雪の夜、灯りの向こう

國村城太郎

『雪の夜、灯りの向こう』

 クリスマスイブの煌びやかな街の灯りとは対照的に、無機質なLEDの電灯に照らされた夜のオフィス。静かな中で白石真帆(32)は独り、パソコンの前に座って作業をしていた。

 

 やっと作業が終わり、傍らのコーヒーを飲みながら、今日の夕方、何度目かの“一生のお願い”をしてきた同期の早苗のことを思う。彼女がクリスマスデートに行けるよう代わってあげた残業の対価が、銀洋亭のAランチ一回で釣り合っていたのか……真帆は考えていた。

 

 窓の外を見ると、“ホワイトクリスマス”と言えば聞こえはいいが、明らかに吹雪といった天候だった。

 何気なくネットニュースを開くと、電車は止まり、首都の交通は麻痺しているようだ。

 

「何よ、これ。帰れないじゃない」

 

 真帆はそうこぼすと、椅子に深く腰掛けてため息をつく。

 

「まぁ、彼氏がいるわけでもなし、クリスマスイブに独りなのは、家でも会社でも一緒よね。しかしこんな天気じゃ、サンタさんも大変だね」

 

 窓を叩く風の音だけが聞こえる寒々としたオフィスで、ディスプレイの光が真帆の顔を照らしていた。

 せめて温かいものでも飲もうかと、備え付けのディスペンサーから紙コップにコーヒーを注いで自席に戻ったとき、ドアのノブがガチャリと音を立てた。

 

 入ってきたのは川原悠人(27)。今は異動して別の部署にいるが、新入社員の時に真帆と同じ部署に配属され、真帆がOJTで指導していた後輩だった。

 

「あれ? 白石先輩やないですか。どうしはったんですか?」

 

 悠人が特徴的な関西弁で問いかけてくる。

 

「残業よ。君こそどうしたの?」

 

「僕もさっきまで残業してまして。帰ろうと思って駅まで行ったら電車止まってまして、雪がないだけましやと思って戻ってきたら、この部屋に明かりが見えたので……」

 

 真帆は、まだ湯気の立つ紙コップをすっと悠人に差し出す。

 

「これは?」

 

「まだ口つけてないから。冷えたでしょ? 飲みなさいな」

 

 悠人は紙コップを受け取ると、ゆっくりと温かいコーヒーを口に流し込む。

 

「ふう、あったかいのはええですね。でも先輩のなら飲みさしでもよかったですけどね」

 

 そう、冗談めかして笑う。

 

「バカね」

 

 飲み終わった紙コップを奪うように取り、くしゃっと潰してゴミ箱に放り込んだ。

 

「せっかくだし、一緒にここでクリスマスパーティでもしようか? 前のコンビニで何か仕入れてきてよ」

 

 真帆はそう言って、バッグから財布を取り出し、何枚かの札を手渡す。

 

「ひさしぶりに先輩のパシリですね?」

 

 そうおどける悠人に、真帆は“いっていって”と手を上下に振って答えた。

 

 戻ってきた悠人は、コンビニの赤と白の袋を両手に提げ、肩に軽く雪を積もらせながら冷気とともに入ってきた。

 

「ありがとう」

 

 そう言いながら、真帆は持って帰ってきた料理を並べていく。

 

 コンビニおでんとクリスマスケーキ、ホットミールのチキンの唐揚げ、そしてコンビニでも買える安ワインの瓶。統一性のないメニューが会議スペースに並べられた。

 

 二人は机を挟んで座り、紙コップにワインを注いで乾杯をする。

 

「メリークリスマス。大雪に乾杯」

 

「メリークリスマス。素敵な先輩に乾杯」

 

 二人はそうコールして、ワインを飲み、おでんを口に運ぶ。

 

 寒々しかった部屋が温かく感じたのは、飲んだアルコールのせいだけではなく、ずっと欠けていた“人との対話”のせいかもしれない。

 

 料理とお酒が進み、二人は緩やかな空気の中、雑談を始めていた。

 

「覚えてます? 最初に二人で出張行った時の帰りの新幹線」

 

 酔い覚ましに、湯気の立つ緑茶の入った紙コップを掲げながら悠人が尋ねる。

 

