第九話 星屑の夜

 八月二九日、一七時。九月が間近だというのに猛烈な暑さが続く約束の日、私はマヤさんのアトリエ兼自宅にやってきた。アトリエには何度も足を踏み入れているけれど、私はマヤさんの自宅──居住スペースには足を踏み入れたことがなかった。何故、自宅に招かれたかというと……星がよく見える場所をスマホで探していたら「ここは星がよく見えるよ」とマヤさんが提案してくれたからだ。私は自分のマンションの環境──街灯が多く、街の灯りで空が見えない──を前提に考えていて、星がよく見える場所に遠出するつもりでいたけれど、確かに街の明るさが届かないこの場所は絶好の星見スポットだ。私たちはマヤさんの家で星を見ることにした。今日はVIPルームでのやりとり以来の訪問で、マヤさんが言うには『星空デート』の日。私はアトリエ奥の自宅玄関に立ち尽くし、インターホンを押せずにいる。

 あの日から、ふとした瞬間にVIPルームでの出来事を思い出しては居た堪れなさに襲われることが増えた。誰かとあんなに長い間抱きしめあって、互いを確かめ合うようにキスを交わしたのは初めてだった。かつての恋人とも、互いを慈しみ、そして全てを味わい尽くされるようなキスはしたことがなかったから。

「……はぁ」

「いらっしゃい、ゆき」

 扉の前で立ちすくんでいると、玄関のドアが開いてマヤさんがくすくす笑いながら私を迎えた。

「わっ……!」

 私は驚いて一歩後ずさる。彼女はリネンシャツとクロップドパンツの涼しげでラフな格好で、よく似合っていた。『デート』の言葉を意識しすぎて、コーディネートに気合を入れすぎた自分が一気に恥ずかしくなる。

「ふふ、百面相のゆきもかわいいけど……早くおいで、熱中症になっちゃうよ」

「マヤさん、どうして私が来たこと……」

「あれ」

 マヤさんが指さした先には、防犯カメラが設置されていた。随分前から到着して二の足を踏んでいる姿をずっと見られていたのだと知り、顔が熱くなる。

「き、気づいてたの?」

「うん。普段なら見ることはないけど、君が来る日は待ち遠しくて確認しちゃうんだ」

 そっと頬を撫でられる。いつもならここで挨拶のようにキスをされる。けれど今の私は、マヤさんを見る勇気がなかった。

「ゆき?」

 マヤさんが不思議そうに顔を覗き込もうとする。

「あの、今……すっごく顔熱くて、たぶん……真っ赤だから」

 見ないで。そう言おうとしたら、マヤさんの手が頬から額に移る。彼女は心配そうな瞳で私の状態を確認していた。

「本当だ。暑いの? 本当に熱中症じゃない? 早く中に入って……保冷剤で冷やす?」

「え、あ、その……」

 背に手を添えられ、室内に招かれる。どうやら、マヤさんは私がこの暑さで参っているのだと思ったらしい。純粋に心配してくれる彼女に対して一人で恥ずかしがっているのがばかばかしくなって、私は思わず笑ってしまった。

「ごめんね、心配かけて……大丈夫、ありがとう」

「そう?」

「うん……ふわぁ、玄関涼しいね」

「私が暑さ嫌いだから、室温は建物全体で一定に保たれているんだ」

「そうなんだ」

「アトリエの保管庫は低めに保たれてるからもっと涼しいよ」

「もっと? 冷蔵庫くらい?」

「ふふ、そこまで低くはないかな」

 会話をするうちにいつもの調子を取り戻して内心ほっとする。靴を揃えて立ち上がると、マヤさんと目が合った。「キスしていい?」言葉に出さなくてもそう言われた気がした。半歩だけ、マヤさんに近づく。汗ばんだ頬についた髪を耳にかけられ、唇が軽く触れるだけのキスをされた。

