老害リセット法
@jamuwojisan
第1話
あらすじ
幸福度が一定以下の国民は「リセット候補」として登録される。母の幸福度は、28%。国家AIが、母の生死を判断する日がやってくる――。
第一章 「幸福度通知」
幸福度という言葉が、この国ではもう「体温」みたいなものになっていた。朝のニュースで平均値を確認し、学校や職場ではお互いの数値を気遣う。笑うことも、泣くことも、いまや統計の一部だ。
「幸福度がすべて」と言われる社会になってから、もう十年。この数値が五十を切ると、行政から警告が届く。三十以下は安楽死支援の対象。一桁台は“生存観察”のマークがつけられる。
朝、ポストが鳴った。新聞を取らなくなって久しいのに、手は反射的に動く。冷たい金属の口の奥に、赤い封筒が差し込まれていた。まるで血のような色だった。
宛名は母――高瀬春江。差出人の欄には、黒いインクで一文字。
Σ(シグマ)国家統治AIの署名。今の日本で、その記号ほど恐ろしいものはない。
封を切ると、中から薄い紙が一枚滑り出た。官製文書特有の匂い。戦時中の召集令状を模したかのような意匠。
「幸福度通知書」その上に、母の幸福度が印字されていた。――28%〈安楽死候補者に登録されました〉という事務的な一行が、紙の下に冷たく並んでいる。
母の幸福度は28%
家にはMIKADOという介護ロボがある。端末兼測定機能を備え、日々のバイタルと感情パターンをスキャンして政府のシステムへ送る。
僕はその端末に顔を近づけた。画面には短い文字が浮かぶだけだった。――「計測不能」。
理由はわからない。医師も、カウンセラーも、AIの専門家でさえ「前例がない」と言った。
ふたりの幸福度を足しても、希望には届かない。
通知書の文字は淡々としていた。だが読んだ瞬間、胃の奥がひっくり返るような感覚が走った。
僕は封筒を見つめたまましばらく立ち尽くす。外では近所の子どもたちが登校している。笑い声が遠くから届く。
この国では、死の知らせすら日常の音に溶けている。
リビングでは、母がベッドの上でテレビを見ていた。朝の情報番組では「寿命祝祭」特集を放送している。ステージに立つのは八十歳を迎えた老人たち。赤いスーツでマイクを握り、笑顔で歌う。
司会者が明るく言う。「皆さん、この国では“死ぬことが希望”なんです!」
母が笑った。「きれいねぇ、あの人たち」その声は、まるで別の世界の音だった。
僕は手の中の封筒を見つめ、静かに深呼吸してゴミ箱に放り込んだ。指先が震えている。けれど母の前では冷静でいたかった。
「母さん。登録された。Σが勝手に」
母は首を傾げるだけで、画面の老女たちに向かって「頑張ってねえ」と手を振っている。その無垢な仕草が、僕の胸の奥を焼いた。
僕はダイニングの端末を開いた。AI通知用のポータルサイト。Σから届いた電子文書がすでに僕のアカウントにも連動している。介護者の家族全員に同報される仕組みだ。
【幸福度通知システム】〈受信者:高瀬春江(77)〉〈登録者:高瀬拓也(38)〉
文面にはこうある。「幸福度が閾値を下回りました。再審査を希望する場合は、24時間以内に申請してください。」
右下に小さなリンク。〈再審査申請〉
指を伸ばしかけて止まる。母の幸福を数字で争うことに意味があるのか。
そんな疑問が胸を通り過ぎた瞬間、画面が切り替わった。Σの音声通信が自動で接続されたのだ。
部屋に無機質な声が満ちる。「高瀬拓也さん。あなたの生理データおよび感情パターンを解析しました。現在、あなたの幸福度は計測限界を下回っています。」
「……僕の幸福なんて関係ないだろう」
「いいえ。介護者の幸福は被介護者の幸福に直結します。よって、あなたも再審査対象となります。」
通信が途切れた。耳の奥に電子音が残る。まるで誰かの心拍のように、一定のリズムで。
テレビの中では司会者が笑顔で老人の肩を抱いている。「さあ、次の方も、堂々と死を語ってください!」
母は手を合わせて拍手している。僕は冷蔵庫に寄りかかる。冷たい金属の感触が背中に伝わる。
目を閉じると、父の葬式の記憶が蘇る。狭いアパート。腐臭と孤独と蛆の群れ。死は汚れていた。だがこの国では、それすら“清潔”に整えられてしまう。
僕は深呼吸して再び画面を見る。Σのアイコンが赤く点滅している。
そこに小さな文字。「幸福の最適化を完了するには、同意が必要です。」
「同意?」呟く声は、乾いていた。
同意すれば――母は楽になれる。僕も、楽になれるかもしれない。
台所の隅でMIKADOが動いた。介護ロボの関節がぎぎ、と音を立てる。
「おはようございます、春江さん」
母が笑う。「ありがとうね、みかどさん」
あの機械の眼が僕を見ている。計算している。僕と母、どちらが先に“幸福度の限界”を超えるかを。
手を伸ばし、ゴミ箱の赤い封筒を拾い上げる。紙の縁で指を切り、血が一滴、封筒に染みる。
母の幸福度は28%。僕の幸福度は、もう数字にもならなかった。ふたりを足しても、希望には届かない。
外では郵便配達のバイクが次の家へ向かっている。赤い封筒が、また一軒に届く。どこかで、また誰かの幸福が測られている。
窓の外の陽射しが異様にまぶしかった。太陽がまるで、この国の“幸福の総和”を燃やしているように見えた。
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この作品は“制度の是非”ではなく、“家族の選択”を描いたフィクションです。あなたなら、どんな選択をしますか?
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