幸福が飛んでこない

侘山 寂(Wabiyama Sabi)

幸福が飛んでこない

 朝、光が落ちてくる。

 真新しい天井の下で、私はまっすぐに立つ。倒れないように、支えられながら。

 昨日までは名前だけの存在だった。

 今日からは名札をつけられ、この場所に並ぶことになった。


 笑顔をつくるのは、もう慣れた。

 周りの人たちの様子はどれも穏やかで、同じ方向を見つめているように見える。

 その姿が美しいと誰かが言った。

 私も、そう見えるように立たなければと思った。


 光の受け方、傾きの角度、咲く順番。

「清らかに、美しく、幸福を運ぶように。」

 それが正しい咲き方なのだと、誰もが信じている。


 けれど、時々息苦しい。

 光はいつも強すぎて、胸の奥が焼けるように痛い。

 窓は開かない。風は入ってこない。

 外の空気を知らないまま、私は一日を終える。


「ここでは、長くもつ人が評価されるの」

 周りの誰かが言った。

 その言葉は優しくて、ひどく冷たかった。

 長くもつ──枯れないということ。

 誰かがいなくなっても、空いた場所はすぐに埋められる。

 まるで、最初から何もなかったみたいに。


 夜になると、私は独りになる。

 誰もいないオフィスに、蛍光灯の残光が落ちる。

 水の音がかすかに響く。

 喉が渇く。

 誰かに話しかけたい。

 けれど、言葉はどこにも届かない。


「幸福が飛んでくる。」

 私を見て、そう言う人もいるらしい。

 けれど、幸福はどこからも飛んでこない。

 ここには風がない。

 咲く余白さえ与えられない。


 朝が来る。

 光がまた落ちてくる。

 私は笑顔をつくり、名札の下で根を伸ばす。

 誰かが言う。

「お祝いはいつも胡蝶蘭だ。なぜだろうね」


 その声が胸の奥で何度も響く。

 どうしてだろう。

 どうして、みんな同じように咲いて、 同じように黙って、 それでもまだ「幸福」と呼ばれたいと思うのだろう。


 幸福が飛んでこないこの場所で、 私は今日も咲いている。

 泣きたいほど静かに、 誰にも見えない心で。

 ─────────────────────────

 「胡蝶蘭(Phalaenopsis)」

 ラン科の多年草。東南アジア原産。

 花言葉は「幸福が飛んでくる」。

 開店・開業などの祝い花として多く用いられ、 白い花弁は清潔と繁栄の象徴とされる。

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幸福が飛んでこない 侘山 寂(Wabiyama Sabi) @wabiisabii

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