十六夜橋で会いましょう

甘夏みゆき

十六夜橋で会いましょう

「ええぃ!もってけドロボ——!」

 調子の良い口上と共に茶碗の底に小銭が落ちる、チャリンという音がした。

―波銭一枚だ

 両手をついて丸まっていた糸吉いときちは、つぶさに金の種類と数を嗅ぎ取ると、小さな頭を床板の上に擦りつけた。

 まるで神棚に拝むように頭上で手を合わせ、繰り返し頭を下げる。

これが糸吉の日常で、糸吉の生きる術でもあった。

 

 糸吉は藩主さまのお城の堀に続く御殿ごてん川に掛かった橋、十六夜いざよい橋の物乞いだ。とうになるまではおっかぁと並んでやっていたが、昨年おっかぁが病で寝付いてしまい、それからは糸吉一人がここで毎日物乞いを続けている。首尾は上々と言いたいところだが実際はひどいありさまで、今日の銭も二日ぶりの施しだった。これではいつになったらおっかさんの薬代のツケが払いおわるかなぁ、などと糸吉がぼんやり思っていると、視界の先に汚れた子どもの裸足が見えた。

―何か妙だなァ……

 待てど暮らせどその足がいつまでも糸吉の前から離れていかない。

 さすがに痺れを切らした糸吉が顔をあげると、その子は神妙な面持ちでしゃがみ込み、金の入った糸吉の茶碗を見下ろしていた。

「あの」

 糸吉がおそるおそる話かけると、目尻の上がった黒い眸がこちらを見てきた。

「何だよ」

「あ、えっ……と、もしかしてさっきくれた金、返してほしい?」

 実はこのくらいの子どもが物乞いの茶碗に金を入れてしまうのは、よくあることだった。じっさいは金をあげるつもりなど毛頭ないくせに、駄賃をもらって気が大きくなった子どもは必ず一度は物乞いの茶碗に金を入れるふりをする。だがその中で本当に茶碗に入ってしまうことが多くあり、糸吉はそのつどあやまって茶碗に入った金はその場で返していた。

 だから今回もきっとそれだろうと糸吉は踏んだ。だってこの子の身なりも糸吉と負けず劣らずみすぼらしい。藍色の格子の着物は汚れて擦りきれているし、むき出しの膝小僧は青たんでいっぱいだ。糸吉はその子が気まずくならないよう、にっこり笑ってみせた。だいじょうぶ、こんなことはよくあることなんだ——そういう意味で笑ってみせたのだが、なぜかその子は糸吉と目が合ったとたん、黒々とした眉をつりあげた。

