2 舞台上の共犯者たち
鏡花が崩れ落ちてからギャラリースペースは一瞬にして劇場と化した。誰もが動揺し、叫び、あるいは硬直している。僕のメモ帳には鏡花の倒れた位置、カップの色、そして人々の初期反応を記しておく。これは、忘却の波が来る前に確保すべき「絶対的な証拠」だ。
「落ち着いて! 誰か救急車を!」
甲高い声で叫んだのは、元アイドルの黒須 茜だった。一見パニックに見えたが、その目線は素早く周囲を見回し、異常なほど冷静だった。すぐに主治医である白石蓮が動く。床に膝を突き、鏡花の脈を取り、瞳孔を確認する。
「毒物だ。急いで吐かせなければならない。誰か水を!」
執事の灰谷哲也が無言でミネラルウォーターのボトルを持ってきた。白石は手際よく応急処置を施し、同時に誰かがスマートフォンで救急車を呼ぶ声が響く。
その間、僕はただ傍観していた。頭の中は今見た光景を必死にインデックス化している。
【鏡花、倒れた。原因:毒物。摂取源:ハーブティーのカップ。初期対応:白石(主治医)迅速、黒須(元アイドル)冷静に指示出し、灰谷(執事)手際良し】
僕の隣で探偵の朝霧玲音が、まるでオペラの観客のように腕を組み、悦に入った表情で言った。
「美しいですね、夜凪くん。芸術家が自作の前で倒れる。これほど舞台的な演出はありますか? 犯人はきっと美学を理解している人間だ」
「僕にはただの醜悪な犯罪にしか見えません。あなたの言う美学は犯罪者の自己満足と同意語でしょう」
「犯罪者の自己満足こそ最高の芸術足り得る。このクローズド・サークル、外部犯の侵入はありえない。つまりここにいる全員が、潜在的な共犯者ですよ」
朝霧は招待客たちをゆっくりと見回した。
僕もそれに倣う。彼を否定する皮肉を言いつつも、彼の指摘は本質を突いている。この場にいる誰もが鏡花に対するなんらかの動機を持っているように見えた。
特に先ほど鏡花を酷評した橙馬宗一郎だ。倒れた鏡花を侮蔑ではなく、むしろ満足に近い表情で見つめていた。
「どうかしたのかね、夜凪くん」
視線に気づいた橙馬が不機嫌そうに僕を睨む。僕は彼の瞳の中に、一瞬だけ、微かな恐れを見た気がした。
「いえ、なにも。ただあなたの酷評がこの事件の引き金になった可能性を考えていました」
「馬鹿馬鹿しい! 毒物を使った卑劣な犯行と、正当な美術批評を同一視するな!」
橙馬は声を荒げた。
正当な批評が人の心を殺すこともある。もちろん物理的な殺意に変わることも。それがこの箱庭では可能だ。僕は橙馬の反応をメモに書き込む。
【橙馬、激昂。犯行を強く否定。動機は十分】
そのとき一人の少女が半泣きで鏡花に駆け寄ろうとした。弟子の翠川紗希だ。
「鏡花先生! 先生っ! 誰がこんなことを!」
彼女は鏡花への強い憧れと嫉妬の入り混じった複雑な表情を浮かべている。彼女の周りからは才能への嫉妬と、師への執着という、ありふれた動機が漂っていた。
「翠川さん、触れてはいけません」
白石が冷静に制止する。
「毒物がなにかわからない以上、現場を乱さないでください」
「どうして先生はこんな場所で……忘れたい過去と向き合おうとしていたのに!」
「忘れたい過去?」
僕の耳がその言葉を拾う。もちろんメモ帳にも書き殴る。
【翠川発言:忘れたい過去。鏡花の毒殺未遂は単なる私怨ではなく、過去の秘密に繋がっている可能性】
数分後サイレンの音が遠くから聞こえ始め、警察と救急隊が、この閉ざされた空間に現実を運び込んできた。
救急隊が鏡花を搬送した後、警察が捜査を引き継いだ。
捜査を指揮するのは金城豪警部補である。叩き上げで直感と経験を重んじる、いかにも昔気質な刑事だった。彼は僕たち招待客を一瞥し、深い皺の刻まれた顔を歪める。
「まったく、芸術家ってのはすぐに人を騒がせたがる。で、誰が毒を盛ったんだ? 誰か見たやつはいないのか?」
金城警部補は僕のメモ帳を凝視し指差した。
