第三片 - 夢
「町工房と大学生が制作したロケットが月まで行った」
テレビから流れるニュースを右耳から取り込み左耳から出す。
夢。そんなものは子供の戯言。
社会に出てみてわかったことがある。
夢は相手にするだけ無駄。夢はあくまでも夢であり幻でもあることを。
画面の中では、工房の主人と大学生が涙を流して抱き合っている。周りには町の人たちが集まって、みんな笑顔で空を見上げている。
「...馬鹿馬鹿しい」
俺、
コンビニパンを片手に安いコーヒーをすする。
何の変哲もない部屋、なんの特徴もない人生。
六畳一間のアパート。壁には何も飾られていない。テレビの前には食べかけのカップ麺。洗濯物は部屋の隅に積まれたまま。
昔は違った。
高校生の頃、俺にも夢があった。
漫画家になりたかった。自分の描いた物語で、誰かを笑顔にしたかった。
大学時代も、バイトの合間を縫って絵を描いていた。投稿を続けた。でも、どこにも引っかからなかった。
就職活動が始まった。
周りはみんな内定を取っていく。焦った。とにかく、どこでもいいから内定が欲しかった。
そして今の会社に入った。
気づけば三年が経っていた。
画板はクローゼットの奥。ペンタブレットは埃をかぶっている。
「夢なんて、所詮は夢だ」
いつも通り支度をして靴を履き取手に手を掛ける、憂鬱な一日の始まりだ。
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朝、安いアパートを出たあとバスで30分の会社へ向かう。
現在時刻 7時10分。
いつものバス停。いつもの景色。いつもの人々。
全てが灰色に見える。
途中のコンビニで昼ご飯を買う。
自炊。いつしたか覚えてもいない。
「そろそろ健康診断は危ないかな」
そう思いながらツナマヨおにぎりを一つ、エナジードリンクは忘れられない。
レジの店員は無表情だ。俺も同じような顔をしているんだろう。
「ありがとうございました」
機械的な声。機械的な返事。
そんなこんなで会社に到着。
社屋は古い。エレベーターはよく故障する。階段を上がって三階。
ドアを開けると、いつもの光景。
パワハラ上司の課長が机を叩いている。
社長の愛人と噂される事務員が、優雅にコーヒーを飲んでいる。
愛想のない同僚たちが、黙々とパソコンに向かっている。
俺も同じようなものか。
「おはようございます」
誰も返事をしない。
自分の席に座る。パソコンを立ち上げる。メールボックスには、昨夜のうちに溜まった業務連絡が50通。
ため息をつく。
隣の席の
「...おい、今日も課長の機嫌悪いぞ」
「いつものことだろ」
「昨日、営業成績が悪いって社長に怒られたらしい」
「...八つ当たりかよ」
「まあな。気をつけろよ」
桑田は三十手前。俺より二年先輩だが、同じように疲れた顔をしている。
昼、朝買ったツナマヨおにぎりをエナジードリンクで流し込む。
デスクで食べる。外に出る時間すらない。
今日はどのくらい寝られるだろうか。
昨日は二時間だった。一昨日は三時間。
「ちょっと来い!」
怒鳴ってきたのはパワハラ上司の課長だ。
なんの能力もないくせに俺よりも上の立場ということにただただムカつく。
俺はいつあの席に座れるのだろうか。
いや、座りたいのか?あんな席に。
今日の怒られメニュー 季節の同僚を添えて
呼ばれたのは俺と向かいの席の桑田。
応接室に連れて行かれる。
課長が腕を組んで待っていた。
「お前ら、何時だと思ってる」
「...12時半ですが」
「俺がまだ昼飯食ってないのに、部下が先に食うか?」
俺と桑田は顔を見合わせた。
「...すみません」
「すみませんじゃねえんだよ。お前ら、上司を敬う気持ちがないだろ」
どこぞのブラック企業だよ。
世の社会人はこれを日々耐えているのか。
課長の説教は三十分続いた。
昼休みはとっくに終わっている。
午後の業務が始まる。
電話応対、資料作成、外回り。
気づけば空は暗くなっていた。
「田中、この資料、明日の朝までに仕上げとけ」
課長が分厚いファイルを置いていく。
時計を見る。午後8時。
「...はい」
周りを見渡す。
まだ誰も帰っていない。
桑田が、力なく笑った。
「...また徹夜か」
「みたいだな」
コンビニで買ってきたエナジードリンクを開ける。
何本目だろう。
もう数えるのもやめた。
夜、帰宅できたのは夜の12時。
バスなんてものはとっくのとうに終了。
歩いて家まで着いた。
足が痛い。全身が重い。
これから何をしようか。
思いを馳せたが寝ること以外することはない。
いや、できない。
スーツのまま玄関に倒れ込んだ。
「...明日も、同じ日が続くのか」
目を閉じる。
でも眠れない。
心臓がバクバクしている。エナジードリンクのせいだ。
天井を見つめる。
テレビのニュースが頭をよぎる。
ロケットを作った工房の主人。大学生。町の人たち。
みんな、笑っていた。
「...羨ましいな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「俺も、昔は...」
意識が遠のいていく。
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翌朝、目が覚めなかった。
正確には、起き上がれなかった。
体が動かない。
頭が割れるように痛い。
スマホのアラームが鳴り続けている。
7時。
会社に行かなければ。
そう思った瞬間、体が震えた。
「...行きたくない」
初めて、そう思った。
でも、行かなければ。
無理やり体を起こす。
立ち上がろうとした瞬間、視界が真っ暗になった。
気づくと、床に倒れていた。
時間の感覚がない。
スマホの画面が目に入る。
午前10時。
「...やばい」
会社に電話しなければ。
手を伸ばす。
でも、指が動かない。
そのまま、意識を失った。
次に目が覚めたのは、白い天井の下だった。
「...ここは」
「目が覚めましたか」
白衣の女性、看護師だ。
「あなた、郵便配達の方が倒れているのを発見して、救急車で運ばれてきたんですよ」
「...そうですか」
記憶がない。
「過労ですね。このままだと危なかったですよ」
医師が入ってきた。
検査の結果を説明される。
極度の疲労、栄養失調、睡眠不足。
「しばらく入院してもらいます」
「でも、会社が...」
「会社より、命の方が大事でしょう」
医師は呆れたような顔をした。
入院三日目。
桑田が見舞いに来た。
「...よう」
「桑田...わざわざ、すまん」
「いや、俺も心配だったから」
桑田は椅子に座った。
「あのさ、お前が倒れた後、会社で色々あってさ」
「...何があったんだ?」
「労働基準監督署が入ったんだよ」
「え?」
「お前が救急車で運ばれたって話が、なんかSNSで拡散されて。匿名の通報があったらしい」
桑田は苦笑した。
「調査の結果、うちの会社、完全にアウトだって」
「...マジか」
「未払い残業代、パワハラ、労働時間の改ざん...全部バレた」
「課長は?」
「降格。社長も責任取らされるみたい」
しばらく沈黙が続いた。
「...で、お前、どうするんだ?」
桑田が尋ねた。
「俺?」
「退院したら、戻ってくるのか?」
考えたことがなかった。
いや、考えられなかった。
「...分からない」
「そうか」
桑田は立ち上がった。
「俺は、辞めるよ」
「え?」
「もう、あんな会社にいる意味ないだろ。お前が倒れて、俺も気づいたんだ。このままじゃ、俺も同じになるって」
桑田は笑った。
「次、探すよ。お前も、ゆっくり考えろ」
病室に一人残された。
窓の外を見る。
青い空が広がっていた。
とてもとても青い空だった。
入院中、ずっと考えていた。
俺は、何がしたいんだろう。
このまま、あの会社に戻るのか。
それとも。
退院の日。
医師に念を押された。
「無理はしないように。また同じことになりますよ」
「...はい」
アパートに戻る。
部屋は出て行った時のまま。
ただ、郵便受けに大量の郵便物が詰まっていた。
請求書、広告、そして...
