Double Side-S
だっこしろくるみゆ
第1話
「人間は誰しも二つの人格を持っている。」私も、そう思っていた。人は誰もが裏の顔を持っている。でも、あの人は――違った。誰よりも綺麗な心を持っていた。悲しいほど、透き通った心を。
草の香りがほんのり鼻先を撫でる。回廊の床を叩く、ブーツの音が軽やかに響く。そして、右手に温もりが宿る。あなたは……誰?
「今日はいい天気だね。少し歩いていこうか。」
その声が霧に差し込む光のように、一瞬でぼんやりとした意識をはっきりと照らした。だめ、お姉ちゃん行かないで!視界が暗転する。そして、それが白く弾ける。目の前には、血まみれになった人のような塊。食い散らかされた残骸。根元からぽっきりと折れている剣。
「お姉ちゃん!」
その声で私は目覚めた。まだ真夜中の澄んだ世界に、私の激しい吐息だけが響く。硬い地面の冷たさが指先からじわりと沁みた。この夢を何度見ただろう。私は、またお姉ちゃんを助けられなかった。
「落ちこぼれ。」
それが、私のあだ名だった。剣術の才能があったお姉ちゃんとは違い、私はその足元にも及ばなかった。流れるように、しなやかに剣を振るうお姉ちゃん。魔物は一見するとただの人間。でも、その瞳は、血のように濁っていて、動きの速度、力の強さは人間離れしている。そしてなにより――人を食って生きる。その生態は詳しくは分かっていない。遠い昔からずっと人間の脅威として存在し続けている。そんな魔物をなるべく痛めつけないようにして戦うお姉ちゃんは、慈愛の女神だと崇められた。私はその横で、いつかそうなりたいとただ、漠然と憧れていた。
「サーシャも立派な冒険家になれるよ。」
それがお姉ちゃんの口癖だった。優しいからそんなことを言ってくれたんだ。私になれるはずがないのに。そして、お姉ちゃんは死んだ。魔物に襲われた私を逃がして、身代わりとして食い殺された。お姉ちゃんなら、お姉ちゃんならば、これからも沢山の人々を救えたのに。何で、私を助けたの?落ちこぼれの私を。
「私が死ねば良かったのに。」
ぽつりと呟いた言葉が、胸の柔らかいところをグサリと刺した。
命を失ったお姉ちゃんに比べたら、これくらいで済んでよかったと思えるのだろうか。私は、魔物との戦いで右手の人差し指と中指を失った。今まで使っていた剣は力を入れて握ることが出来ず、弓矢は狙った位置に矢を討つことが出来ない。敵討ちすら出来ないなんて、私はなんて無様なんだろう。村からは姉を見殺しにした、と追い出され、今は一文無しだ。きゅううぅ、とお腹が鳴る。もう何日ご飯を食べていないだろう。冷たい土の上で寝ていたせいで身体中が痛い。
「お姉ちゃん……助けて……。」
私は何を言っているのだろう。お姉ちゃんは死んだのに。私のせいで。頭の中に濃い霧がかかったような気がした。私は死ぬのか。何も出来ないまま。意識が遠のいていく。遠くから足音が聞こえてきた。軽やかなブーツの音。何故か、懐かしさを感じる。
「大丈夫?」
あなたは……誰?お姉ちゃんなの?