「今日は来てくれてありがとう。夜が楽しみ」

「うん……私も」

 ずっと見つめ合う時間が照れくさくなり、ふと視線を逸らした先に額縁が掛けられているのが見えた。それは──あの頃、病院で見た覚えのあるスケッチだった。

「わ……ここにも絵が飾られてるんだね」

「うん。家にある『Yuki』は誰にも見せたくない作品たちだね」

「えっ、私は見てもいいの?」

「何を言ってるの。君はゆきだろう。ゆきが『Yuki』を見てはならないなんて、そんなおかしなことはないよ」

 上機嫌に壁にかかる額縁を撫でながら廊下を進むマヤさん。額縁に入った『Yuki』は、油絵ではなく色鉛筆の柔らかな色彩で彩られ、幸せそうに微笑んでいた。私は、かつての自分の肖像画に見つめられていることにどこか後ろめたい気持ちになった。額縁の中で微笑む『Yuki』のような純粋さは、もうなくなってしまったから。


 廊下の先はリビングとダイニングが一体になった、コンパクトなのに広さを感じる部屋になっていた。天井は吹き抜けで高く、照明は天井から下がるペンダントライト。南に面した壁全面が窓になっていて、和紙調のブラインドが夕方のじりじりと灼けるような陽光を柔らかく抑えている。左右非対称のナチュラルなテーブルは木の温もりが感じられ、添えられた椅子の座面はカラフルで、鮮やかさがアクセントになっていた。目立つ家具はそのダイニングテーブルとリビングテーブル、ソファ、一人暮らしにしては大きな冷蔵庫くらいで、テレビはなく、リビングテーブルの上にタブレットが置かれている。物が最小限の部屋は、まるでモデルルームのようだった。

「わあ……アイランドキッチンだ、素敵……!」

「そう? 私、料理しないんだけどね……導線の良さとか圧迫感をなくしたくて選んだんだ。自分では使わないから『宝の持ち腐れ』って奈々によく言われる」

「ふふ、そうなんだ」

「ゆきは料理好きなんだよね? 前に聞いた」

「うん、家庭料理レベルだけどね。作るのは好きだよ」

「へえ……ゆきの手料理、食べてみたいな」

「うん、いいよ」

 軽い気持ちで了承すると、マヤさんは驚いたように振り返った。そこで、もしかして冗談だったのかと焦り、慌てて付け加える。

「あ……もしキッチン使ってもよかったら、だけど……使わせてもらった食材費は私も出すし」

「いや、いいよ、自由に使って。違うんだ、まさか了承してくれるとは思わなくて驚いただけ……本当に作ってくれるの?」

「う、うん。でも、普通なのしか作れないよ、ハードル上げないでね」

「私、普通の料理も作らないからなんでも嬉しいよ」

「えっ? こんな立派な冷蔵庫があるのに?」

 思わず口に出してしまった後で、失礼なことを言ってしまったかと思い「ごめん、悪い意味じゃなくて」と弁解した。マヤさんは気を悪くした様子もなく、笑いながら冷蔵庫を開けた。

「私って食に無頓着みたいでね、奈々や美憂が──マネージャーとアシスタントが、何かと買い出しに行ってくれるんだ。ちょうど昨日、たくさん買い込んできてくれたんだよ。そんなに食べられないと言ったけど、彼女たちに感謝しないと」

「ふふ、きっと、マヤさんに栄養のあるものを食べて欲しいんだと思うよ」

「そうかな? 栄養ならサプリで十分じゃない?」

「うーん、サプリってあくまで補助だから、栄養のメインは食事でとったほうがいいんだよ」

「あ、それ、前に病院でも言ってたね」

 マヤさんの表情がぱっと明るくなる。懐かしむように目が細められた。

「えっ……そうだっけ」

「うん。あの時も食事じゃなくてサプリじゃだめかって聞いたら、ゆきが教えてくれた」

 マヤさんがそんな些細なことを覚えてくれていたのが嬉しくて私はじんわりと胸が温かくなった。同時に、それを自分が覚えていないことを悔やんだ。贖罪というわけではないけれど、何かをして埋め合わせたいと思った。

