序章2:離別
2076年12月12日
雨が降っていた。
――正確には、「降らせられていた」。
Apex本社の防衛雲(セキュリティ・ストーム)は、外部侵入を感知すると自動的に気象制御ドームを閉じる。
人工降雨は放電ノイズを増幅し、ドローンの熱感知を誤魔化すための最後の防壁だ。
だが今夜、その雨は、逃亡者を守るためではなく、捕らえるために降っていた。
「父さん……寒い……」
時雨の声が、濡れた夜気にかすれた。
「もう少しだ、しぐれ。」
秀明は娘の手を握りながら歩を速めた。
彼の端末画面では、暗号経路が次々と切り替わっている。
それは、彼が独自に構築した“干渉場”の動作ログだった。
3か月前、秀明は開源考古コミュニティの深層アーカイブで、一人の匿名技術者――「山彥(やまびこ)」の遺したログを偶然発見した。
そこには、かつて滅亡した二つの企業の研究資料が断片的に保存されていた。
一つはCygnus Machines
彼らは「暴力的な算力の堆積」(GPUクラスタ)を否定し、“宇宙の諧波”を模倣する確率最適化装置――「
もう一つは、ハードウェア・パートナーの「(Momentum Dynamics)」
彼らは、因果律の外側で演算を“予測”する非因果素子――「
両社の研究はAI泡沫の崩壊と共に葬られた。
諧波引擎は不安定すぎて制御不能、予測処理単位は“未来を誤読する”ことで論理が崩壊した。
だが――山彥は諦めなかった。
彼は残された資料を再構築し、確率演算と決定論的演算の“矛盾”そのものを利用した量子モデルを構築した。
それは「宇宙諧波の模倣」と「未来予測演算」を融合した**確率的量子計算モデル**の初期形態だった。
山彥はその理論を名もなき開源考古フォーラムに無償で公開した。
しかし、Apexの
Apex在職中、彼はこの理論を独自に解析し、「観測の確率を歪める」副次的な効果に着目した。
そして、暗号演算の認証過程に応用し、情報の「真正性」そのものを曖昧化する干渉場を生み出した。
――〈K-Field〉。
確率と決定の狭間に存在する、“観測の幽霊”。
Apexの監視システムは、K-Fieldを通過した瞬間、密鑰の所在を複数の「可能性」として同時に認識するようになり、真の持有者――すなわち秀明か時雨か――を特定できなくなる。
「……これで少しは時間を稼げる。」
秀明は小さく呟き、時雨の髪を撫でた。
「この先の港で、別々に行く。」
「えっ……?」
時雨が顔を上げた。
「父さんと一緒じゃないの?」
「追跡を分散させる。
お前の端末に航路データを送った。
宮古島の中央、山のふもとに避難所がある。
地熱エネルギーと食料、それにAI教育システムが備わっている。
……お前が自分の力で生きられるように作った場所だ。」
「でも、父さんは?」
「俺は久米島へ向かう。
Apexが俺を追えば、時雨の航路は安全になる。」
時雨は唇を噛み、雨に濡れた目を上げた。
「……いやだ。一緒に行く。」
「時雨。」
秀明は娘の肩に手を置き、静かに言った。
「お前は、“自由”のために生まれた。
俺は、その証明のためにここまで来たんだ。」
港に着くと、そこには二隻の小型潜航艇が並んでいた。
自動航法システムを備えた旧型の《ネレイド》と《アルデバラン》。
秀明は時雨を《ネレイド》に乗せた。
その手には、小さな封筒が握られていた。
「これは……?」
「手紙だ。……父親として言える最後の言葉だ。」
彼は疲れた微笑みを浮かべた。
「時雨。お前の世界は、俺の見たどんな未来よりも美しいはずだ。
俺が傍にいなくても、空の色と風の匂いを、忘れるな。」
時雨の瞳が潤む。
「……約束、する。」
秀明はうなずき、潜航艇のハッチを閉めた。
二隻の船が静かに離れていく。
ひとつは久米島の闇へ、もうひとつは宮古島の方角へ――。
海面の下、時雨の潜航艇は深海を進みながら、通信端末にひとつのデータを受信した。
> [OGAWA://LAST.MSG]
“しぐれへ。
この世界は冷たい。でも、冷たさの中に本当の自由がある。
俺はお前を信じている。生き延びて、学んで、自分で選べ。
――愛している。”
静かな電子音が鳴り、通信が途切れた。
時雨は泣かなかった。
ただ、指先で父の文字をなぞり、蒼い光に照らされた深海を見つめた。
やがて、潜航艇は目標地点――宮古島の地熱層下に到達した。
人工知能の声が静かに響く。
> “ようこそ、シグレ。ここはあなたのシェルター、〈エデン-01〉です。”
時雨は小さく息を吐いた。
そして、海の向こうに消えていった父の方角を見上げた。
そこに、彼が見た未来があると信じながら。
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