3 密室と忘却の砂

 橙馬宗一郎の死。第一の事件である鏡花の毒殺未遂から、わずか一時間も経たない出来事だった。


 僕の目の前で起こった劇的な展開に、招待客たちは再びパニックに陥った。金城警部補の怒号が響き捜査員たちがギャラリーから離れのアトリエへと急行する。


「夜凪くん。これは君の言う『探偵ごっこ』の範疇を超えていますよ」


 朝霧玲音は心底楽しんでいるかのように微笑んだ。彼にとって事件の猟奇性や劇場性が増すことは歓迎すべき事態なのだろう。


「ええ、超えていますね。そしてこの状況は僕の記憶障害にとって最悪です。一瞬の情報を逃せば僕は彼がなぜ死んだのか、誰が殺したのか、永遠に初見の疑問として抱え続けることになる」


 僕は素早くメモ帳を開き雫に言った。


「橙馬の死体を初見として観察するために現場へ行こう。僕が彼の顔を前にして忘却しても雫が状況を説明すればいい。これが僕たちの共犯関係だ」


 雫は無言で頷き僕を促した。金城警部補の制止を無視し、僕たちはアトリエへ向かった。


 アトリエは母屋から少し離れた独立した建物で、鏡花の制作の場として使われているようだった。扉は施錠されていなかったが、内部は完全な密室と化していた。窓はすべて内側からきっちりと鍵がかけられ、換気用の小さな高窓も閉まっている。


そして、その中央に。


「うげ」


 僕は思わず声を出した。橙馬宗一郎はアトリエの天井から吊り下げられた太いロープに首を括られ縊死していた。彼の足元には不安定な木製のイーゼルが倒れている。自殺に使われたと思われるロープは、彼の体重を支え切れず、首に酷く食い込んでいる。


 金城警部補が凄まじい形相で僕たちを睨む。


「お前たち! なにをやっている! 現場を荒らすな! 逮捕するぞ!」


「失礼。証拠にはなにも触れていません。ただ僕の記憶がリセットされる前に、この現場を記録しておく必要があるんです」


 僕はメモ帳を広げた。


【橙馬宗一郎、縊死体。アトリエ内。窓、扉、すべて内側から施錠。密室。足元に倒れたイーゼル】


 そして僕の視線は橙馬の足元に置かれた奇妙なものに釘付けになった。


「あれは?」


 鏡花がギャラリーで展示していた連作の一つ、忘却:第一断片のキャンバスの一部だった。ナイフで乱暴に切り取られたように酷く歪んでいる。その破片が橙馬の足元に、まるで遺書のように置かれていた。


