第十一話 「鼠の屈辱と、武士の慟哭」
🏮新太郎定廻り控え帳
第十一話
「鼠の屈辱と、武士の慟哭」
一. 闇の匂いと、大八木の疑念
天保二年、夏。
江戸の街路は湿気を含み、生ぬるい風が吹いていたが、奉行所内の空気はそれ以上に重く澱んでいた。
真鍋新太郎は、勘定方の帳簿と、大八木七兵衛から日々もたらされる同心の動向という二つの情報を突き合わせ、大槻の裏切りと札差の金の流れを追っていたが、大八木七兵衛の眼は常に鳶の二吉に向けられていた。
大八木は「のりひょう」で熱燗を前にしながら、新太郎に低い声で問うた。
「白瓜。二吉について、お前はどう思う」
「二吉は、市井の義侠心を持つ優れた鳶でございます。柴田屋の隠し場所を知っていたのも、彼の鳶としての勘と経験によるものかと」
新太郎の答えに、大八木は静かに首を振った。
「あの男は、あまりにも出来すぎている。深川の闇に生きる男が、奉行所に都合の良い情報だけをもたらす。そして、鼠小僧が次々と大名の屋敷を狙う中、奴の足取りは、あまりにも掴めぬ」
大八木の「鬼」の勘は、二吉が札差の事件と鼠小僧という二つの巨大な闇に、深く関わっていることを既に察していた。
この疑念の裏には、二吉が深川の岡場所の女郎おろくを深く愛し、そのおろくが大八木にひそかな恋情を抱いているという、
悲劇的な三角関係があった。
二. 二吉の苦悩と、松平忠恵への確信の寸前
新太郎は大八木の指示により、二吉の普段の行動を密かに調べ始めた。
二吉の長屋近くに潜み、彼の苦悩を聞くことになった。
二吉は、刀の研ぎ音と共に、暗い独り言を呟いていた。
「盗みでしか、おろくを岡場所の闇から救いだせねえ。定廻りの親方は目を曇らせ、鳶の二吉は表の仕事に追われる...だが、次郎吉は月光の下でしか生きられねえ...あの鬼の旦那がいる限り、おろくは振り向かねえ...」
新太郎は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
鳶の二吉こそが大盗賊・鼠小僧次郎吉、その同一人物であったのだ。
しかし、新太郎の勘定方での内偵は既にこの闇の核心に触れようとしていた。
新太郎が大槻の捕縛で回収した裏帳簿には、札差の不正な貸付金が矢部彦五郎派を経由し、最終的に一人の大物旗本の勘定方の人間へと流れていた決定的な痕跡が残されていた。
「この金の最終的な隠し場所...そして元締めは...松平忠恵様の屋敷の勘定方...この金の流れが、全ての元凶を指している...!」
新太郎は松平忠恵こそが、老中大久保の内意を盾に矢部彦五郎を動かし、豊田の処分と同心大量処分の裏で糸を引き、老中水野忠邦失脚を企てる巨悪であると、確信する寸前であった。
三. 月光の惨劇、大八木の慟哭と、次郎吉の決意
新太郎は松平忠恵を告発すべく、裏帳簿を最終確認していた。
何者かにより深川の岡場所でおろくが襲われたという凶報が、奉行所に入った。
新太郎は大八木に二吉の正体と、松平忠恵が全ての元凶であるという勘定方で掴んだ確信を打ち明け、二人で岡場所へと急いだ。
岡場所の奥座敷、夏の夜の生ぬるい空気が漂う中、大八木七兵衛が血を流すおろくに駆け寄っていた。
おろくは顔に深い刀傷を負いながらも、意識を保っていた。
「だ、旦那...二吉に...手を出すなと...」
おろくは、大八木の胸で掠れた声を絞り出す。
愛する男に、もう一人の愛した男を守ってほしいという、女の切ない情念であった。
大八木はその場で刀を抜き、刀身に映る己の顔を見た。「鬼」の顔には、悲しみと怒りが交錯していた。
「白瓜。巨悪の連中は、女の顔に傷をつけ、武士の道を踏み外した。鼠小僧の正体は今、どうでもよい。我々の敵は、奉行所内部の汚職と、その影で笑う者だ」
その頃、岡場所の惨状を知った二吉は、復讐の炎に焼かれていた。
「水野忠邦の失脚を企む松平忠恵...矢部彦五郎の背後で糸を引く巨悪め...!おろくの傷は、俺の命をもって決着をつける!新太郎の小僧に真実を暴かれる前に、この手で!」
二吉は、新太郎の内偵が松平忠恵に及ぶ寸前で、愛する女の仇討ちと巨悪の断罪という二つの目的のため、松平忠恵への暗殺という復讐劇を決意し、闇の中へと消え去った。
四. 屈辱の捕縛、鼠の願いと、控え帳の封印
数日後。
大槻の重追放と豊田磯兵衛の復帰により、奉行所の汚職は一旦の決着を見た。
しかし、その裏で、鼠小僧次郎吉が松平忠恵への暗殺未遂を図るも、松平邸内の役人によって捕縛された。
松平忠恵邸の門前には、北町奉行・榊原忠之と、大八木七兵衛率いる定廻り弐番組の面々が、屈辱的な待機を強いられていた。
奉行所の役人は、大名旗本の敷地内に許可なく立ち入ることは許されない。
榊原忠之は夏の夜風の中、水野忠邦失脚の企てが刻々と迫った激動の時代に、鼠小僧捕縛という手柄を屈辱的な形で受け取らざるを得ない複雑で穏やかではない胸中を静かな眼差しに押し込めていた。
やがて、松平邸の門が重々しく開いた。
松平忠恵家の役人に縄を打たれ固められた二吉は門前で大八木の前に引き渡された。
大八木は、手下として使い、愛する女を奪い合った男を、屈辱的な状況で自らの手で捕縛せざるを得ない武士としての悲哀に奥歯を噛みしめた。
松平忠恵という巨悪の根源は、手を触れることも許されなかった。
「白瓜。二吉の勝負だった。奴はお前の内偵が間に合う前に、自ら命を投げた。義侠心だ」
大八木は松平邸の重い門に背を向け、新太郎に言った。
そして、大八木は重い口調で続けた。
「奴は、私に捕らえられる直前、最後の頼みを託してきた。」
大八木は、新太郎の目をじっと見つめ、二吉の言葉をそのまま伝えた。
「義賊だろうが盗っ人は盗っ人。盗んだ金で放蕩の限りを尽くし、晒し首になったと伝えて欲しい」
新太郎は、己の頭脳が寸前で届かなかった真実と義賊という美談を拒否し、定廻りの鬼に自らの最期を託した鼠小僧の壮絶な覚悟に、武士の魂を揺さぶられた。
新太郎は、二吉の壮絶な覚悟を胸に、控え帳を静かに広げた。
『十一、鼠小僧の最期を記す。鳶の二吉こそ大盗賊・鼠小僧次郎吉。月光の女郎おろくの悲劇が、二吉の最後の義侠心となった。松平忠恵が全ての元凶であると新太郎が知る寸前、鼠小僧は自ら命を投げた。大八木七兵衛殿は松平忠恵邸門前にて、屈辱的な形で鼠小僧を捕縛した。巨悪の根源は断たれず、定廻りの義侠心は上層部の権力に押し潰された。控え帳は、この時代の真実を、未来の世に伝える証人となる。』
新太郎の背中は誰にもわからぬ様、震えていた。
(第十一話 完)
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