「ああ、新幹線途中で止まっちゃって、駅弁とビールで、こんなふうに乾杯したわね」

 

 過去に記憶を飛ばして、真帆はその時と同じようにビールをゴクリと飲み干す。

 

「あん時も、それに今日も、先輩と一緒でよかったです……」

 

 少し酔いが回った悠人はそんなことを口走る。

 

「先輩、いっつも頑張ってましたよね。いつも真剣で、仕事に打ち込んで、すごい人やって思ってました」

 

 真帆は頬がゆるみ、それを誤魔化すように新しいビールの缶のプルを押し上げる。

 

 一瞬静かになったオフィスに、プシュッと炭酸の立ち上る音が響いた。

 

「バカね」

 

 さっきの軽い言葉とは違って、同じ音でも、こもっている気持ちは異なっていて、真帆はビールをぐっと流し込み、悠人を見つめた。

 

「だって、あのコンペに負けた時だって、僕覚えてますよ。頼りない先輩でごめんね、みんなあんなに頑張ってくれたのにって謝ったあと、会議室で一人で泣いてしまうくらい真剣に仕事に打ち込んでて。尊敬してました」

 

 熱のこもった悠人が真っ直ぐ見つめてくる。その視線に火傷しそうな熱さを感じて直視できず、真帆は視線をさまよわせる。

 

 そんなところ見られていたんだ……と、仕事しか能がないから頑張るしかないとがむしゃらに働いてきた社会人としての自分を、認めてくれる人がいたことが、真帆の心をあたためてくれた。

 

「ありがとう。ねえ、もう一度乾杯……しない?」

 

「もうだいぶ酔ってるんですけど、先輩の誘いならしょうがないですね」

 

 つきあって、悠人は新しいビールのプルタブを押し上げると、そのビールを持った手を真帆に向かって掲げる。

 

「頑張り屋の先輩に乾杯」

 

「気の利く後輩に乾杯」

 

 赤いロゴの缶がふたつ、コンと打ち鳴らされた。

 

 天井の明かりが二人の影を床に落としている。

 

 いつの間にか窓に吹きつける雪と風は止まり、建物の外には通る車もなく、静寂が街を包んでいた。

 

 オフィスの二人の周りにも、静かな時間が穏やかに流れていた。

 

 二十四時を知らせるオフィスの時計の電子音が鳴った。

 

「メリークリスマス」

 

 どちらが言うともなく、クリスマスの訪れを祝う声が静かなオフィスに響き、そして天井からの影が一つに重なった。

 

 悠人の置いたお茶の湯気は、もう見えなくなっていた。

 

 外が白み始めていた。まどろみの中で、来客用のソファに並んで座っていた二人は、すっと同時に立ち上がった。

 

「もう、電車動き出したみたいですわ」

 

 スマホに視線を落とした悠人が言う。

 

 壁際のスイッチまでゆっくり歩いて行った真帆は、カチリと電気を消した。

 

 部屋の白い人工的な明かりが消え、外からの淡い金色の朝日が部屋を照らし始める。

 

「ちょっとトイレ行ってきます」

 

 一人になった真帆はテーブルの上のゴミをまとめていたが、ふと紙コップに赤いペンですすっと何かを書いた。

 

 そして小さな鏡で化粧を直すと、紙コップに一瞬顔を近づけた。

 

 朝の静寂の中、真帆の様子を見ている者は誰もいない。

 

 悠人が戻ってくる。

 

「そろそろ帰って、ちゃんと寝なきゃね」

 

 自席に掛けてあったコートをすっと羽織り、真帆は荷物を抱えると最後に悠人を見つめ、ゆっくり唇を動かした。

 

「ア・リ・ガ・ト」

 

 それだけの音を残して、真帆はオフィスを出て行った。

 

 残された悠人は、まとめたゴミの入ったコンビニ袋を捨てようとして、一つだけ外に残されていた真帆の飲んでいた紙コップを見つけ、首をかしげて持ち上げた。

 

 視界の端に赤いものを見つけて、くるりと紙コップを回すと、そこには「またね」という言葉と、ルージュで印された唇の痕があった。

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雪の夜、灯りの向こう 國村城太郎 @jes08

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