大怪獣異世界にあらわる
味噌煮込みポン酢
大怪獣異世界にあらわる
王都は疲弊していた。
北境での戦は、もう三年にも及ぶ。
北の蛮族──そう呼ばれてきた北国の戦士たちに王国は連戦連敗。
かつて豊かだった王国領の半分はすでに北国に収奪され、城壁の外には難民が溢れていた。
「……なぜこうなったのかしら」
王国の王女リュミエールは、議場の窓辺に立っていた。
戦況報告を並べる老臣たちの声は遠く、彼女の目は北の地平を見ていた。
本来ならば、この戦は起きるはずがなかった。
リュミエールが進言した富国策──北方の魔獣生息地を掃討し、新しい開拓地を切り開く。
そこまではよかった。
だが、掃討を逃れ手傷を負った魔物たちは北の地へと逃げ込み、かの国の民を襲った。
結果、報復として北の軍が進軍を開始したのだ。
背後で、王が呻くように呟く。
「もう後がない。城壁を抜かれれば終わりだ」
「援軍は?」
「東の同盟は沈黙。南はすでに交易を絶った」
重苦しい沈黙が議場を支配した。
その中で、王女が一歩前に出る。
「──わたくしに策があります」
静かな声だったが、誰よりも強かった。
「勇者様を召喚いたしましょう。この国を救うために」
「な……リュミエール、それは禁忌だ!」
老宰相が立ち上がる。
「古文書には『無用な異界召喚の儀は神々の怒りを買う』と──」
「知っております」
王女は微笑した。
その笑みは、絶望を押し殺した確信の色をしていた。
「ですが、これは我が国の危機。神々もお許しくださるはずです。
勇者様は必ずこの世界を救ってくださる。そう信じています」
「リュミエール!」
「お父様。……どうかご安心ください。準備だけ、です」
王女は深く一礼した。
「明朝には、きっと良い報せを」
彼女が去ったあとも、王の胸には言い知れぬ不安が残った。
だが、誰もそれを口にはしなかった。
*
「準備の進み具合はどう?」
祭壇脇の影が、細い笑みを零した。
黒衣の術師――宰相の側近と噂される男が、古びた写本と改良図を胸に抱えていた。
灯りが傾くと、その目だけが、爬虫のように冷たく光る。
「万全でございます、王女殿下」
男の声は滑らかで、確信に満ちていた。
彼が掲げた図面には、召喚陣の一文字ごとに細密な注釈が加えられ、
旧制御式を覆うように、新たな線が幾重にも刻まれている。
「余計なものはすべて排除し、『強大な存在をこの地に呼び出す』という一点のみに特化いたしました」
リュミエールはその図を一瞥して、ゆっくりと微笑した。
恐れはなかった。あるのは、自らの理を信じる確信だけ。
「神々など馬鹿らしい、使える手段があるなら勝利を選ぶべきよ。
国を守るのは理想じゃない、『力』よ」
「お見事です、殿下」
術師は恍惚とした笑みを浮かべ、図面に指を走らせた。
「鍛えねば戦えぬ者、平和を唱える者など不要。
呼び寄せるのは、戦場を一蹴し、国をも相手取れる存在――それだけです」
「それでいいわ」
リュミエールの声は、静謐にして冷酷だった。
「これで我が国は勝つ」
術師は深く頭を垂れ、満足げに囁く。
「では、すべては今宵。勝利をあなた様へ」
リュミエールは目を閉じず、燃え立つ魔法陣を見据えた。
白金の髪が揺れ、蒼白の炎が彼女を包む。
詠唱は高まり、紋様が震える。
その顔に、畏れも迷いもなかった。
あるのは確信のみ。
――己こそがこの国の未来を導く者であるという、冷たく揺るがぬ信念だけだった。
*
夜。地下祭壇では儀式が始まっていた。
詠唱が極点に達した。
空気がきしみ、光が形を持ちはじめる。
リュミエールは、まるで自らが世界を創り出すかのように手を掲げた。
「これでいい――」
唇から漏れたその声は、確信と歓喜に満ちていた。
次の瞬間、光が反転した。
祭壇の中心で、青白い輝きが裏返る。
詠唱が崩れ、炎が逆流し、空気が震えた。
床の魔法陣が音を立ててひび割れ、黒い隙間が走る。
司祭たちが悲鳴を上げ、炎の中に吸い込まれていった。
*
そのころ――地上では、王が杯を手にしていた。
執務室には、夜更けの蝋燭の灯が揺れている。
窓の外では、戦の報せを運ぶ鐘の音が、低く響いていた。
「……まだ眠られぬのですか、陛下」
入ってきたのは宰相だった。銀糸のような髭を撫で、静かに盃を置く。
「眠れるものか」
王は、苦く笑った。
「北境の報告書を読んでいた。――敗走だ。もう何度目になる」
宰相は言葉を選びながら視線を伏せた。
「民も兵も疲弊しております。陛下も……」
「疲れているのは皆同じだ」
王は手元の地図を指で押さえた。
「だが、我々がここで止まれば、この国は本当に終わる」
短い沈黙。
酒を注ぎ足す音だけが、部屋に満ちた。
「……王女殿下のことを考えておられるのですね」
宰相の声には、わずかな棘があった。
「王女殿下は聡明でございます。ですが、聡明すぎる者ほど、己の理に酔うものです」
王は盃を傾け、低く笑った。
「お前もそう思うか。――あれを、育て方を誤ったのだろうな」
「陛下が責められることではありません。ただ……あの方は、止めねばなりませぬ」
「止める?」
「ええ。自分の正義は世界の正義と信じていらっしゃる。」
宰相の声が少しだけ強くなる。
王は長く息を吐き、盃を置いた。
「わかっている。だが、今さら父として何ができよう」
そのとき――床が震えた。
盃の中の酒が波紋を描き、壁の、天井の魔道照明が一斉に消えていく。
「……なんだ?」
「陛下。これは……」
外から、重い鐘の音が鳴り響いた。
それは警鐘だった。
続いて、窓の外の空が一瞬、白く光る。
「報告!」
王の声に、扉を蹴るように兵が駆け込んできた。
顔は蒼白で、声は震えている。
「報告です! 地下神殿で――王女殿下が……!」
言葉はそこまでだった。
次の瞬間、地鳴りが城を貫いた。
机が跳ね、燭台が倒れ、壁が裂ける。
王は立ち上がった。
「リュミエール……お前、まさか……!」
城全体が軋み、天井が崩れ始めた。
遠くで、人々の悲鳴が重なり合う。
*
大理石の床が陥没し、裂け目の奥から闇が滲み出す。
王都全体の魔力がざらつき、魔法照明が次々と消えていく。
「な、何、どうしてこんな……!?」
「王女、退避を!」
かろうじて残った兵士が声を上げた。
その直後、空気が爆音とともに裏返る。
──黒い『壁のようなもの』が現れた。
最初、それを誰も『足』だとは思わなかった。
あまりにも巨大で、あまりにも異様だった。
壁のような黒い面が祭壇の中央に立っている。
それがゆっくりと傾いた。
轟音。地鳴り。天井が悲鳴を上げる。
「嘘よ、私は、間違ってな──」
王都の中央で、王城が爆ぜた。
白亜の尖塔を押しのけるように、内側から黒い何かが突き上がる。
尖塔の残骸を見下ろすほどの巨影が、ゆっくりと立ち上がった。
地鳴りが街を貫き、空気が震える。
その巨体が息を吐いた瞬間、雲が流れを変えた。
城下の兵が崩れ落ちる。
誰もが見上げ、言葉を失った。
まるで空そのものが、形を持って立ち上がったかのように。
瓦礫が雨のように降り注ぐ。
逃げ惑う兵士たちの頭上に、崩れた天井が落ちる。
血飛沫が舞い、光がかすむ。
崩れ行く王城の中を落下しながら王は見た。
崩れた地下神殿の中、瓦礫に埋もれ、腕だけを突き出した王女を。
天井が裂け、光が差し込む。
そこに見えたのは、巨大な影。
黒い外殻のような皮膚、塔を超えてそびえる輪郭、
──この世の理を拒む存在。
「リュミエール……これが……勇者……」
王は血まみれのまま、ただ見上げて呟いた。
次の瞬間、王も、姫も、城も、すべてが瓦礫の中に呑まれた。
*
深い夜の底。
北の丘陵に陣を張っていた北国の戦士たちは、遠くの王都の空に光を見た。
夜明けではない。南の王都の方角が、黒く、鈍く光っていた。
それは夜でも闇でもなく、世界そのものが拒絶したかのようだった。
「……見たか? あの光を」
「魔導か? いや、違う……もっと深い、地の底のような、色のない光だ」
闇の中でなお白い城の塔がゆっくりと傾く。
まるで、自ら崩れ落ちていくかのように。
「……爆発か?」
「違う。崩れている……」
『それ』は城を押し上げ、夜を塗りつぶした。
尖塔の残骸を見下ろすほどの巨体が、王都の火の手に照らされてあらわになる。
「……なんだ、あれは……?」
『それ』が一歩、歩いた。
今まで北国を寄せ付けなかった城壁が内側から蹴散らされるように爆ぜ、足が現れた。
地響きが丘を越えて押し寄せ、地面が波のようにうねる。