「うるせぇ、こんなはした金いらねぇ。それにこれは俺がお前ぇにやった金だ」

……どうやらなかなか強情っ張りらしい。

 けれど口ではそう言いながら、その子は茶碗を睨んだままその場から動こうとしない。糸吉は大きく息を吐くと、その子の目の前に欠けた茶碗を差し出した。

「おら、その気持ちだけで十分だからさ。だからこれは持ってお帰りよ」

 糸吉がここまで言ってあげたのに、その子は糸吉を見下ろしながらフンと鼻で笑った。

「この金は天下の大泥棒、大工町の長治ちょうじ様が盗った金だ!今日は特別にお前にやるんだからありがたく頂戴しろ!」

 その言葉に糸吉は、こぼれそうなほど大きな目を更に見開いた。

「これ、盗んだお金なの!」

 糸吉が素っ頓狂な声を出すと、長治がシーッと言って糸吉の口を塞いだ。

「でけぇ声出すな、かっぱらったのがバレんだろ!」

 糸吉はすぐさま長治の手をひっぺかすと、長治の胸元に茶碗を押し付けた。

「それなら益々、そんな罰当たりな金受け取れねぇよ!」

 糸吉の言葉に、長治のキツイ目元がより一層つりあがる。

「駄目だ!受け取れ!」

「嫌だ、返す!」

「いいから受け取れよ!」

 茶碗をお互いの元へ行ったり来たりさせていると、やがて茶碗の中に入っていた波銭がぴょーんと空へ吹っ飛んだ。

「「あっ!」」

 二人は同時に両手を宙にさまよわせたが後の祭り。

 波銭は橋の下を滔々と流れる御殿川の中へ勢いよく落っこちた。

「あーあ」

 糸吉が橋の欄干に手をついて川面を眺めていると、不意に長治がひょいと橋の欄干に飛び乗った。そして何をしでかすのかと驚く間もなく、長治はその勢いのまま川に向って飛び込んだ。

「長治!!」

 手を伸ばしてもがく糸吉の眼下で、長治はきれいに身を翻して水の中へ着地した。

 御殿なんて立派な名がついている川だから、さぞかし水嵩のある早い川だと思っていたのに、実際は長治の膝頭ぐらいまでしか水が無かった。

「よ、よかったぁ~」

 糸吉が安心してその場にしゃがみこむと、下から長治が何やら怒りながら叫んでくる。

「おい何してやがる!手前ぇも早く降りてきて、一緒に銭探すンだよッ!」


 なかば強引に糸吉も川に入る事になり、長治とふたりで川の中を漁った。

 いくら暦の上では春でも、三月の川に浸かっていれば手足は見る間に凍てついた。

ずっとかがんで探していたので腰も痛くなり、辛抱たまらなくなった糸吉は、一旦川から出ることにした。

 陽の光で温められた丸石の上に立つといくぶん足裏が温まる。糸吉はついでに凝り固まった躰を伸ばそうと腰に手を置き、胸を反らした。するといつの間にか隣に来ていた長治がぷっと吹き出して、身体をふたつ折れにするほど笑いだす。

「お前ぇさぁ、手足は真っ黒なのに顔だけ白ぇんだな。あれだ、顔だけ醤油を塗り忘れた煎餅みたいだ」

 笑いながらそう言われ、糸吉は思わず自分の手足を見た。

 確かに棒切れの様な手足は醤油を掃いた煎餅のような色をしている。物はついでに川面に自分の顔も映してみた。そこには覇気のない白い顔がぼんやりと浮かび上がっていた。

「ほんとうだ。なんだか気色悪いなァ」

 糸吉が思わず呟くと、長治の笑いがピタリとやんだ。急に静かになった長治をいぶかしく思って糸吉が振り返ると、今度はうって変わって眉根をつりあげた長治が糸吉を見ている。

 笑ったり怒ったり忙しい子だなぁ……

 糸吉が愛想笑いをしながら小首をかしげると、長治は「あーもう!」と言ってざんばら頭の髪をかきむしった。

「べっ、別に俺ァ気色悪いとは思ってねぇ。笑ったのはその、何か憎めねぇ顔だなっておかしかっただけで」

 うなだれた長治の首筋が赤い。なぜか糸吉もつられて顔を赤くした。

「お前ぇはよ。毎日ひとさまに頭を下げるのが仕事なんだ。だから単につらが日に焼けてねぇだけだろう。いいじゃぁねぇか。そら手前ぇが毎日はげんでいる証だよ」

 長治はそう言い捨てて、バシャバシャと再び川へ入っていく。

 初めてだった。物乞いを人から馬鹿にされる事は山ほどあれども「励んでいる」などと褒められたのは。

 とたん、冷え切っていた糸吉の身体が胸の芯のほうから温まっていくのを強く感じた。

 それから日が暮れるまで長治と川を探ったが結局金はみつからず、だけどその日はなぜだかずっと楽しかった。


***

 結局波銭は見つからなかったけれど、それ以来長治は毎日十六夜橋に現れて、糸吉の茶碗に何かしら入れてくるようになった。

 最近は盗んだ物だと糸吉に叱られるので、拾い物や貰った物をよく入れる。この前などは大盤振る舞いの饅頭で、それは大工町の職人衆から貰ったようだ。あまり言いたがらないので詳しくは知らないが、どうやら長治はみなしごで、川向うにある大工町の木材置き場で寝起きをしているようだった。

「すごい綺麗!」

 糸吉はそういうと薄紅の花束を受け取った。今日長治はこの薄紅色の小花を両手いっぱい持って来てくれた。糸吉は嬉しくて花束に顔を寄せると、ほんのり甘い香りがする。

「こんな綺麗で菓子みてぇな花、おら初めて見た!」

 糸吉が目を大きく見開きながらいうと、長治は急に眉をつりあげそっぽを向いた。

「ウソつけ!俺ァ見え透いた世辞はあんまり好かねぇ」

「……どういうことだよ」

「だーかーらー無理しておれを喜ばせようとするなってことよ」

 いったい何を言っているのか分からず糸吉が目を瞬かせると、舌打ちをした長治が反対側の橋の欄干に身を乗り出し、御殿川の川べりを指さした。

「ほら見ろ、こんな近くにいっぱい咲いているじゃねぇか」

 長治の指の先を目で辿ると糸吉は目を剥いた。

 そこには長治のくれた薄紅の花が一面に咲きほこっていたからだ。

「―あの花、レンゲ草っていうンだって」

 驚きで唇を戦慄かせている糸吉に、急にバツの悪そうな顔になった長治が咲きほこっている花の名を教えてくれた。

「レンゲ草……」

 知らなかった。もう何年もこの橋に通っているのに。

 糸吉はしばらく呆けたようにレンゲ草を見ていたが、急におかしくなって空を仰いだ。

「おら長い事この橋で物乞いやってンのに、なぁんも知らねぇンだなァ。御殿川が存外浅かったのも、こんな近くでレンゲ畑があったのも、全部長治から教わったもの」

 その横顔には少しばかりの憂いが見えた。

 長治はそれをチラとだけ見やると、突如糸吉の背中をひっぱたいた。

「痛ってぇ!何するンだよ!」

「うっせぇ、辛気臭ぇ顔すんじゃねぇ!そんなのこれから知っていけばいいだけじゃねぇか!」

……これから?

 あるのだろうか。自分の人生にこれからが。

 毎日うんざりするくらい貧乏で、だけど糸吉にはひとさまに頭を下げることしかできなくて。そんな情けない自分がこれからを夢見ることなどバチあたりで、考えてはいけないことだと思っていた。

 でも長治がそう言うなら。

 長治と一緒にバチがあたるなら。

 それも悪くないような気がしてきた。

「秋になったらこの川沿いはススキでいっぱいになるんだ。そん時がきたらこの橋で一緒にお月見するぞ!」

 長治はそう言うと、荒々しく糸吉と肩を組んだ。

 互いに痩せぎすで骨ばっているのに、長治はどうしてこんなに力強いんだろう。

 肩に長治の手が回ったひょうしに、糸吉の目から涙がこぼれる。

 長治はそれ以上なにも言わなかった。

 けれど糸吉が泣き止むまでずっとそばに居てくれた。


***


 ジャリ、ジャリ、ジャリ、ジャリ……

 茶碗からこぼれるほどの波銭が入れられて、糸吉は目を見張った。

「まだまだあるぜぇ、ほら」

 長治は得意顔でそういうと、麻の巾着袋から全部金を出しきろうとする。

 慌てて糸吉がそれを押しとどめると、長治は眉根をつりあげた。

「おい、どうして止めるんだ」

「まてよ。いったいぜんたいどうしたンだよその金は」

 糸吉が問うと、目を輝かせた長治が身を乗り出して話し出す。

 日も傾き、西の空から闇が広がり始めている。

糸吉はどこか頭の後ろがうすら寒くなるのを感じながら、長治が話す言葉を聞いていた。

「それが昨日の晩のことよ。昨晩は俺の寝床が蚊柱が立つほど蚊が出てよぉ。俺は急遽場所を変えて船頭小屋で寝ることにした。そんで目覚めたらよ。頬にでっかい傷のあるお侍さんが隣に立っててさ。急にこの金くれたんだ。なんでもそのお侍さんもおれみてぇに身寄りがなくって、子ども時分にここでよく野宿してたんだと。だからおれの寝姿見ていたら思い出して泣けてきたっていうのよ」

