忘却探偵の箱庭遊戯
御厨あると
第一章 1 忘却の切断面
僕は自分自身の頭が信用できない。
これは比喩でも謙遜でもない。肉体的な、あるいは器質的な欠陥だ。数分前の会話、立ち寄ったコンビニの場所、朝食になにを食べたか。それらが劣化したビデオテープのように、突如ノイズに塗れて消滅してしまう。専門医は「軽度の、しかし極端な短期記憶障害」だと冷たく診断書に記した。
だから僕の人生はメモで出来ている。
いつも持ち歩くA5サイズのリングノートと、そこから派生した無数の付箋、スマートフォンに残された音声記録しかりだ。これらが僕の「記憶の図書館」であり、夜凪零という自我を辛うじて繋ぎ留める生命維持装置だ。
「零くん、もう一度確認するけどさ。柊鏡花さんという画家の集いへ参加する。招待状は私が保管している。時間は今夜の七時。場所は箱庭館。最寄りの駅からタクシーで二十分の人里離れた洋館ね」
隣席に座る七瀬雫は平板な声でそう告げた。彼女は僕の幼馴染であり、僕の記憶障害を補佐する唯一の「秘書」だ。僕が書き殴った膨大なメモを整理し、必要な情報を必要なタイミングで差し出す生きたデータベース。そして僕が世界に対してかろうじて維持している、数少ない感情的な繋がりの象徴だった。
「ああ、ありがとう雫。確か柊鏡花は例の忘却連作を発表する予定の、あの耽美系の画家だっけ?」
僕は記憶を探る代わりに雫へ確認する。雫は表情一つ変えず、僕のスマホの画面をタップした。そこには数時間前に僕自身が作成したはずのメモが表示されている。
『柊鏡花(27):油絵画家。忘却をテーマにした新作お披露目。招待理由は「君の忘却が芸術のヒントになるから」とのこと。皮肉めいた言い方だが悪意はなさそう。警戒レベル:低。会場:箱庭館』
「まったく、僕ってやつは」
自嘲気味に呟き僕は口の端を吊り上げた。この皮肉屋で厭世的な視点だけは、不思議と忘却の波に洗われることなく、はっきりと僕の意識にへばりついている。僕の記憶が「連続した僕の物語」を失った代わりに手に入れた、ある種のギフト「冷めた観察眼」だった。
人々は僕を「忘却探偵」と呼ぶ。
探偵ごっこをしているわけではない。だが、僕の記憶は常にリセットされる。だから目の前で起きている事象も、出会う人間も常に初見となるのだ。昨日得た情報も一時間前の印象も、僕にとっては即座に失われた過去になる。
それはつまり、僕は固定観念や先入観そして感情的な結びつきといった、推理を鈍らせるすべての枷から解放されているということだ。事件現場にいる人々を、僕は常に容疑者として、物語の断片として、平等に観察することができる。
しかしその武器は同時に最大の弱点でもある。
僕が今、なにを考えていたか? 犯人は誰か? その結論にどう辿り着いたのか? それすらもすぐに忘れてしまうのだから。
「零くん、メモは欠かさないでね。特に今夜は複雑な人間関係が予想されるんだからさ」
雫がタクシーのカーナビが示す目的地を指差しながら言った。
「招待客リストによれば少なくとも十一名。美術館関係者、ライバル、主治医、そして元アイドル。全員が鏡花さんという箱庭の住人だね」
僕の視線はカーナビが示し始めた、鬱蒼とした森に隠れるように建つ、異様な洋館の俯瞰図に固定された。
「忘却が芸術のヒントになる――ね」
僕たちはタクシーを降りて、巨大な洋館の門前に立っていた。門柱には蔦が絡まり、まるで時間が停止したかのような、退廃的で耽美的な雰囲気が漂っている。なるほど箱庭館とは言い得て妙だ。外界から切り離された、自己完結した世界である。
邸宅の内部は外観のイメージとは裏腹に、極めてモダンな設備が整っていた。鏡花自身の絵画がいくつも飾られた、だだっ広いギャラリースペース。そこで僕たちは集いの参加者たちと顔を合わせた。
「ああ、あなたが夜凪零さんですね。お待ちしておりました」
最初に声をかけてきたのは、白いタキシードに身を包んだ、派手な私立探偵――朝霧玲音だった。三十代前半で自信家。僕を見る目が面白くない玩具でも見るかのような、微かな侮蔑と悪戯な好奇心に満ちている。
「柊鏡花さんから、あなたの噂を聞いていましたよ。忘却探偵、面白い呼び名だ。記憶を失うことで真実に近づく。逆説的で実に美学に溢れている」
「残念ながら美学なんて高尚なものではないですよ。ただのハンディキャップを、誰かが面白おかしく名前を付けただけです」
僕は即座に返す。皮肉は僕の防御反応だ。