「……キッチン借りてもいい? 夕飯作るよ」

「もちろん。ゆきの手料理ならいくらでも食べたいな」

 巨大な冷蔵庫の中には、マヤさんの言うとおり食料がぎっしり入っていた。肉、魚、卵、乳製品に野菜──そして調味料一式。冷凍庫にも、個別に冷凍された食材や、小分けにされた料理が並んでいた。

「すごいね……なんでも作れちゃいそう。作り置きもあるけど、これって?」

「ああ、それはハウスキーパーが作ったものだよ。週に一度ここで作ってもらって、アトリエの冷蔵庫に入れてる。向こうですぐ食べられるようにね」

「ハウスキーパーさんがいるんだね」

「うん。私があまりにも家事をしないからって、奈々が契約したんだ……毎朝掃除とか洗濯をしにきてくれる」

 システムキッチンの下には立派な食器洗浄機が備え付けられていた。家事は全て自動化と外注していることに驚きつつ、だからこそマヤさんは絵を描くことにエネルギーを注げるのだろうと納得した。

「あ、そうだ。明日は来なくていいよって連絡しなきゃいけなかった」

「どうして?」

「だって、ゆきが泊まるだろう? 知らない人がいたらゆきは緊張しちゃうよね?」

「えっ……泊まるって……」

 星を見たら終電前に帰るつもりだった私は、マヤさんの言葉に虚を突かれた。マヤさんが瞬きをして、どこか残念そうに目を伏せる。

「夜に星を見るから遅くなるし、てっきりうちに泊まるんだとばかり思ってた。帰るつもりだった?」

「えっと……さすがに迷惑だろうし、そのつもりだったよ。終電に間に合えば──」

「迷惑なわけない。ゆきは明日、朝になにか用事でもあるの?」

「う、ううん……マヤさんのモデルしに、またアトリエに来るつもりだったよ」

「それなら、泊まっていって。夜遅くなると心配だし、明日も来る手間が省けるよね」

「でも、私、何も準備してこなくて……」

 バッグに入っているのはメイクポーチとタオルくらいで、着替え一式など持ってこなかった。近くにコンビニもないため、駅までタクシーで向かうしかない。料理を作る前にコンビニに行くべきか考えていると、マヤさんが「大丈夫」と微笑んだ。

「使ってない着替えがあるから、使っていいよ。下着は未開封のもあるし」

「えっ……そんな」

「あ、下着のサイズ合わないか……でも、洗濯機で三時間もあれば乾くから」

「う……」

「ね、だめかな、ゆき」

 私はマヤさんのお願いに弱いのかもしれない。「だめかな」と聞かれる時は大抵がだめじゃないし、「いいかな」と聞かれた時も了承してしまう。今回も、私は最終的に頷いてしまった。

「じゃあ……お言葉に甘えて……よろしくお願いします」

 マヤさんが満面の笑みになり、おもむろに私を抱きしめた。触れてもいいかと事前に問われずに抱きしめられたのは久しぶりなのに、私は自然と抱擁を受け入れていた。

「ふふっ、ゆきがこの家にいるなんて夢みたいだ……」

「……また夢だって思ってるの?」

「うん……君は確かにここにいるのに、変だよね」

 マヤさんの腕の力が強くなる。私も彼女の背に腕を回し、抱きしめ返した。私は確かにあなたのそばにいるのだと、伝えられるように。


 夕食は悩んだ末に、トマトソースのパスタとポトフ、サラダには塩麹レモンドレッシングをかけて、さっぱりとしたメニューにした。無難かと思ったけれど、奇をてらった料理よりも普段作り慣れた料理の方が失敗がないと思って。

「美味しい! すっごく美味しいよ、ゆき。パスタってこんなに美味しくできるんだね。それに、サラダのドレッシングを自分で作るなんて考えたこともなかった」

「ふふ、ありがとう。パスタを茹でる時はちょっとコツがあってね……」

 マヤさんはそれぞれの料理を食べるたびに「美味しい」と微笑んでくれた。私の作る料理より何倍も美味しいものを食べているはずなのに、あまりに幸せそうに食べるものだから──私は照れ臭くなって、パスタ皿の上でフォークをくるくると回し続けた。食事中は色々な世間話をした。絵、モデル──個展の話はもちろん、マヤさんの家の庭にキジが来て騒がしく鳴いていたこと、私が誕生日に送った紅茶がもったいなくてなかなか飲めていないこと、ずっと気になっていたマヤさんの使っているコスメや香水のブランドも聞くことができた。誰かと笑い合いながら夕飯を共にしたのは久しぶりだった。