騎兵が倒れ、戦鼓が転がり落ちた。
「怯むな! 攻撃開始!」
号令が走り、数千の矢が放たれる。投槍が雨のように飛び、魔導弾が空を裂いた。火球が弾け、稲妻が束となって落ちる。──だが、『それ』は止まらなかった。
黒い肌の表面で、すべてが弾け、煙となって散る。
火も、刃も、雷も、跡ひとつ残さない。傷どころか、煤の汚れすらつかない。
「……当たってる! なのに……!」
「効かない……? そんな馬鹿な──!」
『それ』が顔を上げた。まだ顔の造作は見えない。だが確かに目が合った。
空気が、一瞬止まる。
「飛竜隊、出撃!」
将の号令で、空へ二十騎の竜が舞い上がる。炎を吐き、黒い巨影へ突進する。
『それ』は、ただ尾を振った。
風が爆ぜ、塵が視界を埋める。次の瞬間、騎竜隊は跡形もなかった。
翼も、鞍も、炎も──すべて霧散した。
『それ』が歩く。足が地を踏むたび丘が沈み、尾が地を掃くたび軍列が吹き飛ぶ。兵も馬も、泥のように弾き飛ばされた。
「下がれ! 退け──!」
その叫びを最後に、前線は崩壊した。
そこで起こったことは、もはや戦争ではなく『災害』だった。大地が沈み、丘が裂け、数千の軍勢が、一匹の『それ』によって消えていった。
*
やがて、東の空がようやく白みはじめた。
先行隊は壊滅した。生還したわずかな者が、王都の崩落を報告した。
幕舎には、焦げた旗と、泥にまみれた甲冑が持ち込まれている。
長の一人が、灰混じりの手で杯を握りしめたまま沈黙する。遠くでは、王都の方角がまだ赤く燻っていた。
「……王城は、落ちたのか?」
「いや。崩れた。理由は分からぬ」
「何を言っている。城を落とす前に、どうして──」
若き将が言いかけ、年長の将が遮った。
「生き延びた者の話では、城が内側から潰れたという。そこから現れた何かに先行隊が一掃されたと伝わる」
その声には怒りでも恐怖でもなく、ただ現実の冷たさがあった。
「我が隊は跡形もなく消えた。あれは敵ではない……災いそのものだ」
片腕を失い、頭に包帯を巻いた長が呻いた。
幕舎の空気が固まった。誰も息を呑む音すら立てない。老導師が杖を床に突き立て、ゆっくりと立ち上がる。灰色の髭が揺れる。
「このまま放っておけば、『それ』我らの国を踏み潰す。民も、家も、種も──」
その声は低く、しかし揺るぎなかった。
長の一人が顔を上げ、瞳に決意の炎を灯す。
「ならば……最後の術を使う。この地が焦土となろうとも、奴をここで止める」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。沈黙はやがて詠唱へと変わる。命を賭すか、滅びを受け入れるか。──もはや、選択の余地はなかった。
*
『それ』は北国の陣目指して歩き始めた。
小山のような『それ』が辛うじて見える位置に来た時、 北国の魔導師団が陣を張った。
円陣が十重に組まれ、詠唱の声が大地を震わせた。
杖を掲げた魔導師が、天を仰ぐ。
「天よ聞け、星々よ応えよ──」
声が重なる。空が震え、昼が夜に変わる。
光が収束し、虚空の一点に紅い輝きが生まれた。
空が裂ける。星が、落ちてくる。
まだ遥かかなたのそれに空気が焼け、山が照らされる。
兵士たちは歓声を上げた。
「これならひとたまりもあるまい!」
──その瞬間、『それ』が顔を上げた。
背の棘が青白く光を帯び、静寂が訪れる。
誰もが息を止めた。
地が鳴り、口が開く。
落ちてくる星へ向かい強く踏み込む。
大地を揺らしながら、その口から青白い光が天へと伸びた。
光の柱が空を貫き、落ちてくる星を飲み込む。
音はない。ただ、光だけ。
まるで最初から存在しなかったかのように。
風が流れ、誰かが震える声で呟いた。
「……消えた……? 星が……?」
『それ』が、ゆっくりとこちらを見た。
天を仰いだまま、息を吸い込む。
青白い光が喉奥に集まり、口端から漏れ始める。
「退避! 退──」
光。
丘も、陣も、声も、空も。
すべてが、白に飲まれた。
以後、この地に人の影が戻ることはなかった。
その名を記す史書も、やがて塵と消えた。
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