 長治は鼻を膨らませながら一気に話すと、ふうとひとつ息を吐いた。

「——で、これからが本題よ。けどそのお侍さん、ここを出てある場所へ赴いたら、びっくりするくらい暮らし向きが良くなったンだって。なんでも❘阿南あなみとかいう所らしくってさ、そこは一年中あったかくて食うのにも住むのにも困らない、夢みてぇな場所なんだってさ」

 長治は糸吉の手を持ち上げ、その手を両手で強く握りしめる。

「それでな!今晩その船頭小屋のある船着き場からちょうど阿南へ帰るから、一緒にどうだって言って下さったンだよ!」

 興奮して長治の顔は猿のように赤い。だがそれとは裏腹に、糸吉は蒼白していた。

 急すぎるできごとに、気持ちがぜんぜん追いつかない。

 けれど一つだけ分かっていることは、今晩長治がその船に乗ればもう二度と糸吉とは会えない、ということだった。

 なんと言っていいかわからず、糸吉は唇をかみしめうつむくことしかできない。すると頭上で長治がふっと笑ったような気配がした。

「誰が一人で行くって言ったよ。糸吉、お前ぇも来るンだよ」

「えっ……」

 顔をあげた糸吉に長治が優しく笑いかける。

「そのお侍にはもう話しはつけてある。二つ返事で許してくれたよ。知らない土地へ行くのに、一人より二人の方が心強いだろうってさ。なァ糸吉、悪い事言わねえ。阿南へ行って二人で暮らそう。俺ァお前ぇと一緒なら、毎日幸せに暮らせると思うンだ」

 長治が熱に浮かされたように言う。

「で、でも……」

 戸惑いを隠せず糸吉が視線を惑わせると、長治が糸吉の顔を両手で挟んだ。

「糸吉、お前ぇこの前レンゲ畑見てどう思った。この先もっとこの目で知らない世界を見てみたいとそう思ったんじゃねぇのか。だがな、このまま物乞いしていたらそれは叶わねぇ。頭下げて下ばっかり見ていたら、世間からどんどん取り残されていっちまう。俺だってそうだ。散々盗みやって周りにドブ鼠呼ばわりされてさ。日の高いうちに大通りなぞ歩こうモンなら、みんな俺に水ぶっかけてくる。糸吉、俺ァもうそんな生活飽き飽きなンだ。誰も知らねぇ所へ行って、俺も顔上げて堂々と歩きてぇ!」

