蝉時雨の夏

白雪花菜

蝉時雨の夏

 その夏、薫は父に連れられ、県南部の田舎町へ向かった。その田舎町には、母方の祖父母が住んでいた。

 薫が小学校に入る前までは、一家でその田舎町へ泊りで訪問していたらしいが――薫はよく覚えていなかった――、薫が小学校へ上がると、母方の祖父母と会うのは、薫の家へ訪ねて、という方法に変わった。

 なので、薫は母親の故郷という場所をほとんど覚えていなかった。

 母の生まれ育った家というのは、坂道の途中にあった。

 坂道を見上げると、緑豊かな山が薫の目に映った。その山は途中、切り開かれ、道路が走っていた。道路を照らすための大仰なライトもある。


「田舎でしょう? びっくりしたよね」


 薫の祖母が薫に微笑みながら話しかけた。


「――少しだけ」


 薫は淡々と答えた。


「薫、お父さんはお母さんと大事な話をするから、お家に戻るね。――お義父さん、お義母さん、薫を頼みます」


 薫の父親はそう言うと、己の義理の両親に頭を下げた。

薫の祖父も祖母も、気にしなくていい、と異口同音に答えた。

 薫の父には両親がいない。薫の幼少期、薫の母や父が薫の面倒を見ることが難しくなると、この祖父母が面倒を見ていた、らしい。

 薫は生憎覚えていなかったし、ここ三、四年、薫は祖父母と会っていなかった。

 薫は父に別れを告げて、久しぶりに入るという、祖父母の大きな家に入っていった。



 夏の日差しは薫にとって厳しく、薫はずっと、祖父母の家の中でも風通しの良い畳部屋で、持ち込んだ本を読んでいた。

 初め、祖父母は薫を外へ連れ出そうとしていたが、二、三日も経つと諦めた。


 そんなあまり積極的ではない薫の毎日だったが、薫が祖父母の家にやってきて二日後の朝十時頃、薫の祖父母の家に来客があった。

 来客は薫と同じくらいの背丈の少年だった。

 薫は二日前に薫を迎えてくれた祖父母と同じように、少年を迎えた。祖父母によると、その少年は薫の従弟らしい。薫と同じく小学校五年生だそうだ。


「翔太君のお母さんに子どもが生まれるんで、うちで預かることにしたんだよ」


 薫の祖父が――翔太の祖父でもあるが――そう言った。


「俺、翔太っていうんだ、よろしくー、昔は一緒に遊んだことあったらしいよー」


 翔太は明るく言った。

 薫はよろしく、と淡々と言った。



 翔太が来たところで、薫の毎日は変わらない。

 薫は涼しい部屋で本を読んでいた。窓辺には、南部鉄器の風鈴が吊るされており、風に揺られて、リーンリーン、という高らかで美しい、涼しげな音が鳴る。


「おーい、いつも何やってんの?」


 翔太が突然、薫がいる部屋に入ってきた。


「お、畳じゃん。俺んちにもあるぜー、この部屋と違って夏は暑いけどなー」


 翔太は部屋を見渡して言った。暫く、翔太は部屋を見渡していたが、薫が持ち込んだ本の中に昆虫図鑑がることを目ざとく見つけた。


「昆虫図鑑あるじゃん、でも実際見た方が楽しいぞ? 外行こうぜ」


 翔太がそう言って、薫の腕を引っ張った。薫は、渋い顔をしながら、立ち上がった。

 居間の横の廊下を通るとき、祖母が居間から顔を覗かせた。祖母はにっこりと笑っていた。


 翔太の言う、“外”とは、その田舎町で呼ばれる“裏山”のことだ。祖父母の家の坂道が行き着く先にその山がある。

 夏の日差しを受けて、木々は色鮮やかに萌え、ところどころに美しい木漏れ日を作っている。

 ジーンズ生地の半ズボンで駆けまわる翔太は、元気印そのものだった。薫はなんとか着いていったが、息があがっていた。


「お、これなんだー?」


