第2話 タクミ×ミア 夢宿のオババ


タクミとミアを目の前に広がる異世界へと誘ったアーチの門をくぐり抜けると、その道は一本の石畳となった。雨はすっかり止み、湿った空気が二人の肌にまとわりつく。空は、地球のものとは違う、鉛のような鈍い色をしていた。


ミアは、異様な光景に目を奪われながらも、タクミの隣にいることに居心地の悪さを感じているようだった。しかし、ここが未知の世界であるという本能的な恐怖が、彼女を兄から離れることを許さなかった。


「本当に、夢でも見てるみたいだ」


ミアが小さな声で呟いた。彼女の髪は濡れて張り付いているが、その瞳は恐怖の色を湛えながらも、目の前の非日常に引き込まれているようだった。ブリーチと派手なメイクで武装したはずの彼女の顔から、大学デビューの虚勢はすっかり剥がれ落ち、そこには、ただ不安に怯える一人の少女の顔があった。


タクミは、彼女を心配し、無言でその手をしっかりと握りしめていた。ミアは振り払わなかったが、その手に込められた力は、拒絶でも受け入れでもない、ただの**諦め**のように感じられた。


「夢じゃない。でも、現実とも違うみたいだ」


目の前の一本道は、なだらかな下り坂になっており、遠くには明かりがぽつぽつと灯る街が見えた。その街並みは、石造りの建物が密集している。


「とにかく、あの街まで行ってみよう。ここに立っていても、何も始まらない」


二人は、重い足取りで歩き始めた。道中、街に続く道にも、人影は一切なかった。街が近づくにつれて、風に乗って微かなざわめきが聞こえてくるが、それは人々の話し声というよりも、何かの機械音や、動物の鳴き声に近い、奇妙な音だった。


一時間ほど歩いて、ようやく街の入り口に到着した。建物が途切れたところから、すぐに生活空間が広がっている。しかし、そこには、人の気配がなかった。


「変だよ、タクミ兄。こんなに明かりがついているのに、誰もいないなんて」


ミアが、たまらず言葉を発した。タクミの服の袖を引っ張っているが、それは兄に甘えるというよりも、ただ恐怖に耐えかねた無意識の行動だった。街路灯として使われているらしい、鉄製のランタンの明かりは心許なく、街全体を不気味な影で包み込んでいた。


二人が街の中心と思われる広場に足を踏み入れると、数軒の店らしき建物が並んでいた。どの店の前にも商品が並べられ、ランタンの光に照らされている。


タクミは意を決して、一番近くにあったパン屋の入り口を覗き込んだ。


「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」


すると、店の奥から、ずんぐりとした体型の女性が出てきた。彼女は、異様なほどに目が大きく、皮膚は青白い。着ている服は、布というよりも、何かの皮を加工したような、ごわごわとした質感だった。


「いらっしゃい、珍しいお客さんだね」


その声は、日本語だった。しかし、抑揚がなく、どこか機械的に響く。


「あの……この街には、人がいないんですか?」

タクミの問いに、パン屋の女は大きな目をさらに見開き、不気味な笑みを浮かべた。

「人はいるよ。でも、あんたたちと同じような『旅人』以外は、滅多に店から出てこないんだ。ここはもうすぐ、**完全に暗くなるから**ね」


「旅人」という言葉が、タクミの頭の中に響いた。


「泊まるところを探してるなら、この先の『夢宿』がいいよ。美味しいご飯と、温かいベッドがある」


女はそう言うと、奥へと引っ込んでしまった。タクミとミアは顔を見合わせ、言われた通りに街の奥へと進んでいった。あたりは、言われた通り、急激に暗さを増し、ランタンの光だけが頼りとなっていた。


---


街を抜ける一本道。明かりは店の光だけで、辺りはすっかり闇に包まれていた。不安と疲労がピークに達した頃、道の先に、ぼうっと光を放つ建物が見えた。


**『夢宿』**。看板には、見慣れた日本語でそう書かれていた。


タクミとミアは、ためらうことなく宿の扉を開けた。カランコロンと、古びたドアベルが鳴り響く。


ロビーは、薄暗く、埃っぽい匂いがした。木製のカウンターの奥で、炎の揺らめきのような明かりが灯っている。


「やぁやぁ、おいでなすったね、旅のお方」


カウンターの中から、一人の老婆が身を乗り出した。彼女は、深いシワの刻まれた顔に、鋭い目つきをしており、頭には妙に大きな三角巾を被っている。それが、宿の女将、オババだった。


