カゲロウ ―陽炎の午後―
紫季
カゲロウ ―陽炎の午後―
※介護や死を連想させる描写があります。
苦手な方は、ご注意ください。
病院のベッドみたい。
実家に到着してすぐのこと。
私は、狭いリビングに置かれた、大きな介護ベッドを見て、そう思った。
なんて月並みな感想だろう。
白い枠に、重厚そうなタイヤが付いている。
左右に白い柵が取り囲んでいて、右側にはリモコンのようなものが、ぶら下がっている。
緑色の小さなライトが、何も言わず、その場所だけを照らし続けている。
片方の足元にだけ、柵はなく、ぽっかりと空間があった。
薄そうな生地の赤いブランケットには、チェックの模様が入っていて、ただただ静かに、ベッドの上に広がっていた。
エアコンからの熱気が、リビング全体に広がっていて、とても、暑い。
嫌な匂いが充満してる。
着いたばかりだと言うのに、そのどす黒い塊が、頬にまとわりついて、首元から喉の奥へと、じわりと蝕んでこようとしていた。
飲み込んだ唾液が暗闇に沈んだ。
出窓のカーテンが、揺れる。
歪に伸びるレールにぶら下がり、どんよりとした光が、隙間から覗いた。
⸻
「あぁ、かなちゃん、おかえり。」
キッチンから聞こえてきたのは、聞き慣れた母の声だった。
長く続いたわけでもないが、在宅介護を一心に請け負ってきた彼女は、ひどくやつれていた。
艶のあった長い髪は、すっかり痩せ細り、短めにカットされていて、白髪が混じる。
毛玉のついたシャツに、黒いズボン。
結婚指輪に飾られた左手も、乾燥し、少しばかりヒビが割れはじめている。
その柔らかい両手が、娘の手を大事そうに包み込む。
目を細め、私に優しく微笑みかけていた。
「ねぇ、お父さん。かなちゃんよ。飛行機に乗ってね、来てくれたのよ。」
ベッドの横の、丸い椅子に誘導され、ゆっくりと座る。
彼女は、そのまま頭の近くに自身の顔をやって、穏やかに話しかけた。
「お父さん……かなだよ。分かるでしょ?」
「分かるわよねぇ、ずっと会いたかったのよね。」
ベッドの上に眠る、小さく息をする痩せこけた頬に、あの手がそっと触れる。
私は、座ったまま、ぼんやりと白い枠組みを見つめた。
タイヤに押しつぶされている畳の一点が、重く窪んでいた。
そのまま沈んでいってしまうのではないかと考えたけれど、他には何も思い浮かばず、見るのをやめた。
「けいたは?」
「あぁ、けいたね。さっきまでいたのよ。まいちゃんの幼稚園のお迎え行ったらね、れいこさんと、すぐ来るって。」
「……そっか。」
奥の壁を見上げると、ちょうど十三時だった。
私は、そこに飾られている数枚の写真に視線をずらした。
古びた木製のフレームには、いずれも家族旅行先で撮った写真。
この写真のけいたは、まだ五歳くらいかな。
エメラルドグリーンの海を背景に、砂遊びをしたんだ。
白い砂に混じる、白い珊瑚礁を踏んだら、足を怪我するって、サンダルを履かせたんだった。
私は、ベッド越しに笑う、その顔を、ただ、ずっと、見つめていた。
誰も音を出さず、しんとしていた。
響いているのは、エアコンの、ゴォ……という機械音だけ。
棚の上のハロウィンの置物も、テーブルの上の書類も、真っ暗なままのテレビも、全てが息を潜めていて、全てが灰色に覆われていた。
ただ、赤いチェックのブランケットだけが、僅かに上下を繰り返していて、どこか不自然に存在感を放っていた。
それはまるで、私の胸の奥を包み込もうとしているようだった。
⸻
「おぉ、姉ちゃん。久しぶり。」
けいただった。
口元に白い歯を覗かせて、日に焼けた、筋肉質な腕で、私の方に手を振った。
「久しぶり。元気そうだね。れいこさんは?」
「ん?まいがさ、行きたくないって駄々こねちゃって。家にいるよ。」
「ふふっ、そっか。」
申し訳なさそうな表情を浮かべながら、二人の間に立ち入って、ベッドの近くへと寄った。
「親父、朝と変わらず?」
「ええ、変わらずよ。でも、少し顔色がいいと思わない?」
「そうかな……あれは?酸素測るやつ。」
キョロキョロと辺りを見回すけいた。
私が座っている場所の、ちょうど隣のテーブルに目を向ける。
書類を留めるように置かれた、パルスオキシメーターを見つけて、手を伸ばそうとした時だった。
「あった!」
私の動きよりも早く、けいたがそれをパッと取る。