「謙遜を。私はこの集いの監視役として呼ばれました。芸術という名の異常が、どんな事件という名の芸術を生み出すのか。それを傍観し、必要とあれば介入する。それが私の美学です」
朝霧は僕のメモ帳を一瞥し鼻で笑った。
「そのメモ帳。君の唯一の武器にして最大の弱点ですね。私が君より優れている点は、記憶と直感、その両方を持っていることだ。君の忘却は私の推理に切断面を与えるには面白い材料だが、物語を完結させるには脆過ぎる」
僕が言い返す前に雫が小声で耳打ちした。
「零くん、彼が私立探偵の朝霧玲音さん。鏡花さんとは以前からの知人で、零くんをライバル視していると招待状にメモがあるよ」
そのメモを指でなぞりながら、僕は朝霧を改めて見据える。彼は僕にとって今この瞬間に初めて出会った「面倒な男」に再構築された。
「……そうですか。あなたのような美学に拘る人は、事件が起きなければ、ただの迷惑な傍観者で終わりますね」
朝霧は目を細めたが、それ以上はなにも言わなかった。僕の冷たい視線が彼の美学を少しでも乱したなら十分な成果だ。
その後、僕たちは主催者である柊鏡花と対面した。
二十代後半にしては幼く見える、耽美的な美貌の持ち主だった。華奢な体躯を真っ白なワンピースに身を包み、まるで館に飾られた絵画から抜け出してきたような非現実的な存在感。しかしその瞳の奥には、張り詰めた糸のような脆さが見え隠れしていた。
「ようこそ、夜凪さん。あなたの忘却は私が追い求める真実の姿なのです」
鏡花は静かに微笑んだ。
「人は忘れることでしか前に進めない。でも芸術は忘れ去られたものを執拗に引きずり出す。今夜、その二つを融合させたいのです」
彼女の周りには既に数名の招待客が集まっていた。
社交的だが目の奥が笑っていない元アイドルの黒須茜――現在はアクセサリーデザイナーらしい。物腰は穏やかだが鏡花への執着が見える主治医の白石蓮。終始無言で鏡花の後ろに控える執事の灰谷哲也。まるでこの館の影そのもののようだ。
そして見るからに傲慢な態度で、周囲を威圧する美術評論家の橙馬宗一郎が、鏡花の新作の前に立ち腕を組む。
「柊君、忘却というテーマは良い。だが君のこの連作は、その実、逃避ではないかね? 本質から目を逸らし、ただ美しい言葉で飾る。君の画業は、いつもその繰り返しだ」
橙馬の挑発的な言葉に、場の空気が凍り付いた。鏡花の表情が一瞬で強張る。
「橙馬先生、それはあまりに酷評では?」
黒須茜が慌てて口を挟んだ。
「酷評ではない、純然な事実だ。芸術に逃げ場はない。柊君、君は君自身の忘れたい過去から未だに逃げている」
橙馬の辛辣な言葉は単なる美術批評の域を超え、まるで鏡花の個人的な痛い部分を抉り出すかのようだった。
眼前で繰り広げられる、この人間関係の剥離。僕は無意識のうちにペンを取りメモ帳に書き綴る。
【橙馬宗一郎:傲慢。鏡花の過去を知っている? それとも鏡花を精神的に追い込んでいるだけか? 第一容疑者レベル:初期高】
その数分後。
なぜ橙馬宗一郎という男が、鏡花にこんなにも敵意を向けているのか、僕はすっかり忘れていた。ただメモ帳に書かれた「初期高」の文字だけが、僕の推理の羅針盤として残っている。
「まるで誰かの悪意を待っているかのような奇妙な集いだ」
僕は隣に立つ雫に囁いた。
「そうだね。そして、零くん。あなたはいつも通り誰よりも早く、その悪意を忘れてしまう。それがあなたの役割なのよ」
集いの開始から一時間後。
事態は僕の予測、あるいは僕の忘却の域を超えて急転直下する。
鏡花が自作の絵画を背に、来場者へ向けて言葉を発している最中だった。彼女は唐突に口元を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。その手には先ほど彼女が飲んでいた、華やかなハーブティーのカップが握られている。
彼女は誰もいない空間を指差し、喉から絞り出すような声で呟いた。
「あ、あいつが……誰かが……私を……」
白く美しい床の上に、ゆっくりと崩れ落ちた。
集いの雰囲気が一瞬でミステリーのそれに変貌した。まるで誰かが用意した舞台装置のように完璧なタイミングで。
メモ帳を握り締めながら、僕はその光景を観察した。記憶がリセットされるまでの、カウントダウンが始まったことを皮膚で感じながら。
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