「大変。今、水をあげるね。」
その途端、口に潤いが広がった。干上がった喉に水分が染み込んでいく。我慢出来ずに、甕をひったくるようにして、喉に全て流し込んだ。
「げほっ、げほっ。」
「慌てて飲むからだよ。」
くすくすと笑い声が聞こえる。そこで初めて隣を見ると、綺麗な長い髪の少女がいた。こんなに暑いのに、身体中を分厚いコートで覆っている。なのに涼し気な表情で笑っていた。私は息を飲んだ。その笑顔がお姉ちゃんにそっくりだったからだ。
「お姉ちゃん……。」
涙が溢れてきた。分かってる、別人だなんて。分かってるけど、分かりたくなかった。
「君は、家族を失ったの?」
彼女の胸で泣いたままこくりと頷いた。
「そっか。それは辛かったね。」
そういって彼女は私を撫でてくれた。温かくて優しくて、気持ちが和らいだ。
「私はラ……モカ。あなたは?」
少しだけ名前を言い淀んだ。その違和感を口にする前に、彼女はまた微笑んだ。
「……サーシャ・コシュカ。」
「サーシャか。いい名前だね。ねえ、サーシャ。良かったら私と一緒に来ない?」
モカが私を見つめる。きらきらと光る瞳に私の顔が映った。「落ちこぼれ」あの声がまた聞こえる。
「だ、めだよ……。」
拳をぎゅっと握る。
「私は冒険家なのに戦えない、落ちこぼれだから。」
私はモカに右手のことを話した。これじゃあ戦いの役に立てない。
モカに迷惑をかけるだけだ。お姉ちゃんの死が頭をよぎる。もうあんなことは起こしたくない。
「じゃあ、戦う以外の方法なら?」
え、と思わず言葉を漏らした。モカがカバンを漁る。そして、古ぼけた本を取り出した。埃ですすけている。それをモカが払うと、擦り切れた革の表紙が現れた。
「これ、色々な呪文が載っている本なんだ。私が敵を討つから、サーシャはこれで私を援助してよ。」
本を捲る。破れかけたページに古代文字で何やら呪文のようなものが書かれていた。こんな本、見た事ない。でも、私にはこれが救いのように思えた。私も役に立つことが出来るかもしれない。何より、落ちこぼれのままで終わるのは、嫌だった。
「モカ、私を連れていって。」
その言葉に、モカは深く、しっかりと頷いた。
「私の故郷、今は没落したクレセント城。そこに行かなければならないんだ。」
モカがそう言った時、私は心臓を鷲掴みにされたように感じた。クレセント城は今やもはや魔物の巣窟だ。そこに行くなんて、死ににいくようなものだ。
「そこに、私の大切な人が捕らえられている。必ず助け出したい。」
静かに、淡々と語るその顔は、闘志が燃えていた。胸が締め付けられる。その時、私は自分の手が震えていることに気づいた。私は、怖い。ただでさえ戦うことが出来ないのに、こんなの無理だ。
「モカの大切な人って、どんな人なの?」
そう尋ねると、少し顔を顰め、話し出した。
「フィリア家の……第一皇女。名前はラテ。私は元々彼女の影武者だったんだ。でも、あの日私が身代わりだとバレてしまって。滝から突き落とされて、運良く生き残っちゃった。そして、ラテは今もあそこで捕らえられてる。」
辛いことを思い出させてしまった。辺りに沈黙が流れる。モカの大切な人、私も助けたい。気づいたら、私はモカの手を握っていた。
「私はモカについて行くよ。」
お姉ちゃんがいなかったなら、とっくのとうに無くなっていたこの命。今更なんてことない。残りの人生はモカにかける。そう思えたのは、モカをお姉ちゃんと重ねていたからかもしれない。私はモカを救うことで、過去の過ちを取り戻そうとしているんだ。
魔物の咆哮が響き渡る。そして、森に溶けていった。それに果敢に立ち向かうモカ。踊るように剣を振るう。でも、魔物の方も負けていない。長い刃物のような爪がモカの右腕を切り裂く。
「ルナティック・ムーンリット!」
私が叫んだ瞬間、光がモカを包んだ。見る間に傷が塞がっていく。そんな力が自分にあるなんて――驚きと、安堵と、そしてほんの少しの誇りが胸に芽生えた。そして、モカの剣が、魔物の肢体を貫いた。しとめた!でも、まだ魔物は荒れ狂う。危ない。モカが三歩飛んで、空中でくるりと回った。その勢いで相手に攻撃を与える。それで、魔物がようやく倒れた。
「この森を抜けた先に、クレセント城がある。」
そう言うモカの顔は嬉しさで紅潮していた。私も嬉しかった。もうすぐでモカが大切な人に会える。私もその役にたてている。その夜は明日に備え、早めに寝た。
「サーシャはこの戦いが終わったら何をするつもりなの?」
モカに聞かれて、少し考える。そんなこと考えたことも無かった。モカといる、この時間が幸せすぎて。ずっとモカと一緒に旅をしていたい、なんて恥ずかしくて言えなかった。それに、モカが目的を果たしたら、私達は離れ離れだ。
「分からないや。モカは何をしたいの?」
何気なく聞いたつもりだった。でも、モカからは予想だにしない言葉が返ってきた。
「何も出来ないかもしれない。私、もう長くないんだ。」
そう言ってあはは、と笑った。けれど、私は身体の芯が凍るような思いだった。長くない?それって死期が近いってこと?
