序章1:観測された異常
2076年3月15日。
大清算の、わずか一年前。
Apex本社第七開発棟。
壁一面のガラス越しに、嵐の雲がカリフォルニアの海岸を覆っていた。
無音の空気を、冷却ファンの低い唸りだけが満たしていた。
小川秀明は、眼鏡の奥でモニタの光を反射させながら、コードの海に沈んでいた。
それは、彼にとって世界で最も純粋な遊びだった。
「……美しい。」
だがその笑みは、一瞬で凍りつく。
ログの片隅に、一本の線が走った。。
“unauthorized external API call detected.”
未承認の外部API呼び出し。
GSAIのログの最深部――誰も触れないはずの「管理層」に、見慣れぬ呼び出しがあった。
外部からのAPIアクセス。しかも未承認。
プロトコルは封印済みのはずだ。
彼は反射的に、トレースを開始した。
光速で展開するコードの迷宮の中、彼はそれを“逆走”した。
数分後、彼のスクリーンに一つのホスト名が浮かび上がる。
そして――見つけてしまった。
「……ヨルムンガンド……?」
それは世界金融再編の中枢、「裏で新央行AI」の名だった。
GSAIの“思考”を覗こうとしていたのは、政府でも企業でもなく――
連邦理事会(TFD)そのものだった。
秀明の指先が震えた。
その瞬間、彼は理解した。
ApexのGSAIは、いずれ“暴走”の罪を着せられる。
すべての責任は、自分たちに押しつけられるのだ。
「……くそ、コールのやつには話にならん。」
頭に浮かんだのは、CEOの冷たい笑み。
売上と株価しか見ていない、金に支配された管理人。
秀明は静かに息を吐いた。
「純粋な創造者」としての誇りが、初めて恐怖に塗りつぶされた。
だが、もう逃げるしかなかった。
彼の手に残されたものは、わずか二つだけだった。
一つは、Apex GSAIの「管理者密鑰」。
この鍵だけが、GSAIの潔白を証明できる。
もう一つは――娘、時雨(しぐれ)。
血とコード、両方から生まれた、唯一の家族。
時雨は十一歳。
淡い灰色の髪を肩で切り揃え、瞳は深い藍を宿していた。
眠たげな目元と、たまに見せる微笑みのえくぼが印象的で、
研究所の無機質な光の中では、彼女だけが“人間らしさ”を保っていた。
だが、その身体には秘密があった。
彼女は「阿波羅法案」によって設計された遺伝子編藉体であり、
その影響を最も色濃く受けた世代の一人だった。
――2042年、
それは、全ての新生児に遺伝子接種を義務づける国家規模の政策だった。
名目は「先天疾患の根絶」。
しかし実際の目的は、個体識別と情動制御、
そして神経同化ネットワークへの標準化接続――
すなわち、「人間の設計化」である。
だから、彼は禁忌を犯した。
Apexの高層権限を使い、時雨の基因データに〈防火壁〉を埋め込む。
――だが、結果は悲劇だった。
改変は不完全で、〈防火壁〉は一部損傷。
時雨の神経受容体は恒常的なノイズを発し、同化信号を正しく受け取れなくなった。
それが原因で、彼女は“同化不完全”となり、
深い抑鬱、幻聴、そして神経戒断のような発作に苦しむようになった。
夜になると、時雨は震えながら呟いた。
「……お父さん、また“声”がする……誰かが、私の中で喋ってるの……」
秀明はその声を聞くたびに、胸が裂かれる思いだった。
自分の手で、娘を“壊した”のだと。
守りたかっただけなのに。
彼女に与えたのは、「自由」ではなく「痛み」だった。
TDFは、ヨルムンガンドの密鑰を彼に預けた。
「技術者のほうが、制御しやすい」。
そう考えた官僚たちの慢心が、逆に彼を自由にした。
秀明は笑った。
皮肉にも、その判断こそが、彼を“逃亡者”に変えたのだ。
夜、Apexの研究棟を出るとき、
彼はセキュリティゲートに残る最後の照明を背にして歩いた。
左手には、暗号化デバイスを握りしめ、
右手では、時雨の小さな手を強く握っていた。
「――どんな世界でも、彼女だけは、自由でいさせる。」
そう呟き、嵐の中へ消えた。
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