「遅くなるし、先にお風呂入っちゃおうか」

 食洗機に食器を入れ、マヤさんがそう言って先にお風呂に入った。「烏の行水だから」と言ったとおりすぐに出てきたマヤさんと入れ替わりに、私もバスルームを借りた。アトリエのコンパクトなシャワールームよりも広々とした浴室は汚れひとつない清潔さで、バスタブにはたっぷり湯が張られていた。

「……ふう」

 ちょうどいい湯加減に保たれた湯船に浸かると、自然と肩の力が抜けて息が漏れる。終電を気にする必要がなくなったため、せっかくだから月の入りまで待って空を見ようという話になった。星を見るためだけに夜更かしをすることは非日常的で、なんだかドキドキする。この心臓の高鳴りは、それだけではないけれど。

 お風呂から上がって、脱衣所にあるドラム式洗濯機を使わせてもらった。私はドラム式洗濯機を使ったことがなかったけれど、マヤさんは「服を入れてスタートボタンを押せばいいだけだよ」と言っていたのでそのとおりにした。洗剤は自動投入らしく、本当にボタンひとつで洗濯機が回り始めた。私はドライヤーで髪を乾かし、マヤさんに借りた化粧水と乳液──有名ブランドの高級ラインだ──で軽くスキンケアをしてから、マヤさんの待つリビングに戻った。

「おかえり。洗濯機、回せた?」

「うん、貸してくれてありがとう」

「いいよ。ルームウェア、ちょうどいいね」

「わ、あ、あまり見ないで……いま、すっぴんだから」

「そう? 素顔のゆきも美しいよ」

「マヤさんだって……綺麗。ほんとにすっぴん?」

「うん。触ってみる?」

「遠慮しておく……」

 私とマヤさんしかいない空間では、クスクスと控えめな笑い声もよく響いた。


 夜半過ぎ、私たちは水筒を持って二階に上がった。広いバルコニーに出ると夏の空気が肌を撫でたけれど、周りに田んぼや畑の土があるおかげか、街で感じるサウナのような不快感はない。バルコニーには簡易テーブルと椅子が置かれていて、室内の照明を消すと真っ暗になった。月は空から隠れ、満天の星々が視界いっぱいに広がっていた。

「わぁ……! すごい、綺麗……」

「晴れてよかったね」

 マヤさんが空を見上げながら呟く。私は夏の大三角形を探した。

「あ! あれかなあ……天の川はあの辺? 星がいっぱいでどこもかしこも天の川みたいだね」

「そうだね。わざわざ一年待たなくても、泳いで会いにいけばいいのに」

 手すりに頬杖をつきながら呟いたマヤさんなら、きっとそうするのだろう。七夕に雨が降り天の川の水量が増えても、平時でも、相手の居場所が分かっているのなら一年待たずに会いにきてくれるのだろう。

「星の海を泳ぐなんて、素敵。星屑がキラキラしてるのかな」

「ふふ。ゆきはロマンチストだもんね」

 指先が私の髪を撫でる。私はそっとマヤさんに寄り添った。触れ合った腕から人肌の温もりが移ってくる。心は穏やかなのにそわそわして、心臓がとくとくとリズムを刻んでいる。それは焦燥感のようで、でも、不安とは違う落ち着かなさだった。空を眺めていると、ふと視線を感じた。空を眺めていたはずなのに、いつのまにかマヤさんは私をじっと見つめていたらしい。目が合うと、彼女はバルコニーの柵に頬杖をついて微笑んだ。