「あの、宿泊させていただけませんか」

タクミが尋ねると、オババはニヤリと笑った。


「もちろんさ。温かいスープと、ふかふかのベッドを用意してある。だが、その前に、あんたたちが誰なのか、知っておきたいね」

オババは、タクミとミアを、頭のてっぺんから爪先まで、舐めるように見つめた。


「俺はタクミで、こっちは妹のミアです」


「ふむ、きょうだい……しかも、心が通い合っていない、拗らせたきょうだいだね。面白い」


オババの言葉に、タクミもミアもギクリとした。オババは、二人の間にある冷え切った関係を、瞬時に見抜いていた。


「おばあさん、ここは一体どこなんですか? 私たちはどうやってここに来たのかもわからないんです」


ミアが、恐怖に耐えかね、口を開いた。


オババは、カウンターに肘をつき、顔を近づけてきた。その吐息は、薬草のような、奇妙な香りがした。


「ここはね、**『ぽへぽへるりるり』**という世界だよ」


「ぽへぽへるりるり?」


「そうさ。伝説の世界。**本当に心が通ったきょうだいだけが入れる**、特別な場所。あんたたちは、特別なルートを通ってきちゃったみたいだね」


「心が通い合った……?」


ミアは、タクミをちらりと見た。**「兄なんてウザイだけ」**と拒絶していた自分の心とは真逆の言葉。この世界が言う「心が通ったきょうだい」という定義に、彼女は強い違和感を覚えた。タクミもまた、戸惑いを隠せない。


「私たちは、元の世界に戻りたいんです。どうすれば帰れますか?」


タクミは、冷静さを保とうと努めながら、オババに詰め寄った。


オババは、再びニヤリと笑い、手のひらを広げた。


「戻る方法は、もちろんあるさ。それは、この世界に伝わる**『きょうだいの試練』**を乗り越えることだよ」


「試練?」


「ああ。試練をクリアして、この世界の最も高い山、**『ぽへ山』**に登る。山頂には、この世界を統べる**『ぽへキング』**が待っている。そのぽへキングに知恵と勇気で打ち勝ち、山頂にある**『再会の鐘』**を鳴らすんだ。そうすれば、あんたたちの世界へ戻れる」


オババの説明は、あまりにも現実離れしていたが、この状況で疑う余地はなかった。


「試練は、明日になったら、おせっかいな門番が教えてくれるさ。今日はもう遅い。ゆっくり休みな」


オババは、そう言って、宿帳らしきものを取り出した。


「ところで、お代はどうなるんですか?」


タクミが尋ねると、オババは顔に深く刻まれたシワをさらに寄せた。


「お代はねぇ……金貨でも、宝石でもない」


オババの視線は、タクミとミアの間に向けられた。


「あんたたちきょうだいが、**『心が通い合った証』**を見せてくれることだよ」


「証?」


「そう。二人の、**口づけ**さ」


その言葉に、タクミとミアは、同時に息を呑んだ。ミアは顔を真っ赤にし、一歩後ずさった。


「き、キス!? 馬鹿なこと言わないでよ!」


ミアは、激しく反発した。兄に対する嫌悪と、この異様な要求に対する羞恥と怒りが入り混じった、強い拒絶の感情だった。


「いくらなんでも、兄妹でそんなこと……」


タクミも強い抵抗感を覚えた。妹を心配する気持ちと、兄妹の間の線を越えることへの生理的な嫌悪感が、彼の中で激しく衝突した。


「冗談じゃないさ。これは、この宿の唯一のルールだよ。心が通い合っていないきょうだいには、温かいベッドは与えられない。この世界は、**『きょうだいの愛』**で成り立っているんだからね」


オババの目が、鋭く光った。


「さあ、どうするね、タクミ。拒否するなら、お代はいらない。その代わり、温かい部屋じゃなく、**『心の独房』**で一夜を過ごしてもらうよ。もちろん、食事もなしさ」


独房。タクミは、恐怖に震えるミアを見た。彼女の全身から、兄への拒絶と同じくらい強く、「キスは嫌だ」という意思が伝わってきた。


「独房って、どんな……」


「暗くて、冷たくて、一人きりじゃあ心細くなるような場所さ。あんたたちみたいに、まだお互いを信じきれていないきょうだいには、うってつけの場所だよ」


タクミは、静かに目を閉じた。ここでミアに嫌悪される行為を強いることは、彼女との関係を完全に断ち切ってしまうだろう。何よりも、彼女を苦しめることになる。


「わかりました。宿代は払えません。独房に入れてください」


タクミがそう告げると、オババは心底つまらなさそうな顔をした。


「ちぇっ、つまらないね。まぁいいさ。ついておいで」


オババは、カウンターの奥から、一本の錆びた鍵を取り出し、タクミとミアを宿の裏手にある薄暗い通路へと連れて行った。


---


独房は、宿の地下にあった。石造りの冷たい部屋で、窓はない。天井の小さな鉄格子から、かすかな湿気と、獣のような匂いがするだけだった。


「さあ、お入り。夜明けまで、ここで**『心の対話』**でもしていな」


オババはそう言って、二人を押し込み、重い扉を「ガチャリ」と閉めた。鍵が回る音が、異様に大きく響いた。


中は、本当に真っ暗だった。手を伸ばしても、ミアの姿すら見えない。


「タクミ兄……どこ?」

ミアの、不安で震える声が聞こえた。


「ここにいるよ、ミア。すぐ隣だ」


タクミは、手を伸ばし、暗闇の中でミアの手を探した。冷たい、小さな手が触れた瞬間、タクミはそれを強く握りしめた。ミアは、拒絶することなく、その手を握り返した。


「寒……い」

ミアは、声を殺して震えた。


「大丈夫だ。俺がいる。明日には、必ずここを出るから」


タクミは、自分のジャケットを脱ぎ、ミアの肩にかけた。石造りの床は冷たく、湿気が体温を奪っていく。二人は、身を寄せ合い、壁にもたれかかった。ミアは、兄の体温に、無言でしがみついた。それは、彼女がどれだけタクミを嫌っていても、この極限状態では、兄の存在が唯一の頼りであることを示していた。


長い沈黙の後、ミアが蚊の鳴くような声で言った。


「……なんで、私なんかを、助けに来たの。ウザいって言ったのに」


タクミは、彼女の髪をそっと撫でた。


「お前は、俺のたった一人の妹だからだ。嫌われてても、心配するのは止められない」


その一言に、ミアは何も返さなかった。ただ、兄のジャケットに顔を埋め、小さく嗚咽するだけだった。タクミの胸には、彼女が過去に言った「ウザイ」という言葉と、今、自分の腕の中にいる妹の温もりが混在していた。


(どうして俺たちは、こんなに拗れてしまったんだろう)


冷たく、長く、暗い夜が、ゆっくりと明けていった。


---


「ガチャン!」


早朝。重い扉が開く音と、オババの甲高い声が、独房に響いた。


「さあ、朝だよ、きょうだい! よくぞ、**『心の対話』**を乗り越えたね」


薄暗い光が差し込み、タクミとミアは眩しそうに目を細めた。二人は、兄のジャケット一枚を分け合い、身を寄せ合って座っていた。顔には、一夜の疲労と、寒さによる憔悴の色が浮かんでいた。


「宿代は払えませんでしたが、これで、出られるのですね」

タクミが立ち上がり、体を揺すって冷え切った体を温めた。


「もちろんだ。ルールはルール。お代を払わなかったんだから、宿で休む権利はない。さあ、さっさと**『試練』**に向かいな」


オババは、冷たい目で二人を見据え、宿の外へと促した。


宿を出ると、街はまだ朝靄に包まれていた。昨日見た店は、相変わらず開いているが、人の気配はない。


「タクミ兄……これから、どこへ行けばいいんだろう」


ミアは、タクミの横に立ち、不安げに言った。昨夜の独房での一件以来、彼女の兄に対する態度は、少しだけ、ほんの少しだけ、軟化していた。嫌悪が消えたわけではないが、兄の存在を認める姿勢は生まれていた。


「オババは、『おせっかいな門番』が教えてくれるって言ってたな」


二人が、宿から少し離れた広場に差し掛かった時、広場の中央に、奇妙なものが立っているのを見つけた。


それは、大きな石碑だった。石碑の横に、一人の男が立っている。男は、緑色のローブをまとい、顔はフードで隠されて見えない。手には、羊皮紙のような巻物を抱えていた。


「あんたたちが、ぽへぽへるりるりへ迷い込んだ、新しいきょうだいだね」


男が、巻物を広げながら、抑揚のない声で話しかけてきた。


「あなたが、門番ですか?」


「そうだ。私は、**『試練の案内人』**。おせっかいな仕事だよ」


案内人は、巻物に書かれた文字を、棒で指し示した。文字は、この世界の文字だったが、案内人の声が、それを日本語に変換して聞かせてくれた。


「きょうだいの試練、第一章。**『失われた思い出の泉、かな泉』**を探せ」


「かな泉?」


「そうだ。ぽへ山へ向かうためには、この街の東にある『忘却の森』を抜けねばならない。森の奥には、きょうだいが**『本当に失ってしまった、最も大切な思い出』**を映し出す”かな泉”がある。その泉を見つけ、二人で心に刻み込むことが、第一の試練だ」


案内人は、巻物を巻き取ると、そのまま東の森を指差した。


「森の入り口まで、この一本道を進むんだ。道標はない。ただ、**『きょうだいの心の繋がり』**だけを信じて進め。失敗すれば、森の中で永遠に彷徨うことになるだろう」


案内人は、そう言い残すと、タクミたちが何かを尋ねる間もなく、石碑の陰に隠れて、姿を消してしまった。


タクミとミアは、顔を見合わせた。目の前には、薄暗く、木々の枝が複雑に絡み合った、恐ろしい森が口を開けている。


「さあ、行こう、ミア」

タクミは、力強くミアの手を握り直した。


「うん……」


ミアは、もはや拒絶の言葉を発することはなかった。ただ、兄が差し伸べた手を、強く握り返した。


二人は、**『かな泉』**を探すため、未知の森へと足を踏み入れた。彼らの試練は、今、始まったばかりだ。

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ぽへぽへるりるり @poheruri

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