そのまま、ベッドで寝ている、浮腫んだ指先に、手際よく装着させた。
「……あー、うまく反応しない。これ、電池切れてんじゃん?」
「あら、もうすぐ、訪問の看護師さんが来るから、聞いてみるわね。」
「うん。そうしよ。あ、じゃあさ、その前にスーパー行ってきていい?」
飲み物買うの忘れてて、と、けいたはポケットの中に手を突っ込んで、車のキーを取り出した。
「姉ちゃんもいく?」
私は、ずっとここに、こうしていても、仕方がないように感じていた。
それに、久しぶりだし、と、付いていくことにした。
移動をしながら、横目で見たから、はっきりとは、分からなかったけど。
赤いブランケットは、さっきより、少し、動きが弱くなったような気がした。
落ち窪んだ頬は、短く震えていた。
⸻
久しぶりに来た、通い慣れたスーパーは、相変わらずどこか古臭さが残っていた。
低い天井の、黄ばんだ蛍光灯は、薄く埃をまとっている。
客もまばら。
そういえば、駐車場も、いつも通りにガラ空きだった。
どの棚を見ても、見慣れた商品ばかりが並んでいる。
その光景が、今日は少しだけ、心地よい。
買い物かごを持ったけいたが、すぐ隣に来て、小声で話しかける。
「親父さ、今日明日だって。」
「ああ……聞いたよ。」
「膵臓がん、て言われてさ。ほんと、あっという間だったんだぜ。」
「だよね。何も出来なくて、ごめんね。」
生肉コーナーを抜けた。
ラップに押し付けられた赤い肉が、ぽっかりと口を開けている。
店内を進むと、ドリンクコーナーに着いた。
明るく照らされて、ズラリと並べられた鮮やかな液体が、冷やされ、おとなしく待機していた。
今、通り過ぎた、視界の端。
瓶に入った茶色の飲み物。
私が、好んで購入していたものだ。
彼は、棚を彩るそれらを一瞥し、いつも飲んでいる炭酸のペットボトルのジュースを手に取る。
「気にすんなよ。姉ちゃんはさ、ほら、色々あったじゃん。親父と。」
「……うん」
「……こんなこと、言うのも、あれだけどさ。いいんだよ、それで。」
「……まあね。でも、」
けいたのその声に、彼女は、小さく目を伏せた。
重ねられた段ボールの山を超えて、小さな子供の笑い声が、私の背中を通り抜ける。
あの日、耳にした声に似ていた。
黄ばんだ蛍光灯に響いて、モヤに溶けていった。
胸の奥が渦巻く。
罪悪感や懺悔、後悔、愛しさが混ざり合う。
私のおぼつかない足元から抜け出して、その黒い髪の毛に絡まるように、ねっとりと這い寄っていた。
ブブ……(スマホのバイブ音)
けいたのポケットの中の、スマホが震えた。
時刻は、十四時二十四分。
「あ……姉ちゃん、母さんが、帰って来いって。」
けいたと、かなは、足早に会計を済ませる。
私も、その背中を追った。
⸻
家に戻ると、けいたとかなは、そっと、ベッドへ足を運んだ。
私も、後ろから、三人の頭越しに覗き込む。
あぁ、何度見ても、骸骨のようだ。
髪の毛も、こんなに抜けてしまって、乾燥した口の中も、隙間からボロボロの歯が見えているじゃないか。
恥ずかしい。
かなは、テーブルの上の書類を片手に、母親に確認をした。
「お母さん、先生には、電話したの?」
「ええ。すぐに、来てくれるわ。……お父さん。目を開けて。」
「親父……」
妻の震える声が、エアコンの無機質な音にかき消される。
壁に掛けられた写真は、全て一部分が破かれていて、
けいたの屈託のない笑顔だけが、何枚も飾られていた。
ベッドの足元の空間に、かなはそっと立ちすくみ、どこかうつろな目をしている。
その口元がほんの僅かに、言葉を紡いだ。
それは、誰にも聞こえないように、小さく、小さく唱えた呪い。
私は、翳りを灯した娘の顔を覗き込み、にっこりと笑顔を向けた。
ひんやりとした風が、かなの頬を撫でる。
どす黒い塊が、全身を侵食して、太ももから腹の中を、締めるように蝕んだ。
それはまるで、赤いブランケットのように、小さく波打っていた。
十四時十四分、私は死んだ。
* * *
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紫季
カゲロウ ―陽炎の午後― 紫季 @shiki_season
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