「何で二人は離れ離れで一年に一度しか会えないのか、知ってる?」

「そういえば、何でだろう? 身分違いとかだっけ……」

「お互い夢中になりすぎて不真面目になったから、偉い人が怒って二人を離したんだ」

 にやりと笑ったマヤさんが言った言葉は意外で、私は瞬きをした。会いたくても会えない悲恋物語だと思っていたから、ストーリーについては敢えて詳しく調べることがなかった私は、あまりに現実的な理由に苦笑した。

「そんな理由なんだ」

「夢中になっちゃう気持ちはわからなくもないけど。仕事が疎かになるのは理解できないかな」

「マヤさんは……仕事が手につかなくならないの?」

「ならないね。寧ろ、描きたい。私の手でキャンバスに描きたいと思うし、実際描いてきた」

 君のことを。真っ直ぐに見つめてくる強い瞳はそう言っているようだった。

「私は……わかるかも」

 仕事が手につかなくなる、というよりは、仕事中も考えてしまうと言ったほうが正しい。疎かにはなっていないはずだから、実際は私もマヤさんに近いのかもしれない。マヤさんがほんの少し眉を顰めた。

「……ふうん。そうなった時があるの?」

「えっと……それは」

「それは?」

 私の曖昧な返答に納得できないようで、答えるまで視線を外してくれそうにない。私は視線を彷徨わせながら星空を見上げて、そっと答えた。

「……マヤさんのこと、よく考えてるよ」

「私のこと?」

 探るようだった瞳が丸くなり、きょとんとした表情になった。その変化に私も気が抜けて笑いかける。

「今も絵を描いてるのかなとか、お店の子に聞いたスイーツ、今度お土産に持っていこうかなとか……些細なことだけどね」

「ゆきは私のことを考えてくれているの? 私のいないところで?」

 マヤさんは顔を近づけて期待するような表情で言った。はっきり言語化されると、その通りなのになんだか照れくさくなる。

「うん……たまに、ね」

 よく考えてる、と自分で言ったくせに、咄嗟に最後の言葉を付け加えてしまった。たまに、というのがどのくらいの頻度であるかは人それぞれだけれど。それでもマヤさんは嬉しそうな笑顔になった。私は「私ばっかり見てないで、星を見ようよ」と空を指差す。月のない夜空は、暗闇に慣れた目で見るとますます星がたくさん見えた。隣からはまだ視線を感じる。ちらと横を見ると、思いっきり目が合った。マヤさんの視線が私を絡め取る。暗闇の中、顔がゆっくりと近づいて──私も少し背伸びをした。言葉を交わすことで得ていた安心感は、いつの間にか言葉がなくても伝わるようになっていた。私の心も彼女に伝わっているのだろうか。いつか言葉でも伝えなければと思う。私もそうだよ、と。

 視界いっぱいに星々が見えるように、空の下で唇を重ねた私たちのことも、星の海から見えているのだろうか。



「私はリビングのソファでいいよ……」

「だめ」

「じゃあ、応接室とか……客間とか、空いてる部屋とかでも」

「そんな部屋ないよ。ここは私だけの城だから」

 マヤさんに手を引かれるままに彼女の後をついていく。先ほどのキスの余韻がまだ熱となって体に残り、顔と手が熱かった。手汗をかいていたらどうしよう。そんなことを考えながら廊下の先に進む。

 先ほど星空の観測を終えた私たちは、そろそろ寝ようかと室内に戻った。そして、ふと疑問に思ったことをマヤさんに聞いたのだ。「そういえば、私の泊まる部屋はどこに?」私が訊ねると、マヤさんはさも当然のように「私の部屋だよ」と答えた。

「マヤさんの部屋に布団があるの?」

「ううん、ベッドがひとつだけ」

「えっ……!?」

「大丈夫、狭くないから」

「そ、そういう問題じゃなくて……!」

 そして冒頭の会話に戻る。マヤさんの寝室に入ると、彼女の言うとおりクイーンサイズのベッドが置かれていた。大きなベッドが置かれているのに圧迫感がないのは、天井が高く、一般的な寝室より広いせいかもしれない。内装はシンプルで、一階と同様に余計なものは置かれていなかった。

