悼みの名前

通院モグラ

悼みの名前

「うちさ!百点とったらゲーム買ってくれるって!マリオの新しいやつ!」


 そう叫んだのは、隣の席の男の子だった。高く手を挙げて、答案用紙をひらひらさせて笑っていた。

 教師が教壇を出ていく。チャイムが鳴る。クラスのあちこちで声が跳ねる。

 彼女は、机の中にゆっくりと答案を滑り込ませた。

 裏返した。誰にも見せなかった。

 丸ばかりが並ぶ紙。真っ赤な花丸。

 100点。

 だが、その余白の白さの方がずっと気になっていた。

 机の上には誰の物語もない。だから立ち上がる。早く帰る。それだけだった。


 階段を下りる音。靴音。風の音。

 小学校の校門を出た瞬間、空気が少し重くなる。誰も気づかないほどの温度差。

 真っ直ぐには帰らない。川沿いを少し歩く。少しでも、遅くなるように。

 けれど、帰らなければならない。

 鍵はない。親がいる。あの家にはいつも軋んだ声が満ちている。

 玄関を開けた瞬間、湿った薬草の匂いが鼻をついた。

 次いで、煙。線香とよくわからない灰の混じった香り。


「……千景ちかげ。水、換えた?」

「換えた」


 母親の声は弱々しいが、言葉の端に棘がある。

 仏壇の水を換えていないと怒る。でも、それ以外に怒ることもあった。

 例えば、静かにしていると怒る。成績が良くても怒る。

 笑わないと怒る。口答えしなくても怒る。

 咳が止まらず、薬ではなく、民間の“毒の抜き方”を試しては、彼女を巻き込んだ。

 今日は「火の祓い」だった。

 裸足で新聞紙を燃やし、それをまたいで歩かされる。

 熱い。熱いが、声は出さない。

 母親の掌が、後頭部を打つ。


「やり直し。気持ちが足りん」


 視界がぶれる。

 額が少し切れたらしい。

 でも、手のひらで額を押さえると、すぐ止まった。

 そういうとき、彼女は自分の血の止まり方を計っていた。

 この傷は、絆創膏で十分。薬は要らない。


「泣かんのか、あんたは」

「泣いても治らん」


 冷たく言ったわけじゃない。ただ、それが答えだった。


 *


 あの女はもう駄目だ。

 何を信じても、何を失っても、自分で回復できない。

 呼吸も感情も、誰かに預けて生きている。

 なら、自分は違う。

 早く、ここを出る。

 泣かないで、考える。

 叫ばないで、覚える。

 そのためだけに、学校に行く。

 日々、誰よりも先に登校して、誰よりも遅く帰るようになった。

 答案は黙って机に仕舞う。点数は教師だけが知ればいい。

 家には答えも、褒め言葉もない。

 だから、ただ数字だけを積み上げる。

 逃げるための数値。

 名前を変えるための記録。


 *


 そんなある日だった。

「仲良くしてた子」が死んだと知らされたのは。

 名前を呼ばれた時、一瞬だけ、何の話かわからなかった。

 事故。車。飛び出した。

 彼は、朝、ランドセルの肩紐がいつもずれていた。髪が細くて、湿っていた。

 女子にも男子にもからかわれていた。でも、彼女には、普通に話しかけてくれた。

 その子が、死んだ。


 葬式に行った。制服で。母が「行け」と言った。

 黒い服の大人たちが大声で泣いていた。誰の目も赤くなっていた。

 その中で、彼女はただ、焼香の仕方を見ていた。

 何人が、同じ仕草をするか。

 どういう順番で、遺影を見るのか。

 彼の顔は、写真の中でだけ笑っていた。

 火葬は見ていない。

 誰も本当に“死んだ”ことを分かってない気がして、そのまま、誰にも言わず、公園に向かった。

 ブランコに座った。誰もいなかった。

 音が風の中に消えていく。


「……泣いて、意味あるん?」


 ぽつりと独り言。誰にも届かない。

 泣いて見舞いに行っても、生き返らない。

 泣いても、事故は起きなかったことにならない。

 だったら――


「死ぬ前に、なんかできる方がいいやん」


 そう思った。思ってしまった。

 だからなのかもしれない。

 あの子の死を、彼女はずっと忘れなかった。

 泣かなかったからじゃない。

 “どうにもできなかった”からだ。

 彼が息をしてた時間、手を貸せなかった。

 あの時、彼女はまだただの子供で、「助ける」方法を知らなかった。



 その年、彼女は教室で名前を呼ばれると、まっすぐ手を挙げて返事をするようになった。

 表情をつけた。感情を偽った。

 でも、覚える速度は変わらなかった。むしろ、加速した。

 春にはもう、学校の教科書では足りなかった。

 中学では特待生として扱われ、無表情を「冷静」と言われた。

 高校では理系の成績が抜けて、母親はいつの間にか信仰ごと失踪していた。

 もう、殴られることもなかった。

 代わりに、「自分で火を点ける」技術が必要だった。

 だから、軍医学校に入った。

 誰も彼女に「なぜ医者を目指すのか」と訊かなかった。

 必要な書類にだけ、を書いた。

 だが本当の理由は、記録されていない。


 たったひとつ。


「死ぬ前に何かできる人間になりたかった」


 それだけだった。

 泣かない少女が、唯一、手放さなかった理由。


 *


 彼女は、今日も一滴も泣いていない。

 誰の死にも、泣かない。

 泣けないのではなく、その価値を信じていない。

 死の悼み方は、人それぞれだ。

 そう言えば聞こえはいいが、本質は違う。

 “悼む”ことが、“感情”と結びついていると、人は思い込んでいる。

 だが彼女にとって、死とは記録であり、不可逆な断絶であり、ただ一度きりのだった。


「……どうぞ、最後にお別れしてあげてください」


 そう言って、ベッドのシーツを整える。

 遺体ではなく、まだ名前のある身体を扱うように、最後まで。

 母親の泣き声が響く。息子だったという。

 声が上ずる。喉の奥が震えたまま、止まらない。

 父親は肩を抱いている。顔は濡れていないが、視線が彷徨っている。


「……っ、うちの子……まだ温かいのに……!」


 母の声が割れる。

 彼女は頷かない。ただ、息をする。

 愛していた人を亡くした――

 医者として、そういう場面に何度も立ち会ってきた。

 家族。恋人。子供。兄弟。

 皆、「愛していた」と言う。

 泣きながら。

 時には、泣けずに。

 時には、取り乱して。

 時には、黙ったまま、視線ひとつ動かさずに。

 だが彼女は、その言葉の意味を、いつも手の中で計っていた。


 “愛していた”って、死ぬ前に何かできなかったことをごまかす呪文じゃないのか。

 ほんとうに、何かできたなら。

 止められたなら。

 見送らずに済んだなら。

 その言葉は、果たして必要だったのだろうか。


 ……そう考えてしまう自分を、冷たいと他人は言う。


 でも彼女は、それでもここに立ち続けている。


 *


 病院の屋上。

 当直の合間、人工灯の中で缶コーヒーを開ける。

 風が吹く。

 遠くで搬送ヘリのプロペラ音がかすかに聞こえた。


 ふと、思い出す。

 あの子の名前。顔。声。

 黒髪が湿っていた。鼻の頭に絆創膏。背が低かった。

 朝、「あのさ」と声をかけてきたときの、間の抜けた笑顔。

 ……死んでからの方が、ずっと、記憶にいる。


 クラスの誰がどんな風に泣いていたかは、もう思い出せない。

 葬式の大人たちの服の色や、煙の匂いも。

 でも、あの子が死んだあと、自分がブランコを漕いでいたときの風だけは、20年経った今でも指に残っている。


 死んだとき、泣かなかった。

 泣く意味が、どうしても見つけられなかった。

 だから、今日まで一度も泣いていない。

 でも、忘れてなどいない。

 医者になった理由を問われても、うまく答えられたことはない。

 誰かを救いたいわけじゃない。

 感謝されたいとも思わない。

 ただ、“死ぬ前に何かできる人間”になりたかった。

 それだけだった。


 何もできなかった記憶を、ずっと忘れずに持ち歩いているという、それだけの動機。

 それが今日も、彼女をこの場所に立たせていた。



 屋上の風が一瞬止み、缶コーヒーの中身が静かに揺れた。

 病院の裏手では清掃車が通り、朝焼けにかけて薄くなった外灯が、点滅を繰り返している。

 彼女は背筋を伸ばし、缶を握る手をわずかに緩めた。

 掌に残った体温が、ふと死者の額のぬくもりを思い出させる。

 亡くなったばかりの皮膚は、ほんの数分だけ、まだ生きているように温かい。

 あの温度を記憶できないことだけが、今も医者として不満だった。


「……愛してたって、死ぬ前にできることって、意外と少ないんだよね」


 誰にでもなく呟く。風がそれを拾いもせず、流れていった。

 彼女の中では、もう終わった話だ。

 でも、忘れてはいない。

 忘れるような死なら、わざわざ命を救う必要もない。

 足元の医務靴がアスファルトを叩く。

 中庭のベンチに座る誰かが、小さくあくびをした。

 日勤組が動き出す音。救急車の遠音。

 ――また、今日が始まる。

 そして、声が響いた。


千景ちかげ先生ー!急患入りまーす!!胸痛・40代男性、意識レベルGCS13!」


 廊下の向こうから走ってくるナースの声。

 声の主はたぶん佐久間。昨日、夜中にレッドブル2本飲んでた子だ。

 彼女は缶をゴミ箱に投げ入れ、一拍、肩を回しながら、歩き出す。

 声はそのまま返すには重たすぎる。

 だから、軽く返す。


「はいはーい、地獄の診察室はこちらでーす。死にかけも生焼けも、一列に並んでくださーい」


 廊下に声が響く。ナースステーションで数人が苦笑いした。

 彼女はそれでいい。誰もが知っている。

 この女医は、そう言うときに限って誰よりも早く手を動かすと。


 白衣の裾がひるがえる。

 その足取りは、真っ直ぐに命のもとへ向かっていく。


 そして誰も知らない。

 彼女が20年間、忘れたことのない死があるということを。


 その名前を、彼女は一度も誰にも語っていない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悼みの名前 通院モグラ @Sutureline

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