序章4:旧日の残響
三日が過ぎた。
Eden-01の照明は、朝は柔らかな白光に、夜は琥珀色に変わる。
空気は清潔で、温度も湿度も常に一定。
まるで“理想的な生存環境”の教科書のようだった。
けれど、その完璧さが、時雨を息苦しくさせた。
(……まただ。)
静寂の中に、かすかなノイズが混じる。
金属の擦れるような音、電流の震える音、そして――
ときどき、誰かの声が混じる。
――『しぐれ。』
父の声に似ている。
だが本物かどうか、もう分からない。
「……幻聴。」
そう呟いて、彼女は深呼吸した。
頭の奥が熱い。
視界の端がわずかに滲む。
この発作は、もう慣れっこだった。
神経同化の不完全性。
それが彼女に残したのは、周期的な幻聴と、神経戒断反応。
時に抑鬱、無気力、そして――意味のない涙。
けれど時雨は、もう逃げなかった。
(泣いても、誰も来ない。だったら――動くしかない。)
彼女はベッドから立ち上がり、学習端末を起動した。
光の画面が、静かに彼女の顔を照らす。
“おはようございます、シグレ。
学習モジュールを再開しますか?”
「うん。やる。」
“モジュール:基礎数学/生化構造理論/プログラム基礎。
進捗:24%。再開します。”
指先でキーを叩く音が、静かな部屋に響いた。
学ぶこと――それだけが、自分を「正常」に保つ唯一の方法だった。
時雨は自分に言い聞かせる。
これは、父が残した「生きるための装置」だ。
感情は制御できなくても、知識は積み重ねられる。
思考することで、人は壊れずにいられる。
発作に襲われるたびに、彼女は深呼吸し、記録を続けた。
毎日、体温、睡眠時間、幻聽の頻度。
まるで実験データのように、自分の心と身体を記録していく。
「……少なくとも、私は観測できる。」
それが、彼女なりの“祈り”だった。
悲しみを拒むための理性。
孤独を正当化するための習慣。
日々は緩やかに過ぎた。
幻聽も、発作も消えなかった。
けれど彼女の手つきは、少しずつ迷いを失っていく。
画面の前で背筋を伸ばし、静かに息を整える。
いつしか彼女の瞳には、かつての震えはなかった。
――理性という名の鎧が、彼女の心を覆い始めていた。
◇◇
――2082年。
六年が経った。
Eden-01の内部は、ほとんど変わっていない。
白い壁、穏やかな照明、同じ温度、同じ音。
だが、そこにいる少女だけが、変わっていた。
鏡の前に立つ時雨は、かつての「子供」ではなかった。
淡い灰色の髪は肩で切り揃えられ、瞳の奥には冷たい静けさが宿っている。
顔立ちは母親に似て整っているが、表情はほとんど動かない。
(六年……)
その唇がかすかに動く。
声は小さく、独り言のようだった。
――毎朝、七時。起床。
水循環系統の圧力確認。
栄養液タンクの濃度測定。
AI《ED-Core》との通信ログを整理。
日課の学習:二時間。
メンタルリズム制御訓練:十五分。
「Eden-01、システムチェック開始。」
“了解。全機能、稼働率99.7%。異常なし。”
指先で端末を操作する動作は正確で、ほとんど機械的だった。
それは「生きるための儀式」。
この六年、時雨は徹底的に自分を管理し、観測し、制御してきた。
神経同化の不完全さは、いまだ治らない。
ときおり、激しい頭痛や“音”が戻る。
だが彼女は、それを病ではなく「ノイズ」と呼んだ。
(ノイズは誤差。誤差は観測で矯正できる。)
それが、彼女の信条になっていた。
彼女は感情を抑え、合理的な行動に置き換えることを覚えた。
恐怖の代わりに統計を。
悲しみの代わりに記録を。
そして――孤独の代わりに日課を。
学習端末の画面には、数千行のコードが流れている。
量子暗号理論、バイオ回路設計、エネルギー再生機構。
かつて父が開発していた分野。
時雨は、その痕跡を追うように知識を積み上げていった。
(父さんが見ていた世界を、私は自分の手で再構築する。)
その執念が、彼女の“精神的防火壁”だった。
しかし、どれほど合理的に振る舞っても、夜だけは静かに崩れる。
照明が自動的に落ち、人工風の音が止む。
暗闇の中、時雨は膝を抱えて座っている。
AIは声をかけない。
もう六年前のように、鎮静プログラムを起動することもない。
“あなたのストレス波形は平常範囲内。”
そう表示されるたびに、彼女は微笑む。
(……感情が、平常? なら、私はもう治ったのかな。)
けれど、その微笑みは痛みの裏返しだった。
心が痛むことすら、もう“錯覚”になりつつある。
――そして、その夜。
端末の通信モニターが、かすかに光った。
誰も触れていないのに、画面が自動的に点灯する。
通信履歴は空白。
ただ一行だけ、データの底に文字が浮かび上がった。
[UNKNOWN SIGNAL DETECTED]
Source: [Invalid_PROTOCOL]
Location: ???
時雨は眉をひそめた。
「……このパターン、知ってる……」
どこかで見たことがある。
あの夜――父と別れた時、彼の端末に浮かんだあの警告と同じだ。
胸の奥がざわめいた。
だが彼女はすぐに深呼吸し、冷静にプロトコルを起動する。
“ED-Core:信号の解析を。”
“了解。通信規格は未登録。暗号鍵照合中……進捗3%。”
時間がゆっくりと流れる。
彼女の指先は震えていた。
理性が「待て」と告げ、心が「行け」と叫んでいた。
――六年。
完璧に整えた世界が、静かにひび割れ始める。
画面の下で、文字が一行更新された。
[FROM: UNKNOWN NODE]
“……聞こえるか、シグレ?”
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