 そう言った翔太の手の甲には、薄緑色に縁を薄紅色で彩っている虫が止まっていた。


「――それはハゴロモ。綺麗だけど害虫なんだって」

「ガイチュウってなんだ?」

「育てている植物とか食べちゃうことだよ」

「へえ、いろいろ知ってるんだなあ」


 翔太は感心したように言った。


「じゃあ、子は鎹って知ってる?」

「コワカスガイ? 何それ?」

「わからないなら、いいよ」


 薫はそれだけ言うと、僅かに俯いた。


「なんだよ、それ!」


 と言って、翔太は笑った。

 ミンミンゼミのミーンミンミンミンミンミー、という鳴き声がよく響いた。


「これは知ってるぜ、こういうの蝉時雨って言うんだ」


 ミンミンゼミの鳴き声を聞きながら、翔太は言った。


 翔太と裏山に行った日を境に、薫と翔太は二人で裏山や近所の公園で遊びまわった。

 祖父母は薫に笑顔が増えたことを喜んでいた。



 翔太が来て、三日が経った。

 午前中から裏山を駆けまわり、疲れ切って戻った夕方、ヒグラシがカナカナカナ、と鳴く頃に、祖父は薫に告げた。


「――お父さんが迎えに来るって」


 薫は祖父の言葉を聞いて、顔を俯かせた。

 その様子を見た翔太は怪訝そうな顔をした。


「ねえ、蝉を捕まえに行かない?」


 薫は翔太に言った。翔太は薫の様子に戸惑いつつ、頷いた。

 夕陽の光は赤く燃え、裏山の木々の葉を一枚一枚照らしていた。

 ヒグラシの寂しげな鳴き声が薫の耳に届いた。


「今の時間じゃ、ヒグラシしかいないぜー?」

「いいんだよ、別にヒグラシで」

「俺は、ミンミンゼミの緑色の身体、好きだけどなー」


 と言いつつ、翔太は虫取り網で、目の前の木に止まっていたヒグラシを捕まえようとした。

 ギッと音を立てて、ヒグラシは飛び去って行った。



 暗くなる前に、薫と翔太は祖父母の家へと戻った。

 結局、ヒグラシは一匹も捕まえられなかった。


「残念だったな」


 と、翔太は言った。

 薫は、そうだね、と頷いた。


 薫の父親は、既に祖父母の家へ来ていた。彼は日焼けした我が子を見て、「いい子にしてたか?」と言って、頭を撫でた。

 薫の汗に塗れた頭を躊躇なく、撫でたのだった。

 薫の父は、翔太に顔を向ける。にっこりと笑い、「うちの薫が世話になったね」と言った。


「薫は物知りで楽しかった」


 翔太はそう言うと、名残惜しそうに薫を見た。

 薫は目を翔太の目に合わせる。そして、俯いた。

 薫は祖父母の家から荷物を運び、父の車に乗り込んだ。


「元気でなー! また会おうぜ!」


 翔太は薫の背中に声を掛けた。

 薫は黙って、車のドアを閉めた。


 車は走り出し、手を振っていた祖父母や翔太の姿がだんだんと小さくなり、見えなくなっていった。

 外は暗く、街灯に灯りがつきだした。

 高速道路のオレンジの街灯が薫の目を焼くように輝いている。

 黙って車を運転していた薫の父親が、おもむろに言葉を紡いだ。


「――お母さんとはお別れすることになった」

「わかった」


 薫はそう淡々と答えた。


「また、ここに来たい? 来たいなら……」

「ここは、めちゃくちゃ蚊に刺されるし、蝉の鳴き声がうるさいし、来なくていいかな」


 薫の言葉を聞いて、薫の父は薫の顔を見つめた。

 しばらく見つめていたが、やがて前方に顔を向ける。


「――ごめんな、薫」


 薫の父の言葉は、車のタイヤが道路に擦れる音により、聞こえにくかった。

 薫たちの乗る車はトンネルへと入っていった。

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