「何で、モカ病気なの?」
聞いてはいけないことだと分かっていた。でも、口が勝手に動いていた。モカは着ていた服を脱ぎ、上半身を露にする。私は思わず悲鳴を漏らした。モカの身体には、幾筋もの傷が走っていた。でも魔物にやられたもの、というより手術や薬品の跡のようだった。そして、モカは聞くのも耐えられない話をしだした。
「私はラテの影武者として、育てられたから、幼い時から強い薬物を摂取したり、身体整形を繰り返したりしているんだ。」
私は恐怖で動くことも出来なかった。私の呪文は、魔物による傷にしか効かない。だから私の呪文は役に立たない。無力の自分が恨めしかった。でも、それを語るモカの顔は平然としていた。
「でも、これってとても光栄なことなんだよ。皇女様の命を守る盾になったんだから。と言ってもくじ引きで選ばれたんだけど。」
それ以上言わないで。でも、モカは止まらなかった。
「私は元々男性だったから、余計に手術が必要で。あ、でも安心して。短くても10代の間は生きられるって、言われたから。死ぬ前に、必ずラテを救ってみせるよ。……サーシャ?何で泣いているの?」
ただ悲しかった。モカに背負わされた運命の残酷さが。そして天国のお姉ちゃんに祈った。どうか、どうかモカの願いが叶いますように。それは私の願いでもあるから――。頭に温もりが広がる。モカが私を撫でてくれていた。
翌朝。以前市場にあった絵画で見た時と違い、目の前のクレセント城は茨が絡みつき、石造りの外壁は脆く崩れ、辺りには死臭が漂っていた。
「たった一月(ひとつき)でここまで荒れてしまうんだ……。」
モカがぽつりと呟いた。そして、城に足を踏み入れた瞬間。何体もの魔物が私達に向かってきた。魔物は黒く濁った目をぎらつかせ、泡立つ唾液を撒きながら突進してくる。だがモカは動じなかった。剣を抜き、一直線に切り裂いた。それらは一振りで残骸となった。だが、魔物はどんどんやってくる。きっとラテを取り返させまいとしているんだ。だけど、こっちも負けられない。モカと私なら出来る。私は必死に呪文を唱え続けた。
「ラテ!いるなら返事して!」
石造りの壁にモカの声が反射する。残響が廊下の奥まで、届いて聞こえなくなった時だった。
「モカなの?モカ!助けて!」
「ラテだ。サーシャ、こっち!」
私達は声の元へ走った。そこには、鳥籠に入れられた少女がいた。魔法がかかっているのか、触れることが出来ない。モカが影武者というだけあって、ラテはモカにそっくりだった。感動の再会もつかの間。傍には屈強な魔物がいて、目が合った瞬間、斧を振るってきた。だけど、モカは速い。振り落ちる前に上に飛んで、攻撃を避けた。でも、中々攻撃が通らない。さっきまで順調だったのに、あと少しでモカの願いが叶うのに。斧が床に叩きつけられ、鈍い轟音が響いた。それと同時に私の身体が外に投げ出される。油断していた。目をぎゅっと瞑った瞬間、誰かに身体を抱きしめられた。恐る恐る目を開けると、モカだった。
「モカ!」
そして私を床に下ろし、身体を捻じるようにして、魔物に剣を振るった。その途端、魔法が解け、鳥籠が消えた。
「ラテ、ラテ!」
モカがラテの元へ走っていく。二人は抱きしめあった。モカは喜びの涙を浮かべていた。良かったね、モカ。ラテと出会えて。ラテの方を向くと、同時に私は違和感を抱いた。ラテはモカと同じ顔だ。なのに、ラテの笑顔は作り物のような違和感があった。心から笑っていないような……。でも、気のせいだと思うことにした。私はそれをごまかすように首を振った。
数ヶ月が経った。驚くことに、この短い期間でクレセント城は元通りに復興した。フィリア家の財力が恐ろしい。モカの活躍を知っていた町の人々の声もありがとう、モカは今まで通り城で影武者としていられることに、そして私もそのモカを助けたとして、城に留まることになった。またモカと一緒にいられる。それが嬉しかった。でも、ある日のこと。広間に出ると、何やら騒がしい。人混みを通り抜けて行くと、そこには、血まみれのモカがいた。思わず息を飲んだ。