「自殺に見せかけている、というより、演出しているようですね」


 朝霧玲音が静かに呟いた。


「鏡花の絵画を足元に置くことで、彼は自身の酷評に絶望した、というストーリーを構築している。しかし縊死する者が、わざわざ絵を切り裂き、綺麗に置くでしょうか?」

「しかもその絵は先ほど鏡花が毒を盛られた際に背にしていた作品の一つだ」


 僕は橙馬の遺体に近づいた。彼の首に食い込んだロープの痕、彼の表情、そして彼の握り締めた手の中に、なにかがあることに気づいた。


「なにか握っているようだ」


 雫は近くの捜査員に確認を取り、手袋越しに橙馬の手を開かせるよう指示を出した。そこには奇妙な小さな鍵と、なにかの結晶のようなものが握られていた。


【現場の発見物:1、鏡花の絵画破片(第一断片)。2、小さな鍵。3、透明な結晶】


 僕はこの結晶に、どこか既視感を覚えた。


「ああ、駄目だ。この既視感こそが僕を惑わすんだよな。この結晶がなんだったか、僕はきっと忘れている」


 僕は急いでその結晶をメモにスケッチする。


「零くん、あなたは五分前にこの結晶に砂の記憶を重ねていたよ。それからハーブティーという言葉を発していたかな」


 僕は雫の言葉をメモに追記する。


【結晶≒砂粒。ハーブティーとの関連性は?】


「つまりこの結晶は鏡花を毒殺しようとした毒物と関係しているということか?」


「わからない。でも零くんがそう推理しようとしていたと記録されてるよ」


 この結晶は鏡花への毒と橙馬の死を結びつける、唯一の物理的な繋がりになるかもしれない。


 金城警部補は現場検証を部下に任せ、苛立たしげにギャラリーに戻ってきた。彼は僕たち招待客を再び集め厳しい視線を浴びせた。


「いいか、これは殺人事件だ。そして犯人はこの中にいる。柊さんが毒を盛られた後、誰かが橙馬を殺しに向かった。アリバイのある奴はいるか!」

「誰もいませんよ、警部補」


 朝霧玲音が得意げに言った。


「全員がギャラリーにいた。しかし鏡花さんが倒れてから救急車が到着するまでの、あの混乱の時間、誰がどこでなにをしていたか正確に証明できる者はいません」


 その通りだ。混乱は常に犯罪者の共犯者となる。僕は招待客たちの顔を一人ずつ観察する。恐怖、動揺、そして「これで終わった」という安堵のような複雑な感情を浮かべている。


 黒須茜は指先でアクセサリーのブレスレットを弄んでいる。彼女は鏡花が倒れた際、最も冷静に指示を出していた。その冷静さは状況を把握していたからか、それとも犯行を終えていたからか?


 白石蓮は沈痛な面持ちで立っている。主治医として鏡花に近しい彼は、毒物の知識も、鏡花の行動パターンも知っていたはずだ。


 翠川紗希は目に涙を浮かべている。師を酷評した橙馬の死に哀悼の念ではなく、ある種の解放感を抱いているように見えた。


「橙馬先生は本当に酷い人でしたけど……まさかこんなことになるなんて」


 翠川の声は震えていた。僕は尋ねる。


「君は彼の死を悲しんでいるのか?」

「悲しいというより……寂しい。先生の絵に対する厳しい視点が鏡花先生の支えでもあったんです。批判を忘却することで先生は創作を続けていた」


 僕の頭の中で忘却という言葉が再び響く。


「鏡花が毒を盛られたことと橙馬が殺されたことの関連性はなんだと考える?」


 翠川は僕の真っ直ぐで先入観のない(なぜなら僕は数分前の会話を忘れているから)質問にたじろいだ。


「え……それは……先生を苦しめる者を誰かが排除したとしか?」


【翠川:動機は師への献身か師の忘却を奪うことか?】


 そのとき執事の灰谷哲也が、静かに金城警部補に声をかけた。


「警部補。橙馬様が縊死されたアトリエは、日頃、鍵がかかっております。鍵はこの館の全施錠箇所と連動したマスターキーでのみ開閉可能です」

「マスターキーはどこにある?」

「柊様が常に保管しておりました。しかし柊様は今、病院へ搬送されています」


 この情報は僕にとって極めて重要だった。密室の鍵となるマスターキーは、現在、病院にいる鏡花の手の中にある。つまり橙馬を殺害した犯人は、マスターキーを必要とせずに密室を作り出すか、あるいは既にマスターキーを手に入れたことになる。


【密室の鍵:マスターキーは鏡花所持(病院)。犯人はマスターキー以外の方法で密室を成立させた。あるいはマスターキーを既に所持】


 僕のメモが重要な情報で埋め尽くされていく。ふと橙馬の手に握られていた小さな鍵を思い出す。


「灰谷さん。そのマスターキーは小さな鍵ではないですよね?」


 灰谷は首を横に振る。


「マスターキーはもっと大型で持ち主以外には見分けのつく特殊な形状です」


 では橙馬の手に握られていたあの小さな鍵は一体なにを開けるものなのか? そして鏡花に毒を盛り、橙馬を殺した犯人は、どのようにして密室を成立させたのか?


 僕は再び頭の中で忘却の扉が開く音を聞いた。目の前の情報が急速にノンセンスなものへと変わり始める。


「雫、僕は今なにを考えていた?」


 僕は数秒で灰谷との会話の内容を忘却していた。雫は僕のメモ帳を指差して説明する。


「零くんは鏡花さんが倒れた際に誰かがマスターキーを盗み出した可能性、そして橙馬さんが握っていた小さな鍵は、そのマスターキーを隠す場所を示している可能性を考えていたみたい。あと砂粒と結晶は二つの事件を結びつける毒の成分そのものだってさ」


 僕は雫の話を誰かの小説の要約のように聞く。なるほど、僕はそんなことを考えていたんだな。


 しかし僕の視線は再びギャラリーの床の一点に戻る。鏡花が倒れた場所に僕が最初に気づいた灰色の砂粒。この砂粒こそが鏡花への毒殺未遂と橙馬の密室殺人、そして僕の忘却を結びつける舞台の核心なのだ。この砂粒は箱庭に仕掛けられた忘却の装置そのものに違いない。

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