私とあなたの62日間生活
さぬかいと
はじまり
時計の針が、チクタクと鳴りながら今を刻む。
一人で暮らす部屋には音を遮るものがないので、それは予想以上に大きく聞こえていた。
私の背後にある掛け時計に気を取られながら、今度はノートの上でペンを走らせる。
しかし、その動きは不規則で時折止まったりもしていた。
宿題に取り掛かって既に三十分経過しているが、筆の進みは悪く手が止まる度に辺りを見回しては近くにある漫画に手が伸びそうになる。
その誘惑に負けないように向き合おうとしてみたが、返って他のものに目が行ってしまい、自身の集中力のなさに深いため息と共に背もたれに大きく寄りかかっていた。
「ダメだ。全然進まない」
新生活が始まって二ヶ月、最初の頃は新しい環境で頑張ろうと意気込んでいたが、今までの人生で勉強が得意だった試しがない。
それでも高校受験の時は第一志望に受かりたくて必死になって机と向き合っていたが、身に染みた苦手意識は簡単に離れることなく、こうして同じことに悩まされる羽目になっていた。
椅子にもたれた勢いで残っていた集中力は完全に飛び去ってしまい、とうとうペンからも手を離してしまう。
こうなると再開するまで時間がかかることは私自身がよく理解しているので、そのまま休憩と称してベッドに横たわっていた。
シーツの敷いたマットレスに顔を埋めてから、ふと何気なしに顔を上げる。
目に映る掛け時計の時刻は、二十一時十五分を回っていた。
「……今頃、どうなっているのかな」
彼女が喋り始めてから、しばらく経っている。
今日は雑談をするとSNSで呟いていたけど、そこまで話すことが得意でないことは知っているので、ちゃんと場を盛り上げられているのか勝手ながら心配になっていた。
ちゃんとコメントに反応しているのだろうか。
話が途切れて沈黙が続いていないだろうか。
それらは過去に何度かやらかしてしまっていることなので、一度気になるとますます彼女が脳裏から離れず、勉強へのモチベーションはますます下がるばかりだった。
こんな状態では集中など到底出来るはずもない。
それがわかるや否や、近くに置いてあるスマホを取る。
「これは息抜き」
怠惰な自分に対する言い訳を口にしてから、動画配信サイトへアクセスしてお気に入りのチャンネルから『東雲しあん』を選んで配信ページへ移る。
すると、画面の真ん中には猫耳をつけた女の子のアバターが左右に揺れながら、辿々しい口調で話をしていた。
今のトーク内容は、好きな料理についてらしい。
自分の心配とは裏腹に楽しそうな声が聞けて、今のところは順調にトークが出来ている事にほっと胸を撫で下ろしていた。
その様子に安心すると、スマホを慣れた手つきでスワイプして挨拶文を打ち込んで送信する。
送ってすぐに、彼女はそのコメントに反応を示してくれた。
「Suiさん、こんばんは〜」
私の打ったコメントを読み上げながら、画面越しに手を振ってくれた。
Suiは私のハンドルネームで、名前の「翡翠」から取っている。
配信している彼女と比べると至ってシンプルな名前ではあるが、情報集め程度にしかネットを使っていないので必要以上にこだわる必要もなかった。
そんな私が、こうして配信者の活動を定期的に見に行っている。
特別トークが面白いわけでもなければ、ゲームや歌が特別上手いわけでもない。
それ以外で、何か特技を持っているわけでもなかった。
ネットで探せば何処にでもいる至って普通のVtuberといったところで、チャンネル登録者も五十人を上回ったことがなく、毎回の配信も大して盛り上がっているわけでもなかった。
じゃあ、彼女の何に惹かれて毎回こうして配信に来ているのだろうか。
その問いかけに、明確な答えは今まで考えたことはない。
ただ、画面越しに手を振ってくれることに微笑む私がいることは確かだった。
私とあなたの62日間生活 さぬかいと @stone_89
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