序章3:避難所
静寂。
機体の外殻を伝っていた海水の音が、嘘のように消えた。
水圧センサーがゼロを示し、静止。
やがて、無機質な電子音が響く。
“環境安定確認。気温27度、湿度48%。酸素濃度、正常。”
“ようこそ、シグレ。ここはあなたのシェルター、〈Eden-01〉です。”
ハッチが開く。
暖かな空気と、湿った土の匂いが流れ込んだ。
時雨はゆっくりと外へ出た。
洞窟の天井には、地熱による光ファイバー植物が淡く輝いている。
まるで夜空のようだった。
小川秀明が築いた〈Eden-01〉。
地熱発電装置と食料合成プラント、
教育AI《LYRA》が統合された、半自律型の避難居住区。
白い天井。
穏やかな光。
時雨は目を開けた。
木の香りがわずかに残る、温かい空気。
無駄のない家具、滑らかな白い壁、
静かな水音とともに、空調の低い息づかいが響いている。
――ここは、父が作った“家”だった。
シーツから起き上がると、脚が少し震えた。
軽いめまい。
体温は正常でも、頭の奥で周期的に“砂嵐”のようなノイズが流れている。
(……また、きた……)
視界が一瞬だけずれる。
光の縁がぼやけ、音が遠くなる。
神経がわずかに同期を失い、世界が半拍遅れて追いかけてくる。
手を伸ばし、壁のパネルに触れると、柔らかな音声が流れた。
“ようこそ、シグレ。ここはあなたのシェルター、〈Eden-01〉です。”
「……うん。」
彼女は静かに応えた。
目の前の空間は穏やかだった。
木目のデスク、観葉植物、温色照明。
どこを見ても、恐怖を感じさせるものはない。
それでも、彼女の脳は時々「別の音」を拾う。
――ザ……ザ……。
――……お父さん……。
耳ではなく、頭の中に直接響く微かな声。
感情の温度を持たないその音が、時雨の心拍と同期している。
「……やめて……」
声にならない声。
しかしノイズは止まらない。
痛みではなく、存在そのものが軋むような感覚。
世界と神経の接続が一瞬ほどけ、
再び繋がると、現実がわずかに違って見えた。
“生体波形を確認。ストレス値:上昇。鎮静プログラムを起動します。”
AIの声が部屋に溶ける。
照明が少し暗くなり、静かな音楽が流れた。
時雨はベッドに座り込み、ゆっくりと息を吐く。
音が、戻ってくる。
光が、輪郭を取り戻す。
(……これが、“同化不全”。
父さんが私に残した、自由の代償……)
指先でこめかみを押さえると、
皮膚の下を流れるように微弱な振動が伝わった。
それは、彼女の体に刻まれた〈防火壁〉の残響。
静かな避難所に、彼女の呼吸音だけが響いた。
壁のセンサーが心拍を読み取り、照明がゆっくりと明滅する。
まるでこの部屋そのものが、彼女の体内リズムに合わせて呼吸しているようだった。
「……父さん。私、まだここにいるよ。」
小さな声。
AIは何も返さない。
ただ、温かな空気だけが彼女を包み込んでいた。
――そしてその静寂の中で、
遠く、深層システムのどこかから、もうひとつの“心音”が小さく脈打った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます