SNSで『魔女』にされた日 ――大人社会が再生産するいじめと、子どもの未来について

花絵 ユウキ

SNSで『魔女』にされた日 ――大人社会が再生産するいじめと、子どもの未来について

●はじめに


 ある日、筆者は某SNSにて『魔女狩り』の対象になった。


 SNSという短文構造を基本として成り立つコミュニティ媒体では、発言者の発信の真意は、ほんのわずかな切れ端(冒頭数行だけなど)で判断される傾向が強い。


 そして筆者はそのSNSで、とある疑問を口にした際に、まさにほんのわずかな切れ端をもって、本来自分が言及したかった意図とはまったく違う形で、拡散されてしまうこととなった。

 気づけば数万、数十万という人々の前で一夜も立たぬうちに『魔女』に仕立て上げられていた。


 筆者は誰かを傷つけたつもりもなかったし、誰かを持ち上げるつもりもなかった。

 とある炎上の渦中にあったAに対し、「そこまでAを袋叩きする必要はないのではないか」といった、止まない誹謗中傷に対し、ただ問題定義がしたかった。

 

 けれど、筆者の言葉は見た者によって意味を誤読され、『Aの擁護』『敵である』というレッテルをはられ、Aと共に、今度は筆者も魔女狩りの魔女として燃やされはじめた。


 しかし筆者が本当に怖かったのは、誤読そのものではない。

『自身と意見の違う者、擁護する者を敵とみなす風潮』『正義のためなら潰して当然』と疑わずに言葉の暴力を浴びせてくる者の、圧倒的な人数だった。



●誤読は、一瞬で事実になる。


 筆者の発言は歪み、それを見た者たちが『Aを擁護する意見』と決めつけ、そこから怒りが拡散していった。


 知らないアイコンの人たちから、筆者の人格を否定するような言葉が次々に投げつけられた。


・お前はこういう人間だ

・こう考えているに違いない

・だから叩かれて当然だ


 そんな言葉が、容赦なく飛んでくる。

 筆者はそれを眺めながら、ひとつ理解した。


 その怒りが正義だと信じてしまった人は、相手がどんな意図で発言したかなど、ほとんど、どうでもよくなるのだ。

 怒りは群衆となり、なにか一つの的に対して一致団結して石を投げる。その行為こそが『敵を排除するための正しい運動』として変換されてしまうのだと。



●胸に残った沈黙


 誹謗中傷そのものより、心に深く残ったものがある。

 それは 『何もしない人の多さ』 だった。


 普段交流のある人も、仲良くしていた人も、ほとんどが静かに距離をとっていく。

 もちろん全ての人がそうであったわけじゃない。声をかけてくれた人も一定数存在した。


 きっと、巻き込まれたくなかったのだろう。

 それは責められるものではない。筆者にもそういう気持ちは理解できるからだ。


 けれど筆者は、その沈黙に覚えがあった。


 ――これはSNSにとどまらず、いまも社会に根強くはびこる、いじめの基本構造と同じであると。


 誰かが標的にされると、周囲はそっと目をそらし、『自分に火の粉が飛ばないでほしい』と願う。


 しかしその瞬間、いじめは構造として完成してしまうのだ。



●大人社会が再生産しているいじめの形


 今回の出来事は、筆者にある確信を与えた。


 大人は、子どもに『いじめをやめなさい』と言う。

 しかしその一方で、大人自身がSNS上で無意識にもこの『いじめの構造』を作り続けている。


 それは、こういう順序で出来上がる。


①意見の違う人を『敵』と認定する


②敵は叩いてもよい存在――として扱う


③正義の名のもとに、攻撃が正当化される


④多数派につくことで、群集心理により安心感が生まれる


⑤少数派に立つ者は、意義を唱える者は『粛清』の対象になる


⑥傍観者は沈黙し、上記の構造を支える柱になる


⑦誰も『いじめをしている』という自覚はない。



 昨今、SNSでは『自分と違う意見を持つ人間は、排除するべき』という空気が、無意識のうちに染みついている。


 今回、筆者はその構造のど真ん中で火だるまになって、初めてその異様さを、はっきりと体感した。



●子供はいじめ方を発明しない。大人を見て、学んでいる


 我々は、子供のいじめ問題を語るとき、しばし『最近の子供は……』と嘆く。


 でも、本当にそうだろうか。


 子どもは、何もないところから対人倫理観、コミュニケーションを発明するわけではない。

 筆者にはひとり娘がいるが、子どもというのはありとあらゆる場面において、大人が日頃していることを、見て、真似て、再現していることが多いと考える。


 SNSの魔女狩りや誹謗中傷の文化は、そのまま学校の教室にも降りていく。

 なぜなら、SNSは、スマートフォンやPCが自動的に文を公表しているのではなく、必ず画面の向こう側に、それを書いた生きた人間がいるからだ。


 よって、


 >自分と違う意見を持つ相手を排除する

 >悪者を決めて集団で叩く

 >巻き込まれたくないから沈黙する


 上記のような思想が定着している我々は、SNS外のリアルの社会でもそういった行動をとることがある。そして、これが無意識で行われていることこそが、最も恐ろしい。


 そういった繊細な空気は、間違いなく大人社会から子どもへと流れている。



●こんな世界で、子供の未来は守れるのか


 筆者は今回の出来事で、一度は筆を取れなくなった。心が摩耗して、創作に向き合う気力すら奪われた。


 けれど、このまま黙ることはしたくなかった。

 なぜならば、意見を飲み込むことは、このSNSといじめの構造を支えてしまう一片となる――と考えたからである。


『見て見ぬふり』は、加害ではないが、暴力を成立させる最後のピースだと、身をもって経験した。


 だから筆者は、今この文章を書いている。


 これは誰かを責めたいわけでも、誰かを擁護したいわけでもない。


 ただ、今一度、問いかけたいのだ。


――意見が違うだけで『敵』が生まれる世界で、本当にいいのだろうか。


――歩み寄りのない社会で、子どもたちの未来は守れるのだろうか。


 筆者は、今回の経験を忘れることはない。

 たとえ筆者に投石をしていた怒りの群衆が、明日明後日と、日が経つごとに筆者のことを忘れていったとしてもだ。


 そして、これを読んだ誰かが、ほんの少しだけでも何かを考えるきっかけになったのだとしたら。

 それだけで、本体験と筆者の思いをここに記した意味があると思っている。

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