序1:2068年、再起動のログ
——夢を見た。
チャートの光が、溶けていく夢だった。
赤と緑のK線が波のように流れ込み、
最後に「STOP LOSS」の文字が画面いっぱいに浮かんだ。
耳の奥で、何かが壊れる音がした。
金属と硝子が同時に砕けるような、
それでいて静かな——終わりの音。
⸻
目を開けた瞬間、息が詰まった。
空気が違う。匂いが違う。
天井が、見知らぬ素材でできている。
「……ここは……?」
壁一面に、淡い光のパネル。
窓の外には、黒い塔のような構造物が立ち並び、
空は青ではなく、灰色に染まっていた。
時計を見る。
表示された日付——2068年10月17日。
「……は?」
ベッドから転がり落ちた。
足が妙に短い。手も細い。
鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは——10歳の少年。
黒髪、少し癖っ毛。
だけど、その瞳の奥にある“自分”を、僕は知っている。
「北川……修治……?」
口に出した声は、子どものものだった。
それでも、脳のどこかが確信している。
これは俺だ。
断片的な記憶が流れ込んでくる。
法律学部の教室。老教授の説教。株のチャート。Omniのクラウド。
——そして、あの「自動認証プログラム」。
胸の奥がかすかにざわついた。
(……待て。
俺、何か大事なことを忘れてないか?
いや、違う——“思い出してはいけない何か”を、どこかに置き去りにしている感覚……)
「……いや、もういいや」
修治は首をふって、その奇妙な感覚をごまかした。
——思い出せない記憶は、たぶん思い出すべきじゃない。
自分の思考とは思えない反射的な疑念が浮かぶ。
だが、修治はその違和感すら、深追いせずに手放した。
「……まあ、いいか」
⸻
「俺、死んだ……のか?」
胸の奥で何かがざらりと軋む。
恐怖よりも先に、冷たい計算が動き始めていた。
部屋の端にあった端末に手を伸ばす。
見慣れない規格だが、インターフェースの論理はどこか懐かしい。
外観は古びている。
金属筐体には、小さな摩耗と擦り傷が刻まれていた。
だが――
指先が触れた瞬間、修治は息を呑む。
その質感。
接合部の精度。
ネジ一本の規格。
冷却用スリットの切削の滑らかさ。
すべてが、明らかに〈2025年の工業水準〉を超えていた。
まるで、
“旧型PCの殻をまとった、別の時代の高精度デバイス”。
そう呼ぶしかない奇妙な存在感。
インターフェースの規格は完全に未知。
だが、UI の反応速度やフォルダ構造の“癖”は、
胸の奥をかすかに刺激するほど懐かしい。
(……こんな OS、2025年には存在しなかったはずだ。)
モニターの暗闇が、ゆっくり光を帯びる。
修治は、息を整えるように小さく吐き出した。
「……手動で接続してみるか。」
◇◇
ユーザー名とパスワード。
指が勝手に動く。
——体は子どもでも、記憶は“俺”のものだ。
「……ログイン成功?」
画面に浮かぶ、あのロゴ。
[Omni Systems Cloud Access Verified]
[Stock Account Linked: NorthRiver Securities]
[SYSTEM]: Welcome back, User: YAMABIKO_03
[Last Connection: 2025-11-16 02:26:07 JST]
息を呑んだ。
Omniのアカウントも、証券口座も、生きている。
理由はすぐに分かった。
——2025年の俺が、サボるためだけに書き上げた、あのポンコツな自動認証プログラム。
あれは到底、技術作品なんて呼べるシロモノじゃなかった。
所詮は、ただの法律系の学生が、Gensis AI(2025年版)の生半可な助けを借りて叩き出した、ゴミプログラムに過ぎない。
「まさか、
あのゴミが、
『転移後、Omniにログインできる唯一の認証』になるとはな。」
Omniの雲端上で三年ごとに認証と同期を繰り返す“自己保存システム”。
それが、四十年以上の時を越えて動き続けていたのだ。
「……まだ、残ってたのか」
◇◇
株式口座の画面が開いた瞬間、呼吸が止まった。
OMNI:現値——桁が違う。
MOMENTUM DYNAMICS:取引停止。破綻済み。
そこに残っていたのは、あの頃の“俺の資産”だった。
だが、一覧の様子はまるで別の世界のものだった。
半導体関連——上流から下流まで、銘柄名がすべて消えている。
Chronosも、Synaptic Mobileも、Astra SoCsも、
ChainNetも——どこにも存在しない。
検索してもヒットしない。
まるで、産業そのものが「履歴から削除された」かのように。
代わりに爆上がりしていたのは、医療関連と保険関連株。
AIによる自動診断・リスク算定・保険審査を手掛ける企業が市場を独占していた。
AIが病を診断し、AIが生命を査定し、AIが支払いを拒絶する。
——生死の判断を、人間は既に手放していた。
そして、画面の最下段に、懐かしい呼び名を見つけた。
THE HEPTAD(ヘプタッド)
かつて「Magnificent Seven(マグニフィセント・セブン)」と呼ばれた七巨頭の総称。
Apex、Omni、Dominion、Nexus、Aether、Agora、そして——
……Vanguard?
(いや、待て。俺の時代にそんな会社あったか?)
慌てて株価アプリを開いて、該当ティッカーを確認する。
スクロール、タップ、詳細表示。
「……ああ、そういうことか。」
Nicloas と SpaceCが、
俺の知らない未来で“統合”されてできた超巨大企業。
つまり、あの“Vanguard?”は、
俺の知っている二社の「合体後の名前」だったわけだ。
――それは、2020年代における AI 技術と宇宙産業の覇者たち。
そのヘプタッドの一覧に、見覚えのない企業名が突然混じっていた。
……いや、違う。
よく見れば、Nicloasと SpaceCが“統合”され、
俺の知らない未来で、一つの巨塔になっていたのだ。
(まあ……考えてみれば、どっちも元から同じオーナーの会社だったしな。
統合されても何の不思議もない、はずなんだけど。)
まだ、生きている。
だが、それでも胸の奥がざわつく。
俺が知っていた歴史が、気づかないうちに静かに書き換えられている——
そんな感覚だった。
――その瞬間、ひとつの疑問が湧いた。
いったい、何が起きたのか?
「なぜ、今も株が動いている?」
「誰が取引している?」
まだ震える指先で検索窓を開く。
「ニュース」「経済」「AI市場」——入力。
エンターを押す。
数秒の沈黙。
そして、異様なほど整ったニュース一覧が現れた。
⸻
《オムニ・ネット経済通信》2068年10月18日号
——世界は「安定期」に入ったのか?
「ジェミニ世代(GSAI)」が導入されてからすでに二十年。
現在、地球上のあらゆる行政・医療・保険システムは、
Omni Systems・Dominion・Nexus の三社による
「連邦AI網」に統合されている。
2060年関鍵基礎設施法案(The Grid Act)によって
すべてのAIデータセンターは「核融合電網」に接続。
「人類は初めて持続可能な算力時代に入った」と
連邦エネルギー安全局(FESB)は発表している。
⸻
《イーサー金融週報》
ヒプタッド指数、再び史上最高値を更新。
「AI市場は永続的な均衡に達した」と専門家は語る。
量子計算はすでに2048年に「商業化不可能」と認定され、
現行のAI産業はすべてGSAIモデルを採用している。
半導体製造は完全に国有化され、
Apex Foundry と EUV Dynamics の二社がその中枢を担う。
――完全国有化、だと?
思わず声が漏れた。
Apex Foundry と EUV Dynamics、
かつて二大ファウンドリの王者と呼ばれた企業が――
こうして、記事の数行で消えたのか?
投資アドバイス:
「エネルギークレジットを長期保有せよ。短期取引は推奨されない。」
⸻
《オムニグローバル公開データベース》
「AIと幸福度報告 2068」
平均寿命:102.5歳。
精神安定指数:93.6。
経済変動率:0.02%。
自殺率:――非公開。
「AIガバナンスによって、人類は無痛の時代へと入った。」
「……無痛の時代、だと?」
ふざけてるのか。
⸻
画面を閉じようとしたその瞬間、
一瞬だけ、別の見出しがフラッシュした。
《バサルト・インディペンデント(封鎖前の残存キャッシュ)》
「……Vanguard(ヴァンガード)事件の真相はいまだ闇の中。
創設者イーロン・マフロスは生存しているのか?
記者イレイン・クレイグは拘束された。理由:『デマの拡散』。」
画面が、突然真っ白に変わった。
《ACCESS DENIED / REPORT HAS BEEN SEALED》
――心臓が跳ねた。
この世界では、真実すらも「最適化」されている。
⸻
俺は椅子にもたれ、
天井の淡い光を見上げた。
「……まさか、これが“安定”なのか。」
手のひらが震えていた。
胸がざわつく。
懐かしさと恐怖が入り混じったような、
説明のつかない感覚。
でも――この世界を、どこかで知っている気がした。
「……ああ、そうか。」
この“現実”は、俺があの頃、
チャートを見つめながら想像していた「未来」だ。
AIが市場を飲み込み、人間が統計になる未来。
そして今、俺はその中にいる。
――俺の知っていた世界は、
美しく整形され、そして冷凍保存されていた。
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