4.キミのルール、ボクのルール

「アメさん、引っ越しってね、すごくお金がかかるんだよ。」

「猫に小判って言葉を知らない?」

 知っているが、今のでその返しがくるのであれば、アメは小判のこともお金のこともよく理解していると思う。

「連れて帰りたいけどお金が無いんだって言って、毎日会いに来て泣いてるおじさんがいたよ。」

「なんだ、その話は。世知辛過ぎるだろ。」

 猫には人間には無い経験があるものだ。

「というかさぁ、なんで引っ越す必要があるの?ボクはここにいるの好きになってきたんだけど。」

 猫は場所につく、なんてよく言ったもので、住む場所の変化は猫にとってはストレスらしい。自分の縄張りに対する理解が重要な猫は毎日パトロールもするし、理解の深まった安全地帯からは離れたくないのだろう。

 まぁ、でも、そうは言うけど。

「ここに住んでたら、多分、一生外には出られないよ。」

「えーっ!?」

 本当はそれだけではない。アメと住むからにはこのマンションは出なければいけないのだ。

「いや、うん、頑張って稼ぐよ。」

「かせぐ?」

「お金をね。」

「ふむ。」

 アメは複雑そうな顔で何かを考えていたが、小さく頷いた。

「ボクも、引っ越し我慢するよ。」

 まだ、引っ越し先が決まったわけでもないのにアメが気の早いことを言うので、こちらとしては気が焦ってしまう。早急に出ていかなくてはいけないことは確実ではあるのだけど。

 いや、本来ならば、まず現状に至った時点で大家さんに相談するべきなのだろう。しかし、今すぐ捨ててこいと言われた場合に頼る当てがなく、最悪の場合、アメを放り出さなければならなくなってしまう。そのことを考えると安易に相談もできず、ここまできてしまった。

「ううーん……。」

 何件か、良い気がする物件は見つけてある。見つけてはあるけど……内見して、契約して、解約して、荷物を搬送して……引っ越しというのは思っている以上に時間がかかるものなのではないか。そして、その期間中にアメを居てはいけない存在として扱い続けるのはどうなんだろうか。

「ちょっと聞いてみるか……。」

「何を?」

「いや、家のことをね。アメはちょっと静かにしててね。」

「えー?分かったー。」

 アメは小首を傾げてはいたが、素直に言うことを聞いてくれる。意を決して、電話をすることにする。怖くて仕方がないが、やると決めたらやるしかない。

「……あ、もしもし、302号室の白井です。いつもお世話になってます。……はい、……あ、いえ、こちらこそ……はい……あの、実はご相談がありまして。」



Φ



 人生とは思いも寄らぬ方へいくものである。それは、まぁ、想像どおりなんてことは多くないことではあるのだけど、そんなことが起こるのかと思うようなこともあったりする。

「引っ越し先決まりそうかも……。」

「うん?そうなの?」

 いや、もっと驚くところだぞ、と思うけど、猫にそれを求めるのは酷かもしれない。自分としては、呆然としてしまうほど驚いていたのだけど、その温度差のおかげで現実に引き戻されたような気持ちになる。

 今、住んでいるマンションは、仲介業者を通して借りたものだし、大家さん、とはいっても、昔のアニメに出てくるような寮母さん的なそれではない。もちろん、何かあれば連絡はとるが、付き合いはほとんどない。

 だからこそ、猫を連れ帰ってもすぐにはバレないだろうという気持ちもあったが、そのぶん、相談事となると気は重かった。

 まず、猫を保護して、”今は一時的に友人に預けているけれど、いずれ自分が引き取らなければならない状態だ”と話し、この部屋で猫を飼うことが一時的にでも可能であるか、それともやはり早急に引っ越すしかないかということのお伺いを立てた。予想どおりというべきか、返答はあまり芳しくはなかった。

「そうねぇ……そこはペットはいない人向けの建物だから……入居者さんたちの中には動物が苦手な人もいるのよねぇ……。」

 それはそうだ。ダメと言っているのだから、相応の人が集まるのは当たり前の話だ。しかし、そう考えると、ご近所さんからどう見られるかというところまでは思い至ってなかったかもしれない。もちろん、この状況で周りに見られて良いことなんて絶対無いということは分かっていたけれど、苦手な人が不快な思いをするかもしれないというところにまでは思い至ってなかった。

「でも、いいわねぇ、私も猫ちゃん好きなのよねぇ。でも、もうウチでは七匹も飼っているのよねぇ……。」

 話が思いも寄らない方向へ進んだ。大家さんのパーソナルなことを話す機会なんてこれまで無かったが、この人は猫好きだったのか。そして、七匹もいなかった場合は引き取ってくれたかもしれないのか……。

 アメをちらりと見る。こちらの様子などは素知らぬ顔で大きなあくびをしている。

 アメが話さない猫であれば、少し寂しくはあっても、願ったり叶ったりだったかもしれない。当てがないから自分が飼おうと思っていただけで、保護するというのはそれ相応の負担がある。