「……ほんとだ、広いね」

「ね? 言ったでしょ」

 振り返ったマヤさんはにっこりと微笑み、ベッドに私を座らせた。壁に埋め込まれた間接照明が寝室を柔らかく照らす。寝室にも穏やかに微笑む『Yuki』が飾られていた。過去の自分と目が合う。あの頃の自分は、まさかマヤさんとこんな関係になるなんて思ってもいなかった。

「何か飲む? 水くらいしかないけど」

「あ、うん、いただきます……」

 寝室にも小さな冷蔵庫が備え付けられていた。マヤさんはミネラルウォーターを取り出し、なにか逡巡したあと、冷蔵庫に戻した。そして、冷蔵庫の横の棚から常温のペットボトルを手に取り渡してくれた。

「あまり冷えてるのはよくないよね」

「ありがとう……」

 前に冷えすぎた飲み物でお腹の調子が悪くなると話したことを覚えていてくれたらしい。そんな些細なことまで覚えていてくれて、気を配ってくれることが嬉しい。むずむずとした温かさが胸に広がっていった。マヤさんも私の隣に座り、ミネラルウォーターを飲む。私はなんだか気まずくなり、無理矢理明るい声を上げた。

「マヤさん、今日は本当にありがとう。あんなに空一面の星を見たのは久しぶり」

「うん、私も。君に言われるまで空を見上げることはほとんどなかったから」

「そっか……」

 会話が途切れる。ムーン・ブロッサムでは会話を途切れさせない術を活用できるのに、マヤさんと一緒にいるとどうしてこんなにままならないのだろう。手に持ったペットボトルをゆらゆら揺らしていると、マヤさんがクスクスと声を上げて笑った。

「ゆき、緊張してるの?」

「えっ、あ、その……」

「心配しなくても、何もしないよ」

 手に持っていたミネラルウォーターを冷蔵庫に入れられる。マヤさんの言葉に肩の力が抜けた。緊張が緩んだだけではない。拍子抜けしたというか、肩透かしを喰らったというか──私はこの特別な日に、特別な何かが起こるのではないかと思っていたから。けれど、マヤさんはそんな私の懸念を鋭敏に感じ取ってくれたらしい。「何もしない」と、まるで私を安心させるように。マヤさんは広いベッドに乗り、手招きで私を呼んだ。

「おいで、ゆき」

 ほんの少しだけ躊躇いを抱えながら、そろりとベッドに乗り、横になった。程よい弾力のあるスプリングが体重を分散し、私の体を支える。ヘッドボードにはタッチパネルが付いていて、マヤさんがそれに触れると照明の光量がゆっくりと小さくなっていった。

「真っ暗にしても大丈夫?」

 薄闇の中でマヤさんが遠慮がちに囁いた。私は頷いてから、入院していた頃も彼女がアイマスクをして眠っていたことを思い出した。病院とは異なる完全遮光らしい寝室のカーテンは暗闇を保ち、一筋も光が入ってこない。私も普段照明は消しているけれど、ここまで何も見えない暗闇にはならない。マヤさんがタッチパネルの照明もオフにすると一切の光が消え、本当に何も見えなくなった。安全な場所だと分かっていても、暗闇に対する本能的な恐れが湧いて緊張してしまう。

「真っ暗だね……」

「うん、明るいのが苦手で、真っ暗にしないと眠れないんだ」

「何も見えないね」

「すぐ慣れるよ」

 マヤさんの言うとおり、真っ暗な部屋にも光はあるらしく、ぼんやりと部屋の輪郭が見えてきた。マヤさんはベッドに横になり、こちらを向いている。二人が横になれる十分なスペースがあるクイーンベッドの上、暗闇の中で、手を伸ばせばすぐ届く距離で私たちは見つめ合った。マヤさんがぽつんと呟く。

「……さっきの、嘘かも」

「ん? さっきのって……」

「何もしないって」

 そっと頬を撫でられた。闇の中で、貌《かたち》に触れ存在を確かめるような手つきで、彼女の指がやさしく肌をなぞる。人に触れられて『大切にