崖っぷちボートレーサー、異世界転生したら水の都でした。

Ren S.

短編『あの日の波を越えて』

朝のピットは湿っていた。

油の匂いに混じって、潮風と、焦げた排気の残り香。


水上翔みずかみ かける、二十六歳。


かつては“大型新人”“期待のルーキー”なんて呼ばれていたが、今じゃ整備場でも名前を呼ぶやつはいない。


「おい翔、また展示で遅れとったぞ」


先輩の軽い声が背中に刺さる。


「わかってます」


言いながら、心の中ではもう何も刺さらない。


最近、ボートを触る時間が減った。

理由は単純で、触ったところで勝てないからだ。

努力ってのは、結果が出てるやつが言うセリフだと思っていた。


整備士がプロペラを点検している横で、翔はただ缶コーヒーを飲む。

波の音。エンジンの空ぶかし。

自分だけ、取り残されたような気がした。


「クビ一番手、か……」


どこかの記者がそう書いていた。

冗談みたいに読んだが、今では笑えない。



昼の展示。

風は弱く、波は穏やか。

絶好のコンディションだった。

翔はスタートラインに艇を合わせ、

久々に“勝てるかもしれない”という予感を覚える。


本番、合図音が鳴る。

反射的にスロットルを握り、艇が水を噛む。

風が顔を叩く。

――そうだ、これだ。

この瞬間だけは、何もかも忘れられる。


だが第二ターンマークで、前走者の引き波に食われた。

艇が一瞬浮き、次の瞬間には真横に弾かれる。

ハンドルが勝手に回り、身体が宙に浮いた。

視界が上下逆さまになり、水面が近づく。


「っ……!」


冷たい水が肺に流れ込む。

上下もわからない。

腕を動かそうとしても、重くて言うことを聞かない。

すぐ近くで、プロペラの唸り。

金属の刃が、白く光るのが見えた。



(もう少し、ちゃんと向き合っていれば……)



その言葉が、泡のように浮かんでは消えた。

音も光も遠のいていく。


水の中で、翔は目を閉じた。

ただ、どこかで波の音だけが、ゆっくりと続いていた。




──そして、暗転。





波の音が、まだ耳の奥で響いていた。

ゆっくりと瞼を開けると、眩しい光が差し込んでいた。

天井はない。

代わりに、果てしない青空が広がっている。


水面の上だった。

見渡す限り、水。

建物のようなものが浮かんでいて、風に揺れている。

車の代わりに、魔力の光を帯びた小型艇が水面を走り抜け、そのたびに陽光がきらきらと反射した。


「……どこだ、ここ」


体を起こす。

服は乾いている。

傷もない。

さっきまで冷たかった水も、体からは消えていた。


近くの桟橋には、奇妙な文字の看板が立っている。

読めないはずなのに、不思議と意味が分かった。



――“水と風の都”リヴェルナ王国へようこそ。



声を上げる者も、笑い声も聞こえる。

人々は水路沿いを行き交い、子どもたちは水辺で魚のような生き物を追いかけていた。

風が柔らかく、潮の匂いは甘い。


夢だろうかと思った。

だが、足元に感じる水の冷たさと、遠くで響く舟の音が、あまりにもリアルだった。


翔はふらりと立ち上がり、水辺に手を伸ばす。

指先に波が触れる。

感触は、確かに現実のそれだった。


その時、悲鳴が響いた。


「助けて! 誰か、あの子が!」


視線の先、水面でもがく小さな影。

少年がひとり、流れに呑まれていた。

周りの大人たちは動けないでいる。

足場が悪く、誰も飛び込めないのだ。


翔の体が先に動いた。

頭で考えるより早く、水に飛び込んでいた。

思いのほか冷たくはない。

それが逆に不気味だった。


岸の近くに、一隻の小型艇が浮かんでいた。

目を疑う。

それは、ほとんど競艇用ボートと同じ形をしていた。


「……嘘だろ」


ハンドル、スタンド、プロペラの位置。

すべて、見覚えのある構造。

ただ、燃料タンクの代わりに、青白い光の球体が埋め込まれている。


迷う暇はなかった。

翔は身を乗り出し、艇に飛び乗った。

体が勝手に動く。

キーを入れる代わりに、手のひらで魔力装置を叩いた。


唸りを上げ、エンジンが始動する。

だが、すぐに違和感を覚えた。

出力が足りない。

加速が鈍い。


「……整備、されてねぇな」


それでも、翔はハンドルを切った。

風を読み、波を読んで、少年へ一直線に向かう。

水面の抵抗が重い。

艇が水を掴めずに滑る。


「もう少し……もう少しだ!」


間に合え。

その言葉を心の奥で繰り返した。

だが、艇が少年のもとにたどり着くまでに、あまりにも時間がかかった。


翔は少年の体を抱き上げ、岸辺へと引き上げたが息はない。

冷たく、静かだった。


岸で泣き崩れる母親。


「ありがとう……ありがとう……」


と繰り返す声。

翔は何も言えなかった。

唇が震えるだけだった。


彼の頭の中で、過去の映像が蘇る。

整備を怠って、スタートで出遅れたあの瞬間。


「どうせ、何しても運次第だ」


そう吐き捨てた自分の声。


あの少年の冷たい手が、全部まとめて突き刺してくる。


翔は拳を握りしめ、呟いた。


「……俺が、ちゃんとしてれば……」


母親が涙の中で頭を下げた。


「助けに来てくれて、ありがとう。本当に……」


翔は首を振る。


「いや、俺……間に合わなかった」


風が吹いた。

水面が光を反射し、無数のきらめきが広がる。

まるで、少年の魂が水に溶けていくように見えた。


翔はその光景を黙って見つめていた。

そして、小さく呟いた。


「……この国、ボートが多すぎるだろ」


冗談めかして言ったつもりだった。

けれど、声は震えていた。


その夜、翔は眠らなかった。

宿を借りて、使い物にならない艇のプロペラを眺めていた。

刃が欠けて、角度も歪んでいる。

ペラの角度ひとつで、水の掴み方が変わる――

そんな当たり前のことを、この世界に来てようやく思い出した。


「……また、やるしかねぇか」


翔はぼそりと呟き、

欠けたプロペラを手に取った。

月明かりに照らされる水面が、ゆっくりと揺れていた。


──それが、リヴェルナでの最初の夜だった。




朝になると、水面が白く光る。

リヴェルナの朝はいつも静かで、空気が澄んでいた。

舟のエンジン音も、鳥の声も、全部遠くでぼんやり響いてくる。

翔は桟橋に腰を下ろし、手の中のプロペラを磨いていた。


あの夜から一週間。

宿の隅を借り、毎日、艇の下にもぐりこんでは、錆びたネジを外している。


「何してるんだい?」


と通りがかる住人は笑うけど、

翔は答えずにペラを回し、音を聞く。


――まだ、ズレてる。

ほんの少しの歪みが、艇全体を狂わせる。


リヴェルナの人たちは、艇を“水の祝福”と呼ぶ。

この国の水上交通のほとんどは、魔力で動く小型艇だ。

誰も整備のことなんて気にしていない。

魔力を注げば走る。それだけの世界だ。


だが翔の目には、それがどうしても危うく見えた。

プロペラの角度、軸のブレ、キャブの詰まり――

どれも命取りだ。

少年を助けられなかったのは、整備不良が原因だった。


“また同じことを繰り返すわけにはいかない”