「森で倒れているところを発見しました。」
「魔物にやられたんでしょう。」
周りの目も気にせず、モカの傍へ走った。爪が剥がれ、腕や脚は傷だらけだった。私は直ぐにこの人達の言葉に違和感を感じた。モカは外出する時、必ず肌を隠す為に長いコートを着ていたから。それに、剣は使った形跡がない。
「サー、シャ……。」
モカの口がかすかに動いた。生きている!光が差した気がした。瞳がうっすらと開かれる。私はモカに向かって叫んだ。
「ルナティック・ムーンリット!」
でも、モカの傷は治らなかった。何度叫んでも、モカは苦しそうに呻くだけだった。何で、何で治らないの?そこではっとした。この呪文は魔物による傷にしか効かない。モカは誰かによって命を奪われかけたんだ。一体誰が?いや、そんなこと今はどうでもいい。私はモカをベッドへ運んだ。必死に手当てをしても、モカの容態は悪化する一方だった。苦しそうな息も、既に絶え絶えだ。
「お願いモカ、死なないで。」
そう訴えても、無駄だった。そう分かっていても、私はモカに声をかけ続けた。
「大丈夫?モカ。」
後ろから場の雰囲気に見合わない、あどけない声が聞こえてきた。
「傷だらけじゃない。」
そう言ってクスクスと笑う。それで分かった。犯人はこいつだ。
「何でこんなことしたの。」
私の声は震えていた。城の魔物と戦った時よりもずっと恐ろしかった。モカの温もりを感じていなかったら暴れ回っていたかもしれない。ラテが小首を傾げて言う。
「だって、モカが失敗して私は危険な目にあったんだよ?刑罰を与えるのは当然じゃない。それに、消費期限も近かったし。丁度良かった!」
目の前のこいつが本当に人の心を持っているのか甚だ疑問だった。何でそんな恐ろしいことを飄々と言えるの?何で笑っているの?モカと同じ顔で、そんな醜い笑みを浮かべないで。
「ラ、テ……。」
ベッドが僅かに軋む。瞳がまた、うっすらと開かれる。口から、小さな声が漏れ出る。
「守、れなくて……ごめん。」
それが最後の言葉だった。部屋にラテの笑い声がこだまする。私はぺたんと座り込んでしまった。モカ、何で謝ったの?モカは命をかけて戦ったじゃない。幼い頃からこんな仕打ちを受けて、結果がこれ?こんなの、酷い、酷すぎるよ……。瞳から涙がぼろぼろと溢れだした。モカは頭を撫でてくれなかった。
「大臣に報告してくるね。影武者が死んだから、代わりを用意してくれって。」
鼻歌を歌いながら部屋を立ち去っていく。私はもう怒りで狂ってしまいそうだった。これは人なんかじゃない、モカの皮を被ったただの悪魔だ。傍にあったモカの剣を掴む。乳白色に輝く刃先がラテの胸を貫いた。驚愕と痛みでラテの顔が歪められる。お前なんか、お前なんか!悲鳴が聞こえた。でも、その声は直ぐに消えた。荒い息をしながら、私は剣を投げ捨てた。ごめん、モカ汚しちゃって。でも、抑えられなかった。こうするしか無かったんだ。戦いなんてしたこと無いか弱いお嬢様は、この障害のある手でも簡単に殺せた。絹の空色のドレスが血の色に染まる。私が……やったんだ。でも、後悔なんか無かった。寧ろ清々しかった。ゆっくり立ち上がると、ラテの生気を失った瞳に私が映った。返り血のせいだろうか、私の瞳は赤く濁っていた。よろよろとモカに近づく。モカの身体は氷のように冷たかった。ゆっくりと唇を近づける。初めてのキスは幸せと不幸が入り交じった味がした。でも、もう涙は出てこなかった。その時、扉の外から何やら声がした。悲鳴を聞きつけて兵士がやってきたんだろう。私はモカの遺体を抱えて三階の窓から飛び降りた。
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