第12話
番外編続・未来の台所で
午後の柔らかな光が、キッチンの琺瑯の壺を優しく照らす。
80代の私は、孫息子と並んで、古い糠床の蓋を開けた。
「先生、これ、混ぜるの楽しいね!」
初孫くんの手が、まだ小さくて温かい糠に触れる。
その無邪気な笑顔に、私の胸の奥はふっと柔らかくなる。
「そうでしょう?昔からずっと、私の相棒なのよ」
杖を傍らに立てながら、私は笑いかける。
ぬか床の香りが、懐かしい日々を運んできた。
あの頃の舞台、推しの笑顔、へちゃげた鉄釘――
すべてが、この香りの中に静かに生きている。
「でも、どうして糠床には鉄釘が入ってるの?」
孫が首をかしげる。
「それはね、長く発酵させるための秘密なの」
私は糠床を混ぜながら、鉄釘の先を軽く撫でる。
「小さな助っ人。あなたのひいおじいさんも、私も、ずっとこの子に力を借りてきたの」
孫息子は目を丸くして、もう一度混ぜ始める。
糠床の中の小さな泡が、二人の手元でぽこぽこと立ち上がる。
「ねぇ先生、僕も将来作家になれるかな?」
声はまだ幼いけれど、瞳は真剣だ。
「もちろんよ。でも覚えていて。文章も人生も、じっくり発酵させるのが大事」
私は穏やかに言う。
「急いでも、味は出ないの。時間と愛情をかけるの」
二人の小さな手と、私の年老いた手が、
ぬか床の中で軽く混ざる。
その温もりが、私の心をじんわり満たす。
――人生も、恋も、創作も、発酵させるもの。
推しも、子どもたちも、そして私自身も、
時間の中でゆっくり熟れていく。
孫息子が笑い、糠床の香りが立ち上る。
私は静かに、そして確かに思った。
「こうして発酵させ続ける人生こそ、作家冥利に尽きる」
壺の中で、小さな鉄釘も、泡とともにくるくると舞っている。
過去も未来も、この台所の中で、
ゆっくり、じんわり、熟していくのだった。
発酵人生 @19910905
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