それだけが、翔を動かしていた。


昼になると、近くの工房で働くようになった。

老職人がやっている、小さな修理場。

本来は壊れた水車や桶を直すところだったが、翔が入り浸るようになってから、ボートの修理屋に変わっていった。


「お前さん、変わったことするねえ」


職人のロルフ爺さんが、歯の抜けた笑顔で言う。


「プロペラの角度なんて気にする奴、初めて見たよ」


「ちょっと傾くだけで、水の噛み方が変わるんです」


「水が噛む?」


「……うまく言えませんけど」


ロルフは笑って、翔にパンと水を差し出す。

翔は礼を言い、黙々と作業に戻る。

昼も夜も、同じことを繰り返す。

角度を削り、磨き、回して、波に当てて確かめる。

うまく噛む音が出たときだけ、胸の奥で何かが鳴った。


やがて、子どもたちが見に来るようになった。


「おじちゃん、何してるの?」


「舟が沈まないようにしてるんだ」


「すごい!」


その無邪気な声を聞くたびに、

あの溺れた少年の姿が脳裏に浮かぶ。


けれど、今は少し違う。

胸の奥の痛みが、温かさに変わり始めていた。


夕方になると、川面にオレンジの光が差し込む。

翔は工房の前で、整備した艇を試し走りする。

以前よりも明らかに安定している。

波を切る音が滑らかで、ハンドルが軽い。


「……よし」


小さく頷き、艇を止める。

水面に映る自分の顔が、少しだけ笑っていた。


そんな日々が、いつの間にか一年続いた。


リヴェルナでは水難事故が多い。

しかし、翔が整備した艇を使うようになってから、“死者が出る”ことはほとんどなくなった。


村人たちは口々に「奇跡だ」と言った。

でも翔は知っていた。

奇跡なんかじゃない。

ただ、怠けなかっただけだ。

それだけのことだ。


夜、翔は桟橋でひとり、波を見ていた。


潮風が頬を撫でる。

ふと、昔のレースを思い出す。

スタート直前の静けさ。

エンジンの震え。

「行ける」と思った瞬間の感覚。

それを、自分で壊していた。


「……俺、なんで逃げてたんだろうな」


呟いても、答える者はいない。

代わりに、遠くで笑い声が聞こえた。

子どもたちの声。

誰かが水をはねて遊んでいる。

その音が、不思議と心地よかった。


翔は立ち上がり、空を見上げる。


満天の星。


水面に映る星が揺れて、無数の光の帯を作る。


「この国、悪くないな」


そう言って笑った瞬間、

頭の奥で、鈍い痛みが走った。


視界が歪む。

遠くから、誰かが呼んでいる。


“翔──翔──”


