仮面の下

北宮世都

仮面

楽屋の鏡に映る顔は、いつも他人のように見える。

「美月さん、素晴らしかったです!」

今日の公演も成功だった。でも、この化粧を落としたら、そこに何が残るのだろう。

コットンがファンデーションを溶かしていく。現れるのは、二十六歳の女の素顔。藤原美月。舞台女優。

「これが私」

呟いてみるが、声に実感がない。

携帯が震える。高校からの付き合いの恋人、太陽からだ。

『お疲れ様。今から迎えに行くよ』

でも私は、彼の前でも何かを演じている気がする。あの頃の私は本当の私だったのか。それとも今の私が本当なのか。

稽古場で、私が演じるのは自分を偽り続けて心が壊れていく女性。台本を読んだ時、背筋が凍った。まるで私自身のようだった。

「誰か、私を見て。本当の私を——」

台詞を言った瞬間、涙が溢れた。止まらない。膝から崩れ落ちる。これは役としての涙じゃない。私自身の涙だ。もう何が本当で何が演技なのか分からない。

「カット!素晴らしい!それだ、美月さん!」

演出家は興奮した様子で近づいてくる。

賞賛の言葉が、耳に突き刺さる。恐怖が走った。私の苦しみが、また演技になってしまった。本当に泣いたのに。それさえも「素晴らしい演技」として消費されていく。

その夜、私は太陽のアパートを訪ねた。

「ねえ、太陽。私、あなたといる時も、何か演じているのかもしれない」

沈黙が降りる。

「それでもいいよ」彼は静かに笑った。「美月が演じていても、演じてなくても、僕にとっては同じだよ。君は君だから」

私は稽古場であったことを話した。涙が止まらなくなったこと。それを絶賛されたこと。

「もう、何が本当の私なのか分からないの」

涙が溢れそうになる。でも、この涙さえも演技に見えてしまう気がして、必死に堪えた。

太陽はしばらく黙っていた。

「本当の美月って、何?君が『これが本当の自分』だと思っているものって、何なの?」

答えられない。

「僕が知ってる美月はね。高校の時、笑っていた美月。舞台の上で真剣な顔をしている美月。稽古で苦しんで泣いた美月。全部、君だよ」

「でも、高校の時の私と今の私は、別人みたいで——」

「違うよ。高校時代の君も、今の君も、君を形成する一部なんだよ。役に入ることは、自分を失うことじゃない。自分を拡張することなんだ」

「拡張......」

「そう。新しい顔を手に入れることは、成長することなんだよ」

「演技だと思ってる?でも、その『演技をしている』ことに悩んでいるのも君だろ?全部、本当の君なんだよ」

太陽の言葉が、ゆっくりと心に染み込んでいく。

「君は、仮面を脱がなくていいんじゃないかな。仮面は君の一部だよ。役者として生きることを選んだ君の、大切な一部」

「演技も、苦しみも、迷いも、全部含めて君なんだよ。その苦しみを表現できること自体が、君の才能なんじゃないかな」

私は、初めて涙を流した。演技じゃない涙。でも、それでいい。この涙も、私なのだから。

翌朝、鏡の前で化粧をしながら考える。この顔を作る行為は、嘘をつくことではない。これは、今日の自分を選ぶ行為なのだ。

仮面は、自分を隠すものじゃない。自分を表現する、もう一つの顔なのだ。

稽古が始まる。昨日のシーンをもう一度。

「誰か、私を見て。本当の私を——」

また涙が溢れる。でも今度は恐れない。この涙は、役としての涙でもあり、私自身の涙でもある。その両方なのだと、今は分かる。

演技と現実の境界は曖昧だ。でもそれでいい。

公演最終日の夜。

楽屋で化粧を落としていると、太陽が迎えに来た。

帰り道、太陽がぽつりと言った。

「以前より、凄かった気がする。演技、今日は自然だったというか、迫力があったというか」

少し照れくさくて、私は視線を逸らした。

「......そう、かな」

あの日から、何かが変わった。役に入ることへの恐怖が、少しずつ薄れていった。

役と一体化することは、自分を失うことじゃない。自分を拡張することなんだ。

「私ね。これから先も、きっと迷うと思う。苦しむと思う」

「うん」

「でも、もう大丈夫な気がする」

私は太陽の方を見た。

「私は、私のまま、生きていける」

空を見上げると、星が瞬いていた。

私は役者として生きていく。仮面を被り、様々な顔を持ち、それでも私として生きていく。

それが、私の選んだ道なのだから。

風が、また吹いた。春の嵐のように、激しく優しく。

私たちは並んで、夜道を歩いていく。

仮面を被った私と、それを受け入れてくれる彼と。

これから先も、きっと迷うだろう。苦しむだろう。でも、もう大丈夫。

私は、私のまま、生きていける。

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