一通の封筒。
会社からだ。
開封する。
退職勧奨の書類だった。
「...そうか」
笑った。
初めて、心から笑った気がした。
それから二ヶ月。
俺は無職だった。
貯金を切り崩しながら、転職活動をした。
最初は、同じような営業の仕事ばかり探していた。
でも、どこも似たような会社に見えた。
ある日、ハローワークで職員に言われた。
「田中さん、本当はどんな仕事がしたいんですか?」
「...どんな仕事、ですか」
「ええ。今まで、営業の求人ばかり見てますけど、本当にそれでいいんですか?」
考え込んだ。
「...実は、昔、漫画家になりたかったんです」
初めて、誰かに言った。
職員は微笑んだ。
「それなら、デザイン関係の仕事はどうですか?広告デザインとか、ゲーム会社とか」
「でも、そんな経験...」
「未経験可の求人もありますよ。見てみましょうか」
そこから、探す方向が変わった。
そして、一社から内定をもらった。
小さな広告デザイン会社。
給料は前の会社とほぼ同じだった。
ただ、面接で社長が言った言葉が印象的だった。
「うちは残業ほとんどないよ。定時で帰れる。その代わり、自分の時間で勉強してほしい。スキルを磨いてほしい」
「...本当ですか?」
「本当だよ。社員が倒れるまで働かせる会社なんて、続かないから」
社長は笑った。
「君の描いた絵、良かったよ。趣味で描いてるって言ってたけど、もっと磨けば絶対いいものができる」
涙が出そうになった。
新しい会社に入って三ヶ月が経った。
最初は戸惑った。
本当に定時で帰れる。
上司は優しい。
同僚も穏やか。
「これが...普通の会社なのか」
毎日、午後6時に退社する。
家に帰ると、まだ明るい。
何をしようか。
最初は戸惑った。
自分の時間、というものを忘れていた。
でも、少しずつ、思い出していった。
クローゼットから画板を取り出した。
ペンタブレットの埃を払った。
久しぶりに、絵を描いた。
最初はぎこちなかった。
でも、描いているうちに、昔の感覚が戻ってきた。
楽しい。
心から、楽しいと思った。
ある日、会社で新しい同僚が入ってきた。
名前は
「よろしく、田中さん」
「こちらこそ」
佐藤は気さくな男だった。
「田中さん、今度飲みに行きませんか?」
「え、いいんですか?」
「もちろん。同期みたいなもんでしょ」
久しぶりの誘いだった。
前の会社では、飲み会なんてただの延長労働だった。
でも、今は違う気がした。
「...じゃあ、お願いします」
金曜の夜。
佐藤と二人で居酒屋に入った。
「乾杯!」
ビールを飲む。
美味い。
こんなに美味いと思ったのは、いつぶりだろう。
「田中さん、前はどんな仕事してたんですか?」
「...営業です。でも、ブラック企業で」
「そうなんですか。大変でしたね」
「ええ、まあ...」
話しているうちに、酔いが回ってきた。
気づけば、色々なことを話していた。
前の会社のこと。
倒れたこと。
そして、昔の夢のこと。
「俺、実は漫画家になりたかったんです」
「へえ!いいじゃないですか」
「でも、諦めて...いや、諦めさせられて」
「今からでも遅くないんじゃないですか?」
佐藤は笑った。
「俺もね、昔ミュージシャンになりたかったんです。ギター弾いて、歌って」
「え、そうなんですか」
「ええ。でも、食えないから諦めて。でも、最近また始めたんです」
「...また?」
「はい。週末、ライブハウスで演奏してるんです。趣味ですけど」
佐藤は嬉しそうに話した。
「やっぱり、好きなことやってると楽しいですよ。仕事も頑張れるし」
「...そうですか」
「田中さんも、また描いてみたらどうですか?漫画」
「でも、もう遅いんじゃ...」
「遅くないですよ。この前テレビで見ました?ロケット作った町工房の話」
心臓が跳ねた。
「...見ました」
「あの人、何歳だったか知ってます?28歳ですよ、田中さんと同じ」
「...」
「あの人だって、諦めかけてたんでしょう。でも、やったんです。だから、田中さんも」
佐藤はグラスを掲げた。
「夢、諦めないでくださいよ」
涙が出そうになった。
「...ありがとうございます」
グラスを合わせる。
カランと、小さな音がした。
その夜、酔いながらアパートに帰った。
部屋に入って、画板を見た。
描きかけの絵がある。
「...やるか」
椅子に座った。
ペンを握った。
そして、描き始めた。
何時間経ったか分からない。
気づけば、夜が明けていた。
でも、疲れていなかった。
むしろ、満ち溢れていた。
「...楽しい」
心から、そう思った。
それから、俺は変わった。
仕事が終わると、家で絵を描いた。
週末は、漫画のネームを切った。
そして、三ヶ月後。
一作、描き上げた。
投稿した。
結果は、まだ分からない。
でも、それでもいい。
また描けばいい。
何度でも。
ある日、佐藤が声をかけてきた。
「田中さん、今度ライブ見に来ませんか?」
「ええ、行きますよ」
「あ、それと...田中さんの漫画、読ませてもらってもいいですか?」
「...いいんですか?」
「もちろん。楽しみにしてます」
嬉しかった。
こんなに嬉しいと思ったのは、いつぶりだろう。
夜、部屋で一人、コーヒーを飲む。
テレビをつける。
ニュースが流れている。
「町工房の次なる挑戦は...」
画面の中で、工房の主人が笑っている。
「夢は、諦めなければ叶うんです」
俺も、笑った。
「...ああ、その通りだ」
窓の外を見る。
夜空に、星が輝いていた。
あのロケットは、今頃、月の周りを回っているんだろうか。
いつか、俺の描いた漫画も、誰かの心に届くだろうか。
分からない。
でも、いい。
今は、ただ前を向いて進むだけだ。
机に向かう。
新しいページを開く。
ペンを握る。
そして、描き始める。
夢を追いかける音が、静かに響き続ける。
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月への行進 夜野猫弥 @Yoruno-necoya
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