 長治の黒い目が心許なげに揺れている。

いつも強くて優しい長治の、初めて弱い側面を糸吉は見た気がした。

 長治の言う通りだ。糸吉だってこれから先、堂々と顔を上げてこの目で色々なものを見て見たい。それも長治と一緒ならどれほど楽しいことだろう。

だけど……

 糸吉が目をうつむけて首を横に振ると、目を剥いた長治が糸吉の身体を揺さぶった。

「どうしてだ!?どうしてだよ!糸吉ッ!」

 痛いくらいに揺さぶられ、糸吉は胸が張り裂けそうになった。

 本当は全てを投げ出しても長治と行きたい。

 けれど今の自分にはどうしたってそれはできない。

 糸吉は涙でにじむ目を隠すように瞼を閉じ、おずおずと口を開いた。

「……おら、おっかぁ一人ここへは置いていけねぇよ」

 そう伝えると、振り子のように糸吉の身体を揺さぶっていた長治の手がフッと止まった。

「すまねぇ。すまねぇ長治……」

 糸吉がすすり泣くように言うと、糸吉の肩を掴んでいた長治の手が力なく離れた。糸吉から背を向け、呆けたように歩き出した長治はどんどん糸吉の元から遠ざかっていく。

「長治——!!」

 こらえられなくて糸吉は叫んだが、長治は終ぞ一度も振り返らなかった。

 残された糸吉の足もとには、御殿川の水面に映ったまあるい月だけが寒そうに揺れていた。


 糸吉が長治と逆方向にむかって川沿いを歩いていると、向こうから悲しい調べの歌が聞こえてきた。

 人買い舟は 沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ船頭どの


                            出典『閑吟集』より

 湯屋帰りなのか、父親に肩車された濡れ髪の四ツくらいの子が口づさんでいる。普段は人とすれ違うと早足になる糸吉だが、なぜかその唄が気になってつい立ち止まってしまった。すると父親のほうも立ち止まり、糸吉に声をかけてきた。


「気味悪ぃ唄だろう?最近このあたりをうろつく妙なお侍がいてさ。そのお侍がこれをよく唄っていたモンだから、このチビが覚えちまったのよ」

「だってそのお侍さん、うちの顔ジッと見ながら唄うんだもん。嫌でも覚えるってもんさ」

 子どもがすかさずそういうと「ナマ言ってらぁな」と父親が苦笑いをする。だが糸吉は愛想笑いひとつせずその場に立ちすくんだ。

 人買い舟は沖を漕ぐ、とても売らるる身を……

 そう言えばさっき長治から話を聞いた時、一つだけ腑に落ちない所があった。

 どうしてそのお侍さんはお天道様が出ている時刻ではなく、わざわざこんなに暗くなってから船を出すのだろう。

 なんの事はなねぇ。それはその船が「人買い舟」だからなんだ!

―長治……ッ!

 糸吉はくるりと踵を返すと、長治が向っていた方向に向かって走り出す。

 この川沿いをたどって行けば、きっと大工町の船着き場へたどり着くはずだ。

 白々としたまあるい月が、せかすように糸吉の後を追いかけてくる。

 腹が減って力の出ない糸吉は、何度も転んで畦道の上に倒れた。

 途中で草履の鼻緒が千切れると糸吉は裸足になって、足の裏が擦り向けても爪の皮が剥がれても無我夢中で走り続けた。

 走って走って、もう死んでしまうのではないかと思うほど走って、頭が朦朧としかけた時、糸吉のあたまにふと、天啓が降りたように気づかされたことがある。

 人が幸せになるには簡単ではだめだと。

 それを掴むために何度も転んで足掻かなければ、人はいつまで経っても求め続ける。他のどこかにまだ見ぬ幸せがあるのではないかと。

 貧乏していたせいだけじゃねぇ。

 おら達は他人の金ばかりを頼りに生きていたから、ずっと苦しかったんだ。

―神様どうぞもう少し時間をくれ。そうしたらおらたち、必ず自分の力で生きて行けるようにしてみせる。だから……だからこのまま長治を連れて行かないで!


 息絶えだえになりながら大工町の船着き場にたどり着いた糸吉は、川面にかかるほどせりだした松のある桟橋へ赴いた。だが橋の先端に赴いたとたん、糸吉はその場にくずおれる。そこの杭に繋がれているはずの船が既になくなっていたからだ。