「おい、あんた。そのメモなんだ? 探偵ごっこか? 今は小説じゃねえ、事件なんだぞ」
「探偵ごっこではありません。これは僕の記憶装置です」
僕は正直に答える。
「僕は短期記憶に障害があります。数分前のことすら忘れてしまう。だからこのメモは僕がこの場にいた証拠であり、僕の視点が記録された信頼できない目撃情報です」
金城警部補は信じられないものを見る目で僕を見た。
「信頼できない目撃情報だと? 冗談はよせ。こいつは本当に病気なのか?」
「はい。夜凪くんは真実を述べています」
雫が普段と変わらない冷静さで金城警部補に頭を下げた。
「メモは夜凪くんの認知が停止する直前に書き留められたものです。情報としては信用できませんが、当時の思考の切断面は記録されているはずです」
「思考の切断面?」
金城警部補は唸った。
「訳のわからねえ話だ。まあいい。全員、事情聴取に応じてもらう。この館から一歩も出るな」
聴取が始める前に僕は素早く行動に移る。記憶を失う前に現場と容疑者たちを再度「初見」として観察し直すのだ。
僕は雫にメモ帳を渡した。
「五分後、僕にこのメモを見せてくれ。それとこのカップの傍にあった、あの奇妙な砂粒について、誰かに尋ねていたか教えてほしい」
「砂粒?」
雫は首を傾げた。
僕は鏡花が倒れていた場所から、数メートル離れた床の絨毯の端を指さす。そこには光の反射でようやく見える程度の、極めて細かい、薄い灰色の砂のようなものが付着していた。
その砂を指先に微かに取り僕は匂いを嗅いだ。
「なんの変哲もない、土のような匂いだ。だけど邸宅の中では明らかに異物だよな」
そう言葉にした瞬間、僕の記憶は雫にメモを渡したこと、砂の匂いを嗅いだこと、そして橙馬宗一郎が僕を見ていたことにノイズを走らせる。
「んんん、僕はなにをしているんだ?」
僕は手の平を見つめた。そこには灰色の微細な粉が付着している。すぐさま金城警部補が怒鳴る声が聞こえた。
「夜凪! 勝手に動くな!」
雫が僕にメモ帳を差し出した。
「あなたはこの砂粒について、今から私に尋ねるつもりだった。たった今嗅いだばかりの砂粒についてね」
僕はメモ帳を読む。
【砂粒。ハーブティーのカップの傍。絨毯。土の匂い。異物。誰が持ち込んだ?】
なるほどね。僕は今、この砂粒について知ったばかりなのだ。この砂は閉ざされた箱庭に外部からの、なにかを持ち込んだ犯人の痕跡かもしれない。朝霧玲音が僕の傍に近寄ってきた。
「夜凪くん。その砂粒、私も気づいていた。私の美学に照らせば、それは隠された真実を暗示する舞台上の小道具だ」
「小道具?」
「ええ。単なる毒物事件で終わらせるには、この舞台はあまりに豪華過ぎる。君の忘却と僕の直感は、この先に第二幕が用意されていることを予感していますよ」
朝霧の言葉が奇妙な予言のように響いた。そしてその予感は、すぐに現実のものとなる。
金城警部補が招待客たちへの聴取を一旦中断し険しい顔で電話を切った。
「馬鹿な」
彼の低い唸り声がギャラリーに響き渡る。
「おい、全員聞け! 事件が起きた。もう一件だ!」
その後、電話の内容を僕たちに伝えた。
「この館の離れにあるアトリエで、招待客の一人が縊死体で発見された。どうやら自殺に見せかけた殺人のようらしい。被害者は美術評論家の橙馬宗一郎だ!」
僕のメモ帳に書かれた【橙馬宗一郎:第一容疑者レベル:初期高】の文字が一瞬で被害者へと書き換えられる。
「ほら見ろ、夜凪くん。第二幕の始まりだ。そして観客席は我々、舞台上の共犯者たちだけだ」
朝霧は満足げに微笑む。
僕は再びペンを握り締め、メモ帳に記憶を書き記した。この衝動的な展開を、絶対に忘れてはいけない。忘却の波が来る前に舞台の脚本を記録しなければ。
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