忘却の腕輪と空っぽの聖者
月読二兎
忘却の腕輪と空っぽの聖者
俺の名前はリアン。王都から馬車を乗り継いで三日もかかる、地図にも載っていないような田舎村で、しがない農民の三男として生まれた。
長男のゲイルは実直で、父の皺だらけの大きな手を尊敬していた。この土地を守り、家族を養っていくのが自分の役目だと、口癖のように言っている。次男のフィンは手先が器用で、村の鍛冶屋に弟子入りしていた。彼の打つ鋤や鍬は、父も認める出来栄えだ。
そして俺は、特にこれといった取り柄もない三男坊。継げる土地など指の先ほどもなく、成人したらこの村を出ていくのが既定路線だった。
別にそれが不満だったわけじゃない。むしろ、俺はそれを好機だと捉えていた。朝から晩まで土にまみれる生活も嫌いじゃなかったが、年に数回やってくる旅商人が話してくれる王都の喧騒や、酒場で語られる冒険者たちの武勇伝を聞くたびに、この狭い村の外にある広い世界への憧れが胸の中でどうしようもなく膨らんでいくのを感じていた。
「リアンは夢見がちだからな」
兄たちはそう言って笑ったが、俺は本気だった。いつか、大きな街で何かを成し遂げて、立派になってこの村に帰ってくる。幼い妹のサラに、キラキラしたお土産を沢山持って。そんな漠然とした、しかし確かな熱を帯びた夢が、俺のすべてだった。
その日、俺の運命を変えることになる「それ」を拾ったのは、本当に偶然だった。
村はずれにある「底なし池」。不気味な名前とは裏腹に、森の木漏れ日を浴びてエメラルドグリーンにきらめく、村一番の美しい場所だ。村の言い伝えでは、かつて建国の英雄が、あまりに強大すぎる力を封じるために、神授の品をこの池に沈めたのだという。もちろん、誰も本気にしていないおとぎ話だ。
汗ばむ陽気だったその日、俺は仲間たちと仕事をさぼって池に涼みに来ていた。火照った身体で水に飛び込むと、突き抜けるような冷たさが心地いい。ふと、仲間たちから離れて深く潜ってみると、水底の泥の中で何かが鈍く光るのが見えた。
好奇心に駆られて手を伸ばす。泥をかき分けると、そこにあったのは一つの腕輪だった。
何の装飾もない、あまりにもシンプルな銀の腕輪。だが、長い間水底にあったとは思えないほど、奇妙なくすみ一つない。手に取ると、ひんやりとした金属の感触が肌に馴染んだ。まるで生きているかのように、微かに脈打っているような気さえした。
「呪いのアイテムだったりしてな」
仲間への土産話にでもなればと、軽い気持ちで腕に着けてみた。するとどうだ。まるで最初から俺のためにあつらえられたかのように、手首にぴったりと収まった。外そうとしても、なぜかびくともしない。まあいいか、としばらく着けていることにした。
これが、世界に数多存在する伝説級の遺物――アーティファクトの一つであり、俺の人生を根こそぎ変えてしまう呪われた品だなんて、知る由もなかった。
◆
平穏な村に厄災が訪れたのは、それからひと月ほど経った嵐の夜だった。
森の奥深くに住み着いていたはずの魔獣、ブラッドハウンドの群れが、飢えか何かに駆られて人里まで下りてきたのだ。鋭い牙と爪、血のように赤い瞳を持つ狼型の魔獣。村の自警団が持つ錆びついた剣や農具では、到底太刀打ちできる相手ではない。
悲鳴と怒号が、叩きつける雨音に混じって響き渡る。家畜小屋が破壊され、収穫間近だった畑が踏み荒らされる。俺の目の前で、村の屈強な男たちが紙切れのように引き裂かれていった。血の匂いが、雨と土の匂いに混じって鼻をつく。
「リアン! 家の中にいろ!」
父さんの叫び声が聞こえる。家の中では、母さんと兄さんたちが、震える幼い妹のサラをかばってテーブルの下に隠れている。サラの小さな嗚咽が、俺の心臓を締め付けた。だが、雨漏りするような木造の家が、あの魔獣たちの突進に耐えられるはずもなかった。
どうすればいい。何かないのか。この悪夢を終わらせる方法が。
無力感に歯を食いしばったその時、左腕の腕輪がまるで心臓のように、どくん、と脈打った気がした。祈るような気持ちで、俺は腕輪を強く握りしめた。その瞬間、頭の中に直接、声とも言えない明瞭な「問い」が響いた。
――何を望む?
「こいつらを……この魔獣どもを、ここから消してくれ!」
気づけば、俺はそう叫んでいた。ほとんど無意識だった。
――対価を支払え。
対価? なんだっていい! 家族が、村のみんなが助かるなら!
そう強く念じた刹那、腕輪がまばゆい光を放った。視界が真っ白に染まり、次に目を開けた時、信じられない光景が広がっていた。
あれほど村を蹂躏していたブラッドハウンドの群れが、一匹残らず消え去っていたのだ。まるで幻だったかのように、血痕や足跡さえも残さずに。降りしきる雨が、静寂を取り戻した村を濡らしていた。
村人たちは呆然と立ち尽くし、やがて誰からともなく歓声が上がった。俺は英雄になった。村を救った少年として、誰もが俺を称賛し、その肩を叩いた。
だが、その日の夜、俺の中に小さな、しかし決定的な「穴」が空いたことに気づいた。
村の広場で行われたささやかな祝宴の席で、兄のフィンが快活に笑いながら言った。
「リアン、すごいじゃないか。朝、俺がお前のハンマーを隠したのを忘れるくらい興奮したよ」
その言葉に、俺はふと動きを止めた。
「ハンマー……?」
思い出せない。兄がそんな悪戯をしたことなど、全く記憶になかった。朝、畑に出る前、何をしていた? 母さんと話をしたような気はするが、何を話したか思い出せない。妹のサラに、花の冠を作ってやると約束したような気もするが、それもひどく曖昧だった。
「どうした、リアン?」
母さんの心配そうな声に、俺は慌てて笑顔を作った。
「ううん、なんでもない。ちょっと興奮してるだけだよ」
俺は笑ってごまかした。胸の奥で、小さな棘がちくりと刺さったような、嫌な感覚だけが残った。その夜、眠りにつく前に、ふと幼馴染のエリアナとの約束を思い出そうとした。明日、池のほとりで会う約束をしていたはずだ。でも、何のために? 何を話すつもりだった? その肝心な部分が、すっぽりと抜け落ちていた。
◆
村の復興は早かった。俺は英雄として扱われたが、日常は以前とは少しだけ違っていた。
最初は感謝と尊敬の眼差しだった。だが、それが次第に別のものに変わっていくのを、俺は敏感に感じ取っていた。畏怖。そして、恐怖。
俺が通りかかるだけで、楽しげな井戸端会議が止まる。子供たちは、俺の左腕の腕輪を見て、母親の後ろに隠れるようになった。親友だったはずの連中でさえ、どこか距離を置くようになった。
「なあ、あれって、本当に何でも消せるのか?」
「もし、あいつを怒らせたら……」
そんなひそひそ話が、嫌でも耳に入ってくる。
善意で使った力は、結果的に村人たちとの間に見えない、しかし分厚い壁を作ってしまった。感謝されればされるほど、俺は孤独になっていった。俺は村を救った。だが、俺自身の居場所は、この村から消えてしまったのだ。
成人を待たず、村を出ることに決めた。父も母も、何も言わなかった。ただ、寂しそうに、そしてどこか安堵したような複雑な表情で俺を見ていた。それが何より辛かった。
旅立ちの夜、荷物をまとめていると、エリアナが訪ねてきた。彼女だけは、最後まで昔と同じように俺に接してくれた。
「本当に、行っちゃうの?」
その声に、なぜか胸が強く締め付けられる。子供の頃、一緒に森で秘密基地を作ったこと。俺が高い木から落ちて怪我をした時、彼女が泣きながら大人を呼びに行ってくれたこと。そんな断片的な光景が頭をよぎる。知っているはずだ。こんなに胸が痛むのだから、きっと俺にとって、とても大切な人のはずなんだ。
なのに、思い出せない。彼女の好きな花の色が、彼女の笑い声が、どうしても靄の向こう側にある。
「……ああ。ここにいても、みんなを怖がらせるだけだから」
俺は、短く答えることしかできなかった。彼女は俯いて、小さなパンの包みを差し出した。
「せめて、これを持っていって。道中、お腹が空いたら食べて。昔、リアンが私を助けてくれた時のお礼。覚えてる? 熱を出した私に、崖の薬草を採ってきてくれたじゃない」
「助けた……?」
思い出せない。彼女を助けた記憶が、すっぽりと抜け落ちている。
彼女の潤んだ瞳が俺を映している。何か言わなければ。でも、何て言えばいい?
結局、俺は何も言えず、荷物を掴んで彼女に背を向けた。
「……じゃあな」
背後で息を呑む気配がした。俺は振り返らず、夜の闇へと駆け出した。わけもわからない涙が頬を伝う。誰かのために泣いているのか、それとも、何かを失った自分自身のために泣いているのか、もうわからなかった。
◆
旅の目的は、いったい何だっただろうか。王都で一旗揚げる? そんな夢は、とうの昔に色褪せていた。ただ、目の前に困っている人がいれば、助けずにはいられなかった。それが、空っぽになっていく俺という人間を繋ぎとめる、唯一の楔だったのかもしれない。
街道を歩いていると、荷馬車が轍にはまって立ち往生している男に出会った。
「よう、兄ちゃん! 見ての通りだ、ちょっと手を貸してくれねえか!」
太陽のように明るい笑顔で話しかけてきたのは、行商人のマルクと名乗る男だった。年の頃は二十代半ば。赤い髪を無造作に束ねている。俺たちは力を合わせて馬車を動かし、それがきっかけでしばらく行動を共にすることになった。
マルクは陽気でお喋りだった。俺がほとんど何も話さなくても、彼は気にせず一人でしゃべり続けた。彼の話は面白く、俺はいつしか、彼の隣で相槌を打つのが心地よくなっていた。彼は俺の腕輪を珍しそうに眺めたが、「いい細工だな!」と言うだけで、その力には気づいていないようだった。
「リアンは無口だけど、いざって時に頼りになるなあ。お前みたいな弟がいたら楽しかっただろうな」
マルクはそう言って笑った。その笑顔を見ていると、俺の心の中の凍てついた何かが、少しだけ溶けていくような気がした。
ある街では、二人で悪徳役人を懲らしめたり、またある森では、道に迷って一緒に野宿したりした。焚火を囲んでマルクが淹れてくれるハーブティーを飲む時間は、俺にとって何物にも代えがたい安らぎだった。俺は、マルクといる時の自分が好きだった。
悲劇は、山間の街を目指している道中で起こった。
俺たちは、大規模な山賊団「赤牙」に襲われた。その数、二十人以上。マルクは勇敢に戦ったが、多勢に無勢だった。彼の腕が斬りつけられ、鮮血が舞う。
「リアン! 逃げろ!」
マルクが叫ぶ。山賊たちの下卑た笑い声が響く。このままでは、二人とも殺される。
俺は決断しなければならなかった。
――何を望む?
腕輪が問いかけてくる。
「こいつらを……マルクを傷つけたこいつらを、全員消してくれ!」
――対価を支払え。
対価。ああ、わかっている。だが、マルクを失うことに比べれば!
まばゆい光が辺りを包み、山賊たちは悲鳴を上げる間もなく消え去った。後に残されたのは、傷を負ったマルクと、静まり返った山道だけ。
「り、リアン……今のは、一体……?」
呆然とするマルクに駆け寄り、彼の傷を手当てする。幸い、傷は深くない。
「大丈夫か、マルク」
「ああ……それよりお前……」
その夜、俺たちは近くの洞窟で火を焚いた。マルクは腕輪の力について何も聞いてこなかった。ただ、黙って俺の顔をじっと見ていた。
翌朝、目が覚めると、隣でマルクがまだ眠っていた。俺は彼の寝顔を見つめる。赤い髪の、陽気な男。俺は、この男を知らない。なぜ、見ず知らずの男と一緒に寝ているんだ?
言いようのない恐怖と混乱に襲われ、俺はその場から逃げ出した。背後で「リアン!」と俺を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返ることはできなかった。
俺はその日、旅の仲間を失った。そして、誰かと共に笑い、安らぎを感じるという記憶そのものを、永遠に失った。
◆
旅を続けるうちに、失う記憶の種類もより根源的なものになっていった。
疫病が蔓延する村では、水源の呪いを消し去った。対価は、「食事の喜びに関する記憶」だった。感謝した村人たちがご馳走してくれた焼きたてのパンも、甘い果物も、すべてがただの「栄養を摂取するための物体」にしか感じられなかった。かつて母が作ってくれたシチューの温かさや、仲間と分かち合った木の実の酸っぱさ、そういった食べ物にまつわる全ての温かい思い出が消え去っていた。生きるために食べるという行為だけが、味気なく残った。
ある街が、巨大な岩のゴーレムによって水源を塞がれ、干ばつに喘いでいるのに出くわした。人々は痩せこけ、地面はひび割れている。俺は街の人々と協力し、ゴーレムに立ち向かった。そして最後は、腕輪の力でゴーレムそのものを存在ごと消し去った。水が戻り、街は歓喜に沸いた。
その代償が何だったのか、すぐには分からなかった。ただ、街が歓喜に沸く様子を眺めていると、胸の中にぽっかりと大きな穴が空いたような感覚があった。何かを成し遂げた時、人はこんな風に喜ぶのか。その感情が、まるで遠い国の物語のように感じられた。
ふと、自分がどこから来たのかを考えた。帰るべき場所があったはずだ。温かい日差しと、緑の匂いがする場所が。だが、思い出そうとすればするほど、頭の中は白い霧に覆われるばかりだった。
人を助けても、何も感じない。ただ、そうするべきだからするという、機械的な作業に成り果てていた。
日記は、いつの間にか書かなくなっていた。文字を読んでも、そこに書かれている感情を理解できなくなっていたからだ。世界から、少しずつ色彩が失われていく。かつて美しいと感じた夕焼けも、今はただの時間の経過を示す記号でしかなかった。
◆
どれくらい歩き続けたのか。季節が何度巡ったのかもわからない。
気づけば俺は、大きな王都の城門をくぐっていた。活気のある市場、天を突くような白い城、行き交う人々の楽しげな声。かつて俺が夢見た光景のはずなのに、そのどれもが俺の心には響かなかった。まるで、色のない絵画を見ているようだ。心はとうに乾ききっていた。
自分が何者で、どこから来たのか。もう何もわからない。名前さえ、思い出そうとすると頭に靄がかかる。ただ、左腕の銀の腕輪だけが、自分の一部であるという奇妙な確信だけがあった。
日々の糧を得る術も知らず、俺は薄汚れた浮浪者になった。仕事を探そうにも、自分が何者で、何ができるのか説明できない。人々は俺を汚物でも見るかのような目で見、足早に通り過ぎていく。感情はとうに死に絶え、思考は鈍くなっていた。ただ「生きている」だけの残骸として、路地裏で壁に寄りかかり、意味もなく空を眺めるだけの日々。
空腹も、寒さも、ただの不快な情報として認識するだけだった。
左腕の腕輪だけが、泥と埃にまみれた俺の身体とは対照的に、変わらずに静かな輝きを保ち続けていた。
◆
ある晴れた日の午後だった。石畳の通りを、裕福そうな親子連れが歩いてくる。小さな女の子が、路地裏に座り込む俺を指さした。
「お母様、あの人、なあに?」
母親は眉をひそめ、俺を一瞥した。
「見てはいけません。ああいう、何もしない怠け者になってしまいますよ」
その言葉は、もう何も感じないはずの胸に、ちくりと刺さった。
しばらくして、巡回中の衛兵が俺の前に仁王立ちになった。カツ、と槍の柄で地面を突き、威圧的に言い放つ。
「おい、そこの浮浪者。街の景観を損なう。さっさとどこかへ行け」
俺はただ、黙って衛兵を見上げた。答える言葉を持たなかったからだ。
衛兵は苛立ったように舌打ちする。
「聞いているのか! お前のような者は、ここにいるだけで邪魔なんだ!」
『邪魔』
その一言が、何の抵抗もなく、俺の空っぽの心にすっと染み込んだ。
そうか。俺は、邪魔なのだ。
何もしない。何もできない。ただそこにいるだけの、不要な存在。
論理的な思考の欠片が、答えを導き出す。不要なものは、取り除かれるべきだ。
ならば、そうか。やるべきことは、たった一つだけだ。
俺はゆっくりと立ち上がった。衛兵が「やっと動く気になったか」と怪訝な顔をしている。
俺は左腕の腕輪を見つめた。これまで、ずっと誰かのために使ってきた力。
これを、初めて自分のために使う。
心の中で、静かに、機械的に願った。
――この『邪魔なもの』を、消してくれ。
腕輪が、優しく、穏やかな光を放った。
自分の足元から、身体がさらさらと光の粒子に変わっていくのが見えた。痛みも、悲しみも、恐怖もない。
ただ、長い旅の終わりが来たような、深い安堵感だけがあった。
最後に、栗色の髪をしたそばかすの少女が、優しく笑いかけてくれたような幻を見た気がした。それが誰だったのか、なぜ温かいと感じるのか、もう確かめる術はない。
光の粒子が風に吹かれて完全に消え去った後。
石畳の地面に、ことり、と小さな音が響いた。
主を失った銀の腕輪が、まるで次の誰かに拾われるのを待つかのように、傾きかけた陽の光を受けて静かに輝いていた。
忘却の腕輪と空っぽの聖者 月読二兎 @29432t0
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