最終話 「残された真実と明けゆく空」

​🏮新太郎定廻り控え帳

第十二話(最終話)


「残された真実と、明け行く空」

​一. 明治二十六年の深川


​明治二十六年(1893年)。


季節は春、深川の町は江戸の面影を濃く残しつつも、新しい時代の匂いを纏っていた。


​人力車の車輪の音が土蔵造りの裏路地に響く。


街路には瓦斯灯の青白い光が闇の中に曖昧な影を落としていた。


かつて新太郎が通った「のりひょう」は、既に新しい建物、新しい主に変わり、牛肉を煮る甘辛い匂いが潮の匂いと混じり合っていた。


​真鍋新太郎は数え八十を迎えていた。


かつて定廻りの白瓜と呼ばれた同心は遠い過去を映すように穏やかだが、微かな翳りを帯びていた。


​深川の自宅の座敷で新太郎は最後の時を迎えていた。


障子の向こうには庭の椿が鮮烈な赤を咲かせ、鶯がかすれた声で鳴いていた。


新太郎は、病床で微かに微笑んだ。


​「...わしは、武士の時代に武士の道を全うできなかった。だが、記録だけは、全うした...」



​新太郎の最後の言葉は、誰にも聞こえぬほど小さかった。


戸棚に仕舞い込まれた一冊の帳面に、意識の全てを集中させていた。



​二. 孫が読む、江戸の闇


​新太郎が永眠して数日後。


​彼の二十歳になる孫、真鍋正太郎は、祖父•新太郎の遺品の整理をしていた。


武士の記憶を持たぬ、新時代の青年である。


​古い戸棚の最下段から、厳重に油紙に幾重にも包まれた一冊の帳面が見つかった。


油紙は樟脳の匂いと古い墨の匂いが混じり、厚く重たかった。


​正太郎が油紙を解くと、新太郎の手書きによる「定廻り控え帳」という筆の跡が目に飛び込んできた。


彼は、埃と時間に閉じ込められた祖父の秘密に背筋が震えるのを感じた。



​正太郎は帳面を一心不乱に読み始めた。


札差の不正、豊田磯兵衛の悲劇、大槻の裏切り、大八木の鬼気迫る活躍。そして、愛憎の三角関係、おろくの悲劇と鼠小僧次郎吉の壮絶な最期。



​正太郎は、最終部分に辿り着いた。


そこには、武士の時代の静かな敗北が記されていた。



​『十一、鼠小僧の最期を記す。鳶の二吉こそ大盗賊・鼠小僧次郎吉。月光の女郎おろくの悲劇が、二吉の最後の義侠心となった。松平忠恵が全ての元凶であると新太郎が知る寸前、鼠小僧は自ら命を投げた。大八木七兵衛殿は松平忠恵邸門前にて、屈辱的な形で鼠小僧を捕縛した。巨悪の根源は断たれず、定廻りの義侠心は上層部の権力に押し潰された。控え帳は、この時代の真実を、未来の世に伝える証人となる。』



​正太郎は、最後の行を読み終え帳面を閉じ、古ぼけた紙の重さを両手に感じた。


武士の時代の癒えぬ傷と、巨悪を白日の下に晒せなかった祖父の心残りが、痛いほど理解できた。


新太郎が警視庁の事務方として無言の奉公を選んだのは、「記録」を残し、次の時代へと真実を引き継ぐという、静かで強靭な「義侠心」の現れであったのだ。



​三. 魂の継承、大八木の面影



​いつの時代も巨悪は、名前を変え、場所を変え、形を変えて、常に存在する。


そして、祖父が命を懸けて記録した「控え帳」は、松平忠恵を断つことが出来なかったという時代の真実を、未来の自分に託すための刀であった。



​正太郎は座敷の窓から明け行く空を見上げた。


深川の屋根瓦の向こうに、朝の光が差し込み、古い埃を金色に照らしていた。


​武士は滅びた。

しかし、新太郎が「定廻り」として貫いた「魂の真実」は、血ではなく墨によって、新しい時代へと受け継がれた。


​正太郎は祖父の思いを胸に警視庁の入庁を決意した。


明治二十七年、春。


​警視庁に入庁したばかりの正太郎は、真新しい制服に身を包み、新しい時代の空気を感じていた。


​庁内を歩いていると体が大きく、眼光の鋭い一人の巡査とすれ違った。


その顔つきには、どこか祖父の控え帳に記された「鬼」大八木七兵衛を思わせる、武骨で強靭な迫力があった。


その巡査の名は大八木といった。


​その夜、正太郎は大八木巡査の独身寮の部屋をふと覗いた。


​大八木巡査が着替えのため開けた古びた箪笥の裏の扉には一枚の写真が大切に貼り付けられていた。


​写真には、年老いた大八木の祖父と、その傍らに、顔に深い傷を負いながらも、静かな笑顔を浮かべる一人の老婆の姿が、新しい時代の光の中に穏やかに写っていた。


​鼠小僧の悲劇的な死を経て、愛憎の渦の中にいた大八木とおろくの魂は、時代を越え、結ばれていたのだ。


​正太郎は言葉を失った。

頬を伝う涙を感じた。


控え帳の最後の慟哭の裏に、武士と市井の女の愛と義侠心が、ひっそりと結実していたことを知った。



​四. 明け行く空と未来への継承



​正太郎は、静かに部屋を離れた。


​彼は、油紙に厳重に包み直した「定廻り控え帳」を、自らの書斎の最も奥まった場所に静かに収めた。


​新太郎の書いた「定廻り控え帳」は静かに時を待ち続けた。


​江戸の闇を記録した控え帳は明治の世で再び開かれる日を静かに待っていた。


それは、新太郎の魂が時を超えて悪を断つ日を待ち望む武士の静かな願いであり、新しい時代の「大八木」と共に、正太郎がこれから歩むべき道を示す灯であった。

(新太郎定廻り控え帳 完)

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新太郎定廻り控え帳 地徳真猿 @masamaki0315

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