月下の静観
花森遊梨(はなもりゆうり)
月下の静観
「リィナさん、これもお願いします」 同僚が一枚の申請書を差し出す。リィナは微笑み、軽く頷く。手のひらがかすかに光り、書類は自然に整列して机の端に収まった。
昼の世界は地味で安全だ。魔法の使い方も、権力争いも、誰も見ていない。しかし夜が訪れると、リィナは別の顔を持つ。
宿舎の部屋、引き出しの奥から黒いローブを取り出す。光沢のある生地が指先に触れる感触。胸の新月の黒い紋章をそっと手で撫でる。
慎重な魔法使いは家族にだって正体を隠していることがある。私にはその心配はない。私には結婚相手も同居人もいないからだ。
それでも魔法使いが身を守るには正体を知られないのが一番いい。
衣服が体を覆うたびに、昼間のリィナはゆっくりと消えていく。手のひらに宿る魔力が静かに輝き、机の上の紙の匂いや役所の雑音が遠ざかる。呼吸を整え、静かに心を夜の世界に切り替える。鏡に映る自分の姿を一度だけ見つめる。地味な官吏だった顔は、夜の魔女としての落ち着きと威厳を帯びている。
リィナ・ヴァルデール 彼女は、魔女であった。
サバト
長過ぎる生に飽いた「本物の魔女」たちが貴族社会を模して暇潰しのために立ち上げたものだが、彼女らの権勢の強さゆえに魔女はおろか、魔法使いの社会そのものといえる結社に発展した。魔法さえ使えれば女性はみな加入できる
そんな会場の扉の向こうでは、煌びやかな魔女たちの声が響いている。儀礼のための魔力が空気を震わせ、どこか眩しく、そして殺気めいている
と、ここまで説明しておいて悪いが、リィナがいるのはサバトの建物の外であった
「でも……これでいいのかなあ?参加せずに」 リィナの問いに、アザリアは口元に微かな笑みを浮かべる。 「別に?まだサバトに幻想でも持ってたんですか?つくづくおめでたいですよ」
この魔女の名前はアザリア・トークン。サバトの世界に慣れないリィナとしては、『それでもまぁ他の連中に比べれば気の合う方』程度の知り合いである。
「内情はあの通り 泥沼です。修道院と同じく閉鎖された世界にいるぶん 普通の奴より歪んでやがります。リィナだって、ここまで王侯貴族のシモの世話をしてきたなら、よくわかってるでしょう?」
リィナは手を胸の新月の紋章に添え、静かにうなずく。権力の表面を取り繕う連中、虚飾の中で生きる魔女たち……昼間の役所仕事と夜の世界が、奇妙に重なる瞬間だった。
その時、建物の扉が開き、白銀がかった薄金髪をなびかせる少女が現れた。 セラ・マリステル――サバト上層の若手、クレッセント&フルムーンの証を持つ次世代の顔だ。人々の目は一瞬で彼女に吸い寄せられる。外面は涼やかで優雅だが、その目には冷徹な観察者の光が宿っていた。
「やあ、こんなところで何してるの?」 セラの声は柔らかいのに、鋭く全体を見渡すような響きがある。
アザリアは肩をすくめ、リィナのほうをちらりと見た。正直リィナはこの少女とあまり面識はなかったし、接し方も良く分からなかった。おそらく少女の方も、たまたま気晴らしに外に出てきて、気紛れで話しかけているだけなのだろう。何らかの必然性があって、この少女とコミュニケーションを取らなくてはならない状況が生じたとも思えない。 「いや、ただ……外で空気吸ってるだけ。サバトの宴会には、まだ慣れないものでね」
セラは軽く微笑み、二人の間を通り抜ける。 「ふふ、慣れるって言ってもね……外から眺めるだけじゃ、本当の腐敗も秩序もわからないわよ」
その言葉に、リィナの胸に微かな緊張が走った。 昼間の官吏としての慎重さも、サバトの世界の冷たさには及ばない。だが、同時に、この若き魔女の存在が、夜の世界における指針のようにも感じられた。
アザリアは小さく鼻で笑った。 「まあ、焦ることはないですよ。リィナ、あんたはあんたのペースでいい」
月明かりの下で、三人の影が長く伸びる。煌めくサバトの会場と、外で屯する小さな三角形。ここでしか見えない秩序と、秩序を嘲笑う自由。リィナは静かに息を吸い、夜の魔女としての自分を再確認した。
月下の静観 花森遊梨(はなもりゆうり) @STRENGH081224
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