懐かしい声。

息を吸おうとしたが、空気が抜ける。


次の瞬間、すべての音が消えた。

そして、翔の体は静かに崩れ落ちた。



──水面だけが、静かに光っていた。




まぶしい光が、まぶたの裏を焼いた。

頭の奥で鈍く鳴るような痛み。

潮の匂いがしたと思ったが、次の瞬間には消えていた。


目を開けると見えたのは天井。

真っ白な、見慣れた蛍光灯の光。

それを見ただけで、喉の奥が詰まった。


「……戻ってきた、のか?」


声にならない声が漏れた。

指先が動く。

心臓が動いている。

シーツの感触が、生々しい。


部屋の隅に、人影があった。

椅子にうずくまるように眠る女性と、小さな男の子。

息を殺すようにして見つめる。

――妻の若菜わかなと、息子のあゆむ


翔はゆっくりと手を伸ばした。

だが、途中で止まった。

現実感がなかった。

まだ夢の中のようで、触れたら消えてしまいそうだった。


そのとき、若菜が顔を上げた。

寝癖のついた髪、泣き腫らした目。

それでも、笑った。


「……翔、目が覚めたの?」


声が震えている。


翔は喉を動かしたが、声にならない。

代わりに、微かに頷いた。

若菜は椅子を倒すようにして立ち上がり、ベッドに駆け寄った。


「よかった……ほんとによかった……」


涙が頬を伝い、翔の手の甲に落ちた。

温かい。


「……どのくらい……俺、寝てた?」


「一週間。医者も生きてるのが奇跡だって言ってた」


一週間。

リヴェルナでは一年だった。

時間の流れが違うのか、夢だったのか、分からない。

けれど、心の中の重さは確かに残っている。


「おとうさん……」


小さな声。

翔は視線を落とした。

歩が立っていた。

少し成長して見える。

目をこすりながら、翔の手を握る。


「もう、おふね、こわくない?」


一瞬、息が止まった。

息子の顔が、リヴェルナで溺れたあの子と重なった。

だが翔は微笑んで答えた。


「もう大丈夫。今度は、ちゃんと走るから」


若菜が笑いながら泣いた。

翔は静かに目を閉じ、呼吸を整える。

体は重い。

けれど、心は妙に軽かった。

まるで、何かをやり直せるような気がした。


病室の窓の外では、風が木々を揺らしている。

それが水面の波のように見えた。


「……神様が、もう一回チャンスくれたのかもな」


「ん?」


「いや、なんでもない」


翔は笑って、目を細めた。

歩の頭を撫でる。

この小さな手のぬくもりを、もう二度と離すまいと思った。


退院したのは、それから二週間後だった。

まだ体は完全ではない。

それでも、翔はすぐにボート場へ行った。

仲間たちが驚いた顔で迎える。


「おい、水上、生きてたのかよ!」


「もう復帰する気か?」


翔はヘルメットを片手に笑った。


「うん。まだやれる気がして」


その笑顔には、かつての焦りも虚勢もなかった。

ただ、穏やかな決意だけがあった。


夕暮れの水面は、リヴェルナと同じ色をしていた。

風が吹き、波紋が広がる。

プロペラの音が静かに響く。


翔はスタートピットに立ち、ヘルメットを被った。

胸の奥に、あの水の都の風景が浮かぶ。

あの少年。あの涙。あの夜の月。


「ありがとう」


誰にともなく呟き、エンジンをかける。

音が腹に響いた。

懐かしくて、温かい音。


翔はゆっくりとハンドルを握る。

水を掴む感触が、指先に伝わった。


もう逃げない。もう怠けない。


この波を、最後まで読んでいく。


風が吹き抜け、音が遠ざかっていく。

翔の目の前に、まぶしい光が広がった。



そして――彼は走り出した。




エンジンの音が、胸の奥に響く。

それは懐かしく、そして今は何よりも愛おしい音だった。


あれから二年。

翔は復帰し、黙々と走り続けた。

誰より早くピットに入り、最後まで整備をして帰る。


「昔の水上とは別人だ」


と仲間に言われても、翔は笑ってごまかした。

変わったわけじゃない。

ようやく、本気になっただけだ。



今日、彼はその努力の果てに立っている。



SGグランプリ・優勝戦。


1号艇。


夢にまで見た舞台。

そして、もう一度“波と向き合う”時が来た。


スタートピットに、静寂が降りる。

観客席のざわめきが遠くでかすむ。

心臓の鼓動だけがやけに大きい。

翔は深く息を吸い、目を閉じた。


波の形を読む。

風の流れを感じる。

かつて、怠けていた頃は見えなかった細部。

今は、すべてが見える。


「……行こうか」


スタート音が鳴る。

一斉にボートが飛び出す。


翔の艇が、完璧なスタートを切った。

風を裂き、水を掴む。

艇がまるで生き物のように滑る。

スロットルを握る手に、微かな震え。

だが怖くはなかった。


第一ターンマーク。

引き波、外へ逃げる艇、迫る後続。

その瞬間、脳裏に“あの夜”が蘇った。

リヴェルナの少年。

沈む体。

届かなかった手。


――もう、逃げない。


翔はハンドルを切った。

波の上をなぞるように、艇が走る。

水が噛み、跳ね、完璧に旋回を描く。

インを守り切った。


バックストレートに入る。

エンジンが唸り、観客の歓声が遠くで割れる。

水飛沫が身体を打つ。

冷たいはずなのに、熱かった。


二周目。

リズムは崩れない。

ただ、心のどこかにざわめきがあった。

風の向きが変わった。

波の光が、一瞬だけ歪んで見える。


ふと、翔は見た。

遠くの観客席の先――

そこに、水の都の景色が重なった気がした。


リヴェルナの水面。

桟橋で笑う子どもたち。

老職人ロルフの歯抜けの笑顔。

そして、あの少年の眼差し。


“ありがとう”


そんな声が、風に混じって聞こえた気がした。


翔は目を細めた。


「こっちこそ、ありがとな」


そう呟いて、最後のターンに入った。


スローに見えるほど、滑らかな旋回。

水しぶきが陽光を浴びて虹色に輝く。


観客が立ち上がる。

ゴールラインが目の前に迫る。


翔はスロットルを押し込み、まっすぐ突き抜けた。


ゴールの瞬間、音が消えた。

ただ、光だけがあった。


ゆっくりと艇を止め、振り返る。

水面が金色に光っていた。

風が吹き、波が寄せては返す。


翔は空を見上げる。

雲一つない青。

まるで、リヴェルナの空の続きのようだった。


表彰台の上、優勝旗を受け取る。

フラッシュが焚かれ、声援が降り注ぐ。

その中で、翔は客席の一角を見た。


若菜と歩が手を振っていた。

歩が叫んでいる。


「おとうさん! すごい!」


翔はヘルメットを外し、笑った。

頬を伝う涙が、風で乾いていく。


マイクを向けられ、記者が質問する。


「水上選手、今の気持ちは?」


翔は少し考えてから、

いつもの調子で答えた。


「……そうですね。やっと、水と仲直りできた気がします」


会場がどっと笑いに包まれた。

脱力したような笑顔のまま、翔は手を振る。

水面の向こう、陽光が揺らめく。


その奥に、一瞬だけリヴェルナの街が見えた気がした。

少年が桟橋の上で、静かに手を振っている。


翔は小さく頷いた。


「また、どこかでな」


そして、波の音が静かに響いた。

まるで、拍手のように。




──完──





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