだけの
そんなふうに思われているんじゃないか?
生身の私は、実は誰にも姿が見えていないんじゃないか?
そんな気までしてくる。
でも、そんな私のことを見てくれる人が、この建物の中に一人だけいる。
名前は知らない。たぶん生活安全課の刑事さん。
仕事の帰りにすれ違うと、必ず柔らかい笑顔を見せて、私をちゃんと見てくれる。
そして、「お疲れ様」と声を掛けてくれるのだ。
「いつもお疲れ様です」
と、私もそう声を返す。
その人のことを、心の中で私は――『お疲れ様
食堂や廊下ですれ違っても、私たちはいつも「お疲れ様」と言い合う。
それだけの仲だったけど、それでも私にとって、それはただ一つの――私を“見た上で”掛けてもらう唯一の声だった。
ある日の午後、駅前の交番経由で持ち込まれた拾得物の処理をしていた。
本来付属するべき資料が見当たらない。私が休んだ日に受付されたもので、資料不備のため保留せざるをえない案件だった。
内容は、銀色の小さなペンダント。中には古びた男女の写真が入っていた。
トントンとドアがノックされる。中からの来客なんて珍しい、とそう思った私は、ペンダントを開いたまま、机の上に置いた。
「はい、どうぞ」
そう声をかけると、扉が開く。
「失礼します」
入ってきたのは、『お疲れ様
「すみません、生活安全課が扱っている事件の関連資料を取りにきまして」
取ってほしい資料を聞いて、私がロッカーを探して戻ると、彼はじっと開いたままのペンダントを見つめていた。
「あの、どうかなさったんですか? それが何か?」
私が問いかけると、彼は視線をこちらに向けた。
「これ……事件の資料に似てる」
「え?」
言葉が出ない私をよそに、彼は拾得物についているタグをくるっと裏返して、注意深く見ている。
「これ、裏面書き損じてるね。ちょっとライト貸してくれる?」
私がライトをつけ、二人でタグを覗き込む。
「八千二百……うーん、下二桁は読めないね」
「たしかに読めないですね。困ったなぁ」
そう呟きながら、彼が私の首にかかったIDカードを見ている。
「
彼が私の名前を呼んだ。その瞬間、心が跳ねた。
「は、はい、そうです」
彼は右手を前に差し出して、笑顔をつくる。
「生活安全課の
その言葉に、私は思わず背筋を伸ばした。
「はい!」
勢いのまま、彼の手をぶんぶんと振ってしまう。頬に上る熱を誤魔化すように、私は立ち上がった。
「わ、私、八千二百番台の資料を全部あたってみます」
そう言って、資料ロッカーへ向かう。
背中から、「ありがとう」という声がかかった。
その声が、私の背中をそっと押してくれる。
私は手早く該当する資料を取り出し、順に確認をはじめた。
まず私が資料を見て、明らかに違うものと判断できないものに分類する。
判断できないものを、田嶋さんが確認していく。
そうやって、二人で協力しながら片付けていった。
「結局、田嶋さんの担当の事件とは直接関係なかったですね」
「小山さんが丁寧な仕事をしてくれたおかげで、関係がないってことが分かった。これも一つの解決だよ。ありがとう」
“丁寧”と褒めてもらう。
できて当たり前、できなければ苦情を言われる。
そんな仕事しかしてこなかった私に、田嶋さんのその言葉は、頭と胸の奥の奥に、静かに染み込んでいった。
「それに、持ち主もおそらく分かった。一緒に拾われていた袋に診察券が入ってた。この人を調べたら、きっとたどれると思うんだ」
田嶋さんは、少しだけ笑って私を見た。
「このペンダント、落とし主が分かったら、一緒に返しに行かないか?」
「え?」
机の上のペンダントの銀面に、二人の顔がそっと並んで映っていた。
数日後の午後、私は田嶋さんの運転する車で、田嶋さんの担当している事件に関係する、ペンダントの持ち主を訪ねていた。
「ほんとに、わざわざありがとうねぇ」
ペンダントの写真に面影のある、上品な老婦人が出迎えてくれた。
「これ、亡くなった主人の形見なのよ」
婦人はペンダントを開き、中の写真を私たちに見せて言った。
「若い頃の主人と私よ。あそこの公園で撮ったの。ふふ、いい男でしょ」
そう言った婦人の目が潤んでいる。
ほろほろと溢れた涙が、ペンダントの銀色にぽたり……と落ちた。
ペンダントと水滴の両方に、私たち二人の顔が跳ね返っていた。
帰りの車の中。
老婦人の感情の余韻のまま、私たちは何となく黙ったままシートに揺られていた。
言葉はなかったけれど、二人とも満ち足りている――そのことが自然に分かった。
赤信号で停車した時、彼が私の方を見た。
「今日、この仕事をしていて、はじめて心からよかったと思いました」
私も彼の方を見つめた。
「そう、それは良かったね。お疲れ様、小山さん」
眩しい彼の笑顔が、まっすぐに心に届いた。
信号が青に変わり、車が動き出す。
そろそろ陽が傾き、ビルの影が長く伸びて、走る車の向こうに溶けていった。
結局、車内で交わした言葉は、その一言ずつだけだった。
けれど見つめ合った余韻が、しっかりと私の胸に残っていた。
車が署に戻り、二人きりの時間は静かに終わりを告げた。
「ありがとうございました、田嶋さん」
「こちらこそ、ありがとう。そして――お疲れ様、小山さん」
そんな言葉を残して、二人はまた日常へと戻っていった。
翌朝、いつもの事務室に出社して、仕事の準備にパソコンの電源を入れる。
ジジ、と時折唸る蛍光灯の音が、いつものように私を迎えた。
部屋の外から、軽いノックの音がする。
「はい、どうぞ」
そう声をかけると、ドアは開かず、代わりに声が届いた。
「お疲れ様です、小山さん」
「お疲れ様です、田嶋さん」
ドアの前から離れていく足音が、廊下に消えていく。
ふと机の横を見ると、そこに何か置かれていた。
“8200番”のタグが添えられた缶コーヒー。
誰が置いていったのか、すぐに分かった。
私は笑って、その缶を手に取ると、プルタブを開けた。
プシュッという音が、蛍光灯の唸る音と混じり合っていく。
お疲れ様
わたしだけのお疲れ様刑事 國村城太郎 @jes08
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