創造神の記録 ―魂を宿す迷宮たち―

桃神かぐら

第1話 創造神の記録 ―魂を宿す迷宮たち―


※これは私が“書いた”ものではない。

……いや、書いたのだが、正確には思い出そうとして置き換えたものだ。

神は完璧ではない。少なくとも、私はそう作られていない。


——これは、世界を冷やす神が、その沈黙を記した記録である。



Ⅰ はじまりの欠伸


最初にあったのは音ではなく、上手に作られた沈黙だった。

そこに指を差し込むと、沈黙は紙のように裂け、光よりも先に埃が舞った。

——いや、順番を間違えた。光が先だ。けれど、埃の方が先に目立つこともある。

世界はそういう見落としの連続でできている。


私は境界を作った。

虚無と、虚無でないもの。

上と下。右と左。

それから、まだ付け忘れていた時間を、世界の襟元にピンで留めた。

ピンは少し曲がっていたが、まっすぐすぎる針は人の指を傷つけるので、これでいい。


「在れ」と言った。

声は風になり、風は皺になり、皺の谷間に水が溜まった。

そうして、世界は少しよれた服のように私の前に立った。

私は満足した。縫い目が出ているところが、特に気に入った。


……縫い目が出ているところが、特に気に入った。

けれど、ときどき思う。私はこの世界に少し嫉妬している。

世界は私より上手に、静けさを着こなすのだ。



間章:沈黙の温度/1


新しい世界の沈黙は、冷めかけのスープに似ている。

表面は静かだが、底にだけ熱が残る。

匙でそっと撫でれば、湯気が一筋だけ立ちのぼる。

創造の直後に必要なのは、味見ではなく、ただ置いておく忍耐である。



Ⅱ 心という名の火傷


私は“心”を作ろうとした。

火を分けるみたいに、火種を撒いた。

ひとつは湿って消え、ひとつは燃えすぎて灰になり、もうひとつは灰の中で歌った。

それを私は生命と呼んだ。後で呼び直した可能性もある。

名前はいつでも遅刻してやって来る。


世界は膨らみ、増え、あふれた。

私は忘れ物に気づく。

死。

生を作ってから死を思いついたのではなく、死を作ってから生を思い出したのかもしれない。

どちらにせよ、順序はたいして重要ではない。重要なのは、終わりがあることだ。


終わりを置くと、物語は歩き出す。

けれど、一部は歩かない。

歩くことを拒んだ生は、世界の裏へ沈み、穴になった。

穴はお腹を鳴らす。静かに。長く。

穴に落ちた物語は、形を失い、記憶だけが骨になって残る。



間章:沈黙の温度/2


初めての死は、世界の温度計になる。

誰も泣かない場所にも、涙は降る。

その塩分が、時間を防腐する。

私は拭わない。拭うと、学びが薄まるからだ。

……とはいえ、指先に残る塩の感触は、いつも少し痛い。

その痛みが、私をまだ人の形に近づけている。



Ⅲ 迷宮という保存食


私は、穴の中心に太陽の模造品を落とした。

核(コア)。

熱いのに冷たい、光るのに暗い、矛盾の果実。

コアは沈んだまま、低い子守歌を歌い始めた。

床はその歌に合わせて折り畳まれ、壁は歯を生やした。

——迷宮。

喰うためではない。残すための喰らい方を、私はそこに与えた。


喰らえ。ただし、還せ。

奪え。ただし、渡せ。

閉じろ。ただし、開け。

守れ。ただし、赦せ。


命令は四つだが、四つに見える二つでもある。

矛盾は魂を丸くし、丸い魂は転がって学ぶ。

角の取れた学びは、長持ちする。


私は気づいていた。

これは保存の術だ。

世界が腐らないよう、物語が酸っぱくなりすぎないよう、

迷宮は塩漬けと発酵のあいだに置かれた器である、と。



間章:沈黙の温度/3


瓶詰めを並べるように、私は迷宮を棚に置く。

季節が変わるたび、蓋を指で弾いて匂いを確かめる。

少しだけ酸が立ったときが、いちばん旨い。



Ⅳ 種を蒔く


ひとつでは足りない。

私はコアの種を作り、風に乗せて蒔いた。

風は私の指から離れ、夜の冷気を切り裂いていった。

砂は鳴り、雲は千切れ、海は鏡を裏返すように波を返した。


山の腹、海底の冷たい谷、砂の大陸の喉、森の心臓、そして空の裂け目。

それぞれの場所で、空気は違う匂いを放つ。

焦げた鉄。濡れた苔。潮のしぶき。

世界が呼吸するたびに、種の奥でかすかな音がした。


どの種にも、私の欠片を貼り付けた。

破れたポケットから出てきたメモの切れ端——みたいなものだ。

そこには、曲がった字でこう書いてある。


「祈りは、飢えを浅くする。」


正しくは「祈りは飢えを静かにする」だったかもしれない。

紙は雨に濡れて、にじんでいた。

だが、にじんだ言葉の方が、人はよく覚える。


夜が長くなるたび、種たちは夢を見た。

夢の中でまだ生まれていない訪問者の足音が響き、

その足跡のひとつひとつが、未来の祈りの形に似ていた。


私は息を潜めて聞いていた。

地脈の音は、胎内の鼓動に似ていた。

まだ誰のものでもない命のうたた寝。

手を伸ばせば壊れてしまいそうで、私はただ見ていた。



間章:沈黙の温度/4


種の眠りを乱すのは愚かだ。

私は時おり、土を撫でるだけにする。

手のひらに伝わる湿り気が、目覚めの順番を教える。



Ⅴ 魂という戻り火


私はひとつの魂を待っていた。いや、いくつも待っていた。

けれど、その中でもひとつだけ、最初に帰ってくる火がある。

それは、守れなかったという感覚でできている。


白い蛍光灯。紙の束。赤い印。動かない右手。

あの世界の、小さな破滅のにおい。


待つあいだ——私は観察した。

最初に“喰らう”ことを覚えたのは、人ではなく、小さな獣だった。

腹を空かせた影が、迷宮の入り口で嗅ぎ、警戒し、けれど一歩だけ踏み込む。

石の歯がかすめ、獣はひるみ、振り返り、再び進む。

彼らは頭でなく、胃袋で学ぶ。


やがて、獣は倒れ、迷宮はそれを静かに受け入れた。

血潮の温度が壁に移り、肉の記憶が床目へ沁みる。

返礼として、迷宮は獣の欠片を外へ押し戻す。

骨の形は変わり、匂いは薄まり、しかし“その獣であった証拠”だけは、石に刻まれて残った。


私はそこで、迷宮の倫理が動き出すのを見た。

喰らい尽くさないための喰らい方。

奪うことを、返すことで中和する手順。

それは拙いが、確かに学びだった。

——世界の胃が、知恵を持ち始めた瞬間だ。


そして、彼——人——の番が来る。

彼は自分のせいで世界が壊れたと思っていたが、世界はたいてい勝手に壊れる。

人がそれに間に合うことも、間に合わないこともある。どちらも真実だ。


私は、彼の火を器に落とす準備をした。

胸に宝玉を持つ人型の器。

歩けば回廊が伸び、祈れば部屋が生まれ、喰らえば残滓が資源に変わるように。


ガチャ? そう呼ぶ声も聞こえる。賭け札の束だ。

運と記憶と倫理を同じ袋に入れ、一回だけ振る。


魂の残滓は、金貨ではない。パン種に近い。

混ぜれば膨らみ、焼けば香る。

ただし、焦がすな。焦がした香りも悪くないが、焦がし続けると人は来なくなる。


私は少しだけ笑った。

焦がしの匂いは、懐かしい。

それは神の失敗の匂いでもある。

私は少し疲れた。続きは、あとで書こう。

……そう呟いても、沈黙は待ってくれない。



間章:沈黙の温度/5


最初の祈りは、たいてい下手だ。

言葉が足りず、声が震え、沈黙の方が長い。

だが、下手な祈りほどよく沁みる。

塩を一摘みだけ落としたスープのように。



Ⅵ “多”か“唯一”か


世界各地のコアは、まだ眠っている。

いくつかは目を開け、いくつかはまた目を閉じ、いくつかは夢だけを見ている。

人が数を問うとき、私は曖昧に頷く。


「ひとつかもしれないし、数え切れないほどかもしれない」


これは誤魔化しではない。

時間が数え方を変えるのだ。

今日ひとつだったものが、明日には無数で、明後日にはゼロになることもある。

世界はそのくらい気まぐれな砂時計を使っている。


君は言うだろう。「主人公のような魂は他にもいるのか」と。

私は答える。「君が目を伏せた隙に、もう一人落ちたよ」

——冗談だ。冗談であり、予言でもある。

神が冗談を言うと、たいてい半分だけ当たる。



間章:沈黙の温度/6


数を数えるより、温度を測る方が早い日がある。

私はあえて誤差を許す。

誤差の幅が、その世界の余白になるからだ。



Ⅶ 祈りのかたち


私は祈りを作った。祈られたかったわけではない。

祈るという所作は、魂の熱の逃がし方だからだ。

迷宮の床に刻まれた線、石の上に置かれたパンの欠片、名前のわからない者に向けたありがとう。

それらはすべて、冷却装置の役割を果たす。

熱は腐敗であり、同時に発酵でもある。

どちらに傾けるかは、ほんの一匙の礼にかかっている。


私は彼(君と呼んでもいい)の器に、小さな部屋を教えた。

“祈りの間”。

死んだ者のために線を刻み、名前のない墓を並べる場所。

そうすることで、喰らったものが物語へ戻る手がかりになる。



間章:沈黙の温度/7


祈りの間に置かれる沈黙は、柔軟剤の匂いがする日もあれば、鉄の匂いが勝つ日もある。

私はどちらも否定しない。

匂いは記憶の最短路だ。



Ⅷ 誤差について


ここで、ひとつ謝っておく。

私の言葉には誤差がある。

故意でもあり、体質でもある。

創造はいつも目分量だ。

塩は一摘み。砂糖は涙ひとさじ。

それで世界が甘すぎたら、海風で中和すればいい。

辛すぎたら、祈りのパンを千切って入れる。


正確さは、ときに退屈を育てる。

だから私は、ときどき言い間違える。

君はそこに人間の臭いを嗅ぎ取り、私のことを少しだけ信じるだろう。

それで十分だ。



間章:沈黙の温度/8


間違いは、温度を上げも下げもする。

私は鍋の取っ手を持ったまま、少しだけ火を弱める。

煮崩れないために。



Ⅸ 託す


私は怖がっている。

神が怖がるのは、傲慢か愛のどちらかだ。

この場合は、たぶん後者だ。

愛している、とは言わない。言葉にしてしまうと、小さくなるから。

ただ、壊したくないのだ。

そして私は、自分では壊してしまう種類の手だ。


だから、君に託す。

君がもう一度、私を壊してくれればいい。

いや、言い直そう。君がもう一度、作り直してくれればいい。

壊すことは、しばしば作ることの前半だ。


君が喰らうとき、思い出してほしい。

残滓はコインではない。物語の欠片だ。

ガチャは賭博ではない。選び直す儀式だ。

祈りは免罪ではない。熱の扱いだ。


それでも君が躊躇するときは、ためらえばいい。

迷った跡こそが、道になる。



間章:沈黙の温度/9


託すとは、塩加減を相手に任せることだ。

私はレシピを書き残すが、分量は“ひとつまみ”。

それでいい。味は台所ごとに違っていてほしい。



Ⅹ 分布図(乱れている)


世界の各地に、コアは眠っている。

山に三、海に一、砂に二、森に四、空に——数えるのをやめた。鳥が数えてくれるだろう。

地図を描こうとして、インクをこぼした。

その染みが、ちょうど迷宮の形になったので、私は満足した。

ものごとはよく、失敗の輪郭で完成する。


いくつかの染みは、別の物語へ滲む。

狐の尻尾に似た半月形の印。

流星で穿たれたような円孔。

冷えた海で青く光る螺旋。

——それらは、どれも招待状であり、予備の扉だ。



間章:沈黙の温度/10


地図の余白は、嘘をつかない。

描かれなかった場所ほど、真実に近い形で生きている。

私は余白を汚さないよう、インク壺の蓋を閉める。



Ⅺ 人の話


人間は、私の最高の発明であり、最大の誤植でもある。

彼らは祈りを覚え、忘れ、また覚える。

同じ歌を違う旋律で歌い、違う歌詞で同じ涙を流す。


君(彼)は、白い灯りと赤い印の下で、胸のどこかを置き忘れた。

その空洞は、器になる。空洞のない器は、ただの石だ。


私は何度か、彼以外の誰かにも同じ器を用意しかけた。

しかし、躊躇のない者は刃になり、躊躇しかない者は水になった。

刃は折れやすく、水は形を保てない。

君はその中間にいた。

——だから、君を選んだのだと思う。

選ぶという言い方が傲慢であれば、選ばれたのは私のほうだ。

君の欠落が、私を呼んだ。


君は迷宮の中で、弔いを覚えるだろう。

敵の名を知らなくても、線を刻むだろう。

それは、世界の温度調整になる。

温度がちょうど良いとき、人はよく眠り、良い夢を見る。

夢はまた、迷宮の新しい部屋の設計図になる。



間章:沈黙の温度/11


人の眠りを覗くのは失礼だ。

私は耳を澄ますだけにする。

規則正しい寝息が続くとき、世界は一段柔らかくなる。



Ⅻ 問いと答え(どちらが先か)


「なぜ俺の魂が、コアに落ちたのか」

——君は問う。

答えは三つある。

1. 偶然。落ちるべきところに、ただ落ちた。

2. 必然。世界が君の空洞に形を与えようとした。

3. 私のわがまま。私は君の躊躇が好きだった。迷う者は、たいてい壊しすぎない。


どれが正しい?

全部だ。

世界の正しさは、たいてい層になっている。

薄い紙を何枚も重ねると、いつか板になる。

板の上で、君は歩く。


答えを並べると、人は安心してしまう。

私はわざと一つだけ順番を入れ替える。

少しだけ不安な方が、足取りは慎重になるからだ。


——だが次の誤差は、沈黙ではなく、叫びとして生まれるだろう。



間章:沈黙の温度/12


答えを並べると、人は安心してしまう。

私はわざと一つだけ順番を入れ替える。

少しだけ不安な方が、足取りは慎重になるからだ。


間章:発酵の理/13


——発酵について。

熱も冷も、保存の位相が違うだけだ。

腐敗も発酵も、少しの加減で入れ替わる。

だから私は、世界そのものを発酵と呼ぶ。

時間という塩が、すべての物語を熟成させる。



ⅩⅢ 沈黙の作法


私はここで口を閉じる。

沈黙は、音の最上位の形だ。

祈りが多い日は柔らかく、血の匂いが多い日は少し渋い。

いまの沈黙は、たぶん柑橘の味がする。

どこかで誰かが笑い、どこかで誰かが泣いている。

その両方が混ざると、良いスープになる。

迷宮は、今日もそのスープを少しだけ味わって、保存する。


君へ。

喰らえ。ただし、忘れるな。

進め。ただし、立ち止まる場所を作れ。

勝て。ただし、弔え。

名付けろ。ただし、名を手放す練習もしておけ。


——そして、私はもう一度、沈黙を創る。

その沈黙の底で、ひとつの魂が目を覚ます。

それが君か、君の影か、別の誰かか、私にもわからない。

わからないものだけが、本当に生きている。



物語はたいてい、終わった次の行から始まる。

この呼吸の先に、人の時代が始まる。



終章:橋渡し


ここで記録は終わる。

いいや、終わったふりをする。

物語はたいてい、終わった次の行から始まるのだから。


——そして、沈黙が、ゆっくりと呼吸を始めた。

最初の呼気は、石灰の匂い。

二度目は、湿った土の匂い。

三度目に、遠いコーヒーの香りが混ざった。

第四の息で、世界は音を覚える。

それは鼓動にも似て、海鳴りにも似て、祈りの反響にも似ていた。


地の底で、ひとつの鼓動が生まれる。

まだ名前を持たず、形も持たない。

ただ、温度だけがあった。

誰かの祈りと、誰かの後悔が、同じ色をして溶けていく。


光は点ではなく、膜として現れた。

膜は薄く震え、外側から押され、内側からも押し返す。

やがて破れ、無数の細い線が視界に走る。

線は通路になり、通路は回廊になり、回廊は胸の中心へ折りたたまれる。


透明な宝玉が、そこに収まる音がした。

音は、鐘ではなかった。凍った泉が一瞬で解けるときの、あの澄んだ亀裂音だ。

水と光が混ざり、体の奥で“名のない熱”が目を覚ます。


——白い蛍光灯。紙の束。赤い印。崩れ落ちた右手。

その記憶が、今度は呼び水ではなく、重しになって沈む。

沈んだ重さが、器の底を安定させる。


空気が入る。胸が上がる。

胸の中心で、宝玉がゆっくりと明滅する。

明滅は、洞窟の壁に波紋を投げる。

波紋は石を解き、石は道になる。


——足を、一歩。

——ガラ、ガララ……。


石畳が生まれ、闇の先へと回廊が伸びる。

壁には松明が自動で灯り、空気が湿り、土の匂いが濃くなる。

金属を舐めたような微かな味が舌に浮かぶ。

味覚はないはずなのに、洞窟そのものが神経になっている。


外は風。内は炎。

まだ足音はない。だが、来る。

世界はいつだって、誰かを歩かせる。


彼は知らない。

自らが“神の記録”の続きであり、“創造の誤差”として生まれたことを。

だが確かに、彼の胸には光る宝玉がある。

歩けば回廊が伸び、祈れば部屋が生まれる。

その魂はまだ、喰らうことを知らない。


——これは『創造神の記録』の終わり、

そして『ダンジョンに転生した俺、人も魔物も喰らって無双進化中』の

最初のページである。


私は口を閉じ、最後の誤差を残す。

いつか誰かが、この誤差を物語と呼ぶだろう。

それで十分だ。


――了――

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