 でも、会話をして、お互いに暮らしを共にしようという気持ちになれば、そうはいかない。情が湧いた、というのが適切なのかは分からないが、手放しがたい気持ちがあることは間違いない。

「あの、できれば自分で責任を持ちたいとは思っているんです。」

「あら、そうなの。いいわねぇ、運命的な出会いだったのねぇ。」

 それは、ある意味、そうなのかもしれない。

「そうだわ、それなら、こういうのはどうかしら?」

「こういうの、ですか?」

「郊外の方にはなるんだけれどね、私の叔母が住んでた家があって、子どものいない人だったから今は空き家なのね。私が時々行って手入れをしてはいるんだけれど、やっぱり人がいなくなった家ってダメね、どうしてもホコリっぽくなっちゃって。元々猫ちゃんを飼っていた家でもあるし、そんなに大きな家でもないし、その管理も含めて、という意味であれば今のお家賃のままそこに移ってもらうのなんてどうかしら、と思ってね。」

「え。え?ええええ!?」

「やだぁ、でも、本当に小さい家だから、それでも良いかどうか……」

「いやいやいや!願ったり叶ったりと言いますか!あっ、でも、一応、内見させていただいてもいいですか?」

「そうよねぇ、いつが都合が良いかしら?」

 というわけで、近日中に内見をさせていただくことになった。仕事終わりでも良ければ明日にでも、と思ったが、一応、向こうも片付けておきたいものもあるようで、また連絡をいただけるということになった。

「分かんないけど、良かったね。」

 アメが呑気な口調でそう言う。分かってもらって、この気持ちを共有してほしい、と思うけれど、猫が声をかけてくれるだけで充分有り難いか、と思い直すことにした。


Φ


 さて。話す猫との暮らしには、まだまだ課題がある。いや、話さない猫であっても同じ課題は発生するのだが、話すとなると少しややこしくなるのではないかという気がしている。話さない猫と同じ扱いで対応をすると、信頼関係に大きなヒビが入るのではないか、と思えて悩ましい。

「アメさんさぁ。」

「うん?何?」

「聞き分けのいい猫だと見込んでお願いがあるんだけどね。」

「あ、なんか、嫌な話な気がする。」

 こいつめ、勘が良いじゃないか。

「新しいおうちが決まりそうだとはいえ、まだ少しここにいないといけないんだよね。」

「ふむ。」

「それで、その、立ち退くことを考えても、あんまりよごすわけにはいかないというか……。」

「ふむ?」

「次にここに住む人にとっては痕跡が残ることがあんまり良くないことだったりするというか……。」

「そういうものなの?」

「そうなんだよね。」

「んー、えっと、つまり?」

「その、アメさんって外暮らしだったわけで、その……」

 なんと説得すれば良いのか分からず言葉に詰まる。その単語を出しただけで身を隠す猫もいるというのだから安易に言えないと思ったのだが、それはそれで何といえば良いのか分からない。変な間があって、アメが「あっ」と呟いた。

「……あ、あー……あー…………。」

 呻くように繰り返している。

「お風呂?」

 困ったような顔で聞かれて、こちらとしても上手い返事のしようがなく、大きく頷いた。

 一応、動物病院に連れていったときにケアの方法を確認してシートで拭いたりはしたが、やはり洗うとの洗わないのとでは全然違う。

「あー……あー……いや、ボクも猫だからね、苦手なんだけどね。でも、そうだよね。」

 もっと拒否されると思っていたため、少し驚く。言葉が通じるとこんなにも聞き分けが良くなるものなんだろうか?

「ノミがいっぱい付いてて大変だったときに流してもらったことがあるんだよね。濡れるのは嫌だけど、入った方が良い理由はなんとなく分かるよ。」

「そんなことがあるんだね?」

「まぁ、たまたまね。」

 それはあまり聞かない話だ。親切な人が不憫に感じたのだろうか?

「虫とかよごれもあるんだけど、抜け毛もすごいと思うから、なるべく入ってほしいんだけど……。」

「えっ、なるべくって?」

「んんー……。」

 本当は月に一度入れば良い方な気もするが、喋るからか、なんとなく人間に近い頻度であってほしい気持ちになる。

「週に一回とか?」

 言ってしまった。

「えぇー!そんなに?うーん、頑張るけど……。」

 頑張ってもらえることになってしまった。

「ドライヤーは大丈夫?」

「あー……それも苦手だけど、まぁ、大丈夫だよ。濡れてる方が嫌だしね。」

 なんとも聞き分けの良い猫だ。どの飼い主も頭を悩ませる課題をいくつもすんなりと。

「あ、でも、アレはお願いね!」

「アレ?」

「ご褒美!!!」

 どこで知ったのか、アメは猫のよくある流れを把握しているようだ。でも、こんなに聞き分けが良いのなら、そのくらいは朝飯前のような気もする。

「分かった、そしたら、お風呂に入ったらご褒美ね。」

「やったー!!」

 猫らしい猫なのか、猫らしくない猫なのか、何だか分からないなと思う。でも、それがアメという猫らしいような気もして、思わず笑ってしまった。



【キミのルール、ボクのルール】

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