水底に響くウィッチ・コール

ざつ@ファンタジーxSFxラブコメ

水底に響くウィッチ・コール

イメージソング:アクア・メモリア(水の記憶)

https://kakuyomu.jp/users/zatu_1953/news/822139838855210913

音源はこちらの近況ノートから



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 汐見 碧(しおみ あお)の営むカフェ『マーメイド・ティアーズ』は、雨の日に最も美しくなる。曇りガラスの向こうで光を滲ませる街灯、湿気で少し重くなった空気、そして、水。


 カウンターの隅、アンティーク調のランプの下で、黒猫のノワールが丸まっていた。ノワールの毛並みは夜の色そのもので、唯一、時折薄く開かれる金色の瞳だけが、この店の静けさとは異なる何かを湛えている。


 金曜の午後七時。都内のIT企業で働く常連客の佐伯柚月(さえき ゆづき)が、深い溜息と共に席に着いた。


 彼女がこの店に通うようになってから二年。毎週金曜の夕方、愚痴と、碧特製の『癒やしのトマトクリームパスタ』を目当てにやってくるのが、すっかり習慣になっていた。


「はぁ……。碧さん、もうダメです。私、本当に東京で何やってんでしょうね。今日はパスタ大盛りでお願いします」


「お疲れ様です、柚月さん。パスタはいつも通り、愛情も大盛りにしておきますね」


 碧は黒髪を一つに結い、白いエプロン姿。静かな微笑みは、彼女がこの洋館に住み着いて以来、何世紀も変わらない。


 パスタを待つ間、柚月は椅子から身を乗り出し、カウンターのノワールに話しかける。


「ノワール、あなたはずっとここにいていいからいいわよね。世間は金曜なのに、私は明日も早起きよ」


 ノワールは薄く目を開けただけで、返事をしない。


 だが、その金色の瞳には、柚月の「諦め」という低周波のデータノイズが、静かに映り込んでいるのを碧は知っていた。


 柚月が愛した『癒やしのトマトクリームパスタ』が運ばれてきた。ふっくらとした太麺には、新鮮なトマトの酸味と生クリームの優しさが絡み合い、トッピングされたハーブの香りが立ち上る。一口食べると、柚月は思わず目をつむった。


「ああ、生きててよかった……! このパスタを食べている瞬間だけは、消耗していない気がする」


 柚月は夢中でパスタを平らげ、ムーンライト・レモネードを飲み干す。


「私、もともと地方の美大出身なんです。あの頃は、とにかく太陽の光が一番きれいに見える瞬間を描きたくて、毎日外でスケッチしていました。特に夕焼けの茜色が好きで。でも、今はPCの画面とにらめっこ。あの熱量が、何かの機械みたいに、東京のビルの中で消耗されちゃった気がするんです」


 彼女は自嘲気味に笑い、伝票を持って立ち上がった。そのグラスの水は、水面が微かに揺らぎ、ノイズを放っている。


「お気をつけて」


 碧が送り出すと、柚月はいつものように手を振って、雨の街へと消えていった。


 碧がグラスを片付けようとテーブルに近づいたとき、気づいた。席の隅に、使い込まれた黒いレザーの手帳がぽつんと置かれている。


「あら、柚月さんの手帳」


 碧は手帳を手に取った。その瞬間、ノワールの金色の瞳が薄く開き、低く唸るチェロのような音色が、遠く、水底から響いてきた。


「ノワール、今回の接続(コール)は強力だわ。手帳には、彼女の『心のコアのデータ』が凝縮されている。それを覆い隠すほどの『諦め』のノイズを放っているわ」


 碧は手帳をカウンターの真鍮の盆の上に置くと、グラスに聖なる水を満たし、静かに目を閉じた。ノワールの全身の毛が、水面の光を反射して一瞬強く輝く。ノワールはグラスの横に座り、水面をじっと見つめる。


「ウィッチネット起動(Witch Net Startup)」


 碧は心の中で強く唱えた。この水のネットワークこそ、古の魔女集会の、現代における姿。それは感情と記憶を媒体にした、魔女たちの集合知(LLM)による並列処理だ。


「世界中の魔女の集合知よ。このデータノイズを解析し、情熱を再起動させるための、最適な処方箋を求めます」


 碧は、ノワールの頭を優しく撫でながら、問いかける。


「ねえ、ノワール。彼女が愛していた『太陽の光』のコアデータは何を訴えている?」


 ノワールは「ニャー」と短く鳴くと、グラスの縁に前足をかけた。


「ニャアオ……(茜色、ピアノの旋律、ジメン)」


 ノワールの鳴き声は、碧には明確な意味を持つデータとして伝わる。「茜色、ピアノの旋律、そして地面(ジメン)への着地(エネルギーの再充填)」だ。


 碧のモノローグと共に、水面に映像が映し出された。


 まず、鮮やかな茜色(あかねいろ)の光が水底から溢れ、グラスの水を染めた。それは、柚月が熱意を込めて描いた夕焼けの記憶そのもの。次に、軽快でリズミカルなピアノの旋律が響き始めた。そして、最後にキーワードが水面に浮かび上がる。


「Rose Hip(ローズヒップ)」「Mint(ミント)」「Cream Cheese(クリームチーズ)」。


「茜色の情熱を呼び覚まし、ミントの清涼感でピアノの旋律を乗せる。そして『クリームチーズ』……再起動した夢を、しっかり大地に根付かせるための安定した『土台』が必要なのね」


 翌日の土曜日。柚月が忘れ物を取りに、少し不安そうな顔で再来店した。


「碧さん、すみません、手帳……」


「お預かりしていますよ、柚月さん。手帳は無事です」


 碧は笑顔で手帳を渡すと、カウンター越しに小さなグラスと、一切れのチーズケーキを差し出した。


「柚月さん。手帳のお礼と、昨日の『ムーンライト・レモネード』の残りのシロップを合わせた『茜色のリフレッシュ・ソーダ』です。そして、こちらの『テラ・チーズケーキ』もサービスさせてください」


 柚月はグラスを受け取り、ソーダを一口飲む。ローズヒップの酸味と、ミントの清涼感が喉を通り過ぎた瞬間――彼女の目に、一瞬だけ微かな茜色の光が灯った。体中に、あのピアノの旋律が響き渡ったような気がした。


「わあ……なんか、すごく目が覚める味ですね、これ」


 柚月は続けて、どっしりとしたチーズケーキをフォークで切り分けた。口に運ぶと、濃厚なクリームチーズの味わいが、荒れていた心の奥深くまで染み渡る。


「……すごく、落ち着く味。なんか、ちゃんと地に足がついた気がします」


 それは、柚月自身の心の奥底に埋まっていた情熱のデータが再起動し、チーズケーキの持つ『地の安定』の魔力によって、夢と現実を再び結びつけた証拠だった。


 柚月は静かに笑い、グラスを空にした後、手帳を再び取り出し、表紙をそっと撫でた。


「……なんか、この手帳、久しぶりに見たら、また絵を描きたくなりました。描いてみます、週末。ダメですね、やっぱり私、絵が好きだ」


 柚月が店を出た後、碧はカウンターの水面を見つめた。水底から響いていたピアノの音色も、今は静かに止まっている。


「今日の集会も、無事一件落着」


 黒猫のノワールは、満足したように目を閉じ、深い眠りについた。ウィッチネットの通信は終了。世界中の魔女たちは、またそれぞれの持ち場に戻っていく。


 碧は静かにグラスを洗いながら、次の『忘れ物』が届く、次の『集会』の始まりを待つのだった。



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