5.猫との毎日の最初の時間

「あぁー…………うー…………あー…………う、うぁー…………」

「……その声はどうにかならない?」

「ならない……わりとガマンしてる……。」

 納得してくれたこととはいえ、やはりアメは猫だし、猫はお風呂が苦手らしい。時々、進んでお風呂に入りたがる猫がいるが、あれはどういうきっかけでそうなるのだろう?

 シャワーで肩口あたりからお湯をかけて毛を濡らす。シャワーの勢いはあまり強くしないで、アメにシャワーヘッドを付けるようにして濡らしていく。シャワーの音が苦手な猫もいるらしいし、本当はお風呂みたいにして浸けて洗った方が良いようではあるが、それが十分にできる桶が無かったので、一旦、シャワーを浴びて貰うことにした。

「寒くない?もうちょっと温かい方が良い?」

「お湯加減は大丈夫だよぉ……。」

 なんとなく間の抜けた声でアメが答えてくれる。どのあたりが特に苦手なんだろう?と思うが、自分でも説明が難しいようなので、様子を見ながら進めていくしかない。

「浅いけど、桶に入ってみる?」

「おけ?」

「この中にお湯を溜めたらちょっとお風呂っぽくはなるかなと。」

 年齢的なこともあって、アメはまだ猫としては小振りな方だ。全身を浸からせたり、中でジャバジャバと洗ったりはできないけれど、なんとなく入浴っぽいことはできるかもしれない。

「うーん……気は進まないけど……やってみる。」

 アメがどこか観念したような様子で答える。少し可哀想ではあるが、聞き分けが良いのはありがたい。

 シャワーよりも少しだけ熱めにしてお湯を溜める。普通の洗い桶なので、お風呂とは違ってすぐにお湯でいっぱいになった。アメを入れようと思い、前脚の脇に手を入れて持ち上げると、全身から力が抜けたようにダラリとした姿で抱き上げられてくれた。ツメも立てず、全面的に委ねてくれる様子が有り難いし、いじらしくも感じる。そのまま後ろ足からゆっくり桶に入れていく。

「あああああぁぁー…………」

 力が入ってしまうのか手足をグーパーさせながら呻くように声を上げていたが、声がだんだん小さくなって、そのまま大人しくなった。

「……どう?大丈夫?」

「……入るときはザワザワするし、今もちょっとザワザワするけど……あったかいのは気持ち良いかも……。」

 なるほど、ザワザワする感じが猫は嫌なのか。そうしたら、あんまりお湯をジャバジャバされるのは得意ではないのかもしれない。

 優しくお湯をすくってアメの背中にかける。

「うぅー……む……。」

「どう?嫌?」

「うーん……背中も温かいし……もう濡れてるからそんなにザワザワしないかも……ちょっとだけドキドキはするけど。」

 濡れているときは感触や音にいつもより敏感になるのかもしれない。野生の猫を想像すると、濡れて身体を冷やすのは命に関わることだったりするのだろうし、そんな状態で何が起こるのかを過敏に感じ取りたくなるのは、生物としての本能なのだろう。

 そんな中で、アメは頑張ってくれているのかもしれない。

「えらいねぇ。」

「……うん?ボク?」

「そうだよ。人間に合わせてガマンしてくれようとするなんて、見上げた猫だねぇ。」

「……へへへ。」

 濡れて痩せっぽっちのようになってしまった姿はなんとも情けないような気もするが、そんな状態でもこちらの一言で誇らしげにしてくれる姿が愛おしく、極力アメが嫌な思いをしないようにしようと改めて思うのだった。



Φ



「んんー……。」

 お風呂のときとはまた違った様子でアメが呻っている。なんとなく難しい顔をしているような気もする。猫の表情なので、はっきりと確信はできないけれど。

「ドライヤーは、どんな感じなの?」

 弱めの温風をアメに当てながら聞いてみる。

「音が大きいのと、からだに風が当たるのが、なんとなく嫌かなぁ。そこまで苦手なわけではないんだけど。」

「なんとなくかぁ。」

「ボクはこれでからだが乾くって分かるからまだ大丈夫だけど、何かされるかもとか、何か起こるかもとか、やっぱり思うよ。」

 世の中でドライヤーに当てられてくれる猫は、そういうことを感じながらも信頼関係でカバーしてくれているのかもしれない。犬などに比べれば感情表現にクールなところがある猫がそんなふうに人間を信じてくれているのかもしれないと考えると、なんだか可愛く思えてしまう。

 少し乾いてきたので、ブラシで梳かしながら温風を当てる。ピンブラシと呼ばれる種類のものらしいが、アメを保護してすぐに買ってきたものなので、好みであるかは分からない。話せると分かった後に聞いたところで、体験してみないと何が好みかは分からないのかもしれないが。人間のブラシと似ているため、蚤取りのようなことができるわけではないが、ちょっとしたマッサージになるのではと考えて選んだものだ。

「アメ、どうかな?大丈夫?」

 お伺いを立てるように顔を覗き込むと、アメは心地よさそうに目を細めていた。

「んー、ボク、それ好きかも。」

 そう言うと、ゴロゴロと喉を鳴らしだす。猫のゴロゴロ音には人間をも癒す効果があるらしい。でも、そうでなくともこの音を聞くと心が躍るのは何故だろう?

「良かった。喜んでもらえて何より。」

「ありがとうねー。」

 アメはむにゃむにゃと口を動かす。その表情がなんだか嬉しそうに見える。

 そうか、猫が喉を鳴らすときは猫の心が躍る音が伝わってくるような気がするからこちらまで心が躍ってしまうのかもしれない。嬉しいのが伝わるのは、きっと誰にとっても嬉しいことなのだ。

 背中と首回りの毛がふわふわとしてきた。思ったよりも汚れていたのか、毛の色のトーンが明るくなったような気がする。

「おなかも乾かしていい?」

「あぁ……おなかかぁ……。」

「おなかはやっぱり嫌なんだ?」

「できればそっとしておいてほしいところではあるかなぁ……。」

「でも、風邪引いちゃうよ?」

「風邪は引かないけど……でも、濡れてるのは嫌だなぁ。」

 アメはのそのそと身体を横たえると、おなかを見せてくれた。今、このおなかをどのように扱うかが信頼関係を大きく左右するのだろうなという気がする。

「おなかも毎回かぁ……。」

 げんなりしたようにアメが呟く。これは、どうにか良い記憶で上書きしてもらわなければ。

「心して乾かさせていただきます。」

「たのむよー。」

 ピコピコと尻尾を動かして返事をするアメは、それほど嫌そうにも見えなくて、きっとこれも信頼関係でカバーしてくれているのだろうなという気がした。



Φ



 ずっと気になっていたことがある。スティック状のパウチに入っている猫が大好きなこれは、猫にとってはどうすれば食べやすいのだろう。

 スプーンに出しても良いが、それはそれで全部乗り切らないし、ごはん用のお皿に入れるには量が少ない気がする。

「あ。」

 食器棚の中を眺めていると、少し奥の方でずっと眠っていたものが目に入った。

 一人暮らしを始めた頃、ごはんは量を少なくするだけで、実家にいるときと同じものを用意できるものだと思い込んでいた。だから、食器も実家にいるときのイメージで用意した。しかし、一人というのは人間を非常に怠惰にさせる。大人数相手であることと同じ気持ちで用意するはずがないし、使う食器も少なければ少ないほど良いように思えてくる。そして、自分にとって使わなくなる食器の筆頭は醤油皿だった。ずっと食器棚の中で眠っていたが、こんなにもちょうど良いものがあるとはと、今は感動すら覚える。

「どうしたの?」

 気配を感じたのか、アメが足元に座る。首を伸ばして、爛々とした目でこちらを見あげている。

 醤油皿を取り出すと、そこにパウチの中身を絞り出す。

「ご褒美、でしょ?」

 アメの目の輝きが増した。こちらの手元を覗き込みたいのか、そわそわとしている。このままだと、シンクの上に乗ってきてしまうかもしれない。

「おいしいものを貰うためには、待つことも重要なんですよ、アメさん。」

「おいしいものは待ってたら先に取られちゃうよ。」

「私とアメしかいないのに、誰が取るの?」

「……さくら?」

「取って良いなら取っちゃうよ。」

「えーっ!?だめだめ!」

「人間相手には賢く振る舞うことが大事なんだよ。」

 アメは我慢しているのか、その場で足踏みをした後、舌舐めずりをした。鼻はクンクンさせているが、こちらの手元を見ようとするのはやめた様子だった。

「えらいえらい。」

 思わず笑ってしまいながら、用意ができたのでお皿を下に置く。待ちかねていたようにアメが寄ってきた。

「いただきます!」

「どうぞー。」

 いただきますが言えるなんて、やはり見上げた猫だ。どこで育ったのかは分からないが、不思議な育ちの良さを感じる。……と、のんきに考えていたら、アメがどんどん遠ざかっていくのが見えた。

「えっ、ちょ、待っ」

 なるほど、物の作りには道理というものがある。猫の皿にとっては、固定されているかということも大切な要素だったようだ。

 余計なことを考えるのはやめて、皿を支えようと慌てて手を伸ばした。



【猫との毎日の最初の時間】

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ねこのはなし ナツキシロ @natsukishiro

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