「ああッ!うぅ~~~!!」

 糸吉は床板に何度も拳をふりあげ、身も世もなく泣き崩れる。

「長治ーッ!長治ーッ!嫌だァ……!」

 糸吉が咽び泣いていると、急に松の陰からひょっこり人が出てきた。けれど糸吉があんまり泣くものだから、その人影には気づかない。

「おら、おら、本当はッ……長治と離れたりしたくなかったンだァ―!」

 糸吉が空を仰ぐように泣き叫ぶと、居ないはずの長治が得意げに腕をくんでこちらを見下ろしている。にわかに信じられなく糸吉は何度も目を擦った。

 けれど長治の姿は何度目をこすっても消えることはなくて。

「長治——ッ!」

 糸吉は叫ぶと、長治の足に縋り付いた。

「よかったァ!よかったァ!お前ぇあやうく人買い舟で売り飛ばされるとこだったんだよ!」

 糸吉が震える声で叫ぶと、長治は黙って、ちょっと考える様な仕草をした。

「あ―どおりで船頭にしちゃ随分強面の大人がぞろぞろ居ると思ったよ。ようやくこれで合点がいったぜ」

「えっ……人買い船のこと知らなかったの!?」

「ああ知らなかった。何か妙だなァとは思ったけれど、俺ァ半分やけっぱちになっていたからな。俺は意気揚々と船に飛び乗って、さぁ出発!ってとこまでいったんだ」

「じゃ、じゃあ……どっ、どうして今ここに……」

 驚きのまま糸吉が長治をみあげると、長治は首筋に手をあてうつむいた。

「さあ、どうしてだろうなァ。船から見たお月さんがあんまり白くてまるいモンだから……」

 不意にニッと笑っておもてをあげると、長治は眩しそうに糸吉をみつめた。

「醤油を塗り忘れた煎餅に、見えたのかもしれねぇなァ」

 糸吉の頬に涙が流れ落ちる。

 長治はしゃがみ込むと糸吉の頬を掴んで「煎餅じゃなくて羽二重餅(はぶたえもち)だな、こりゃ」とクニクニ伸ばした。


 月明かりの下、手をつないで川沿いを歩く二人の姿が水面に映る。

 まだ信じられない糸吉が、そんな屈強な大人たちからどうやって逃げたか聞くと、長治はさも可笑しそうに笑った。

「俺ァ天下の元大泥棒、大工町の長治様だぜ。逃げ足は誰にも負けねぇさ」


 秋の風に乗って、十六夜橋の上からシャボンの玉が天高く舞いあがってゆく。

糸吉は再び葦の茎のくだを高く掲げると、ふう―っと少し強めに吹いた。

「今度は細かいのが出た!」

「玉屋のあんちゃん!今度はおいらにもやらせて!」

 糸吉の周りには子どもたちが沢山むらがっていた。

 糸吉がシャボン液の入った竹の筒と葦の茎のくだを一人一人に手渡すと、子どもたちが一斉に空に向かって噴き出した。

 御殿川沿いのススキ野原の上を七色のシャボンの玉が飛んで行く。赤く染まった西の空には、群青色の空が混ざり出し、東の空には白くて丸いお月様がうっすらと顔を出している。

―今夜はいい月になりそうだ

 目を細めて眺めていると、糸吉の顔を見た子どもが言った。

「あんちゃん今日何かいいことでもあるの?」

「そう見えるかい?」と笑いながら答えようとする糸吉を、遠くから呼ぶ声がする。年を取っても相変わらず忙しない男の姿に糸吉は苦笑いする。まるで子どもがそのまま大人になったみたいだ。

「おい糸吉!今日はここで一杯やるンだぞ!忘れちゃいねぇだろうなッ!」

「分かっているよ。今日に限ってわざわざ言いに来なくたって、毎日一緒に飲んでいるじゃァねぇか」

「うるせぇ!今日は十五夜だぞ!特別な日なんだ!」 

 まだまだ屁理屈が止まらない長治を制する様に、橋の向こうから長治を呼ぶ野太い声がする。

「やべッ!また親方に大目玉食らっちまう!」

 長治はいたずらっ子の様に舌をぺろりと出すと、「後でナ」と笑って大工道具片手に橋を渡っていった。


 糸吉もつられる様に笑って空を仰ぐと、清々しい風が糸吉の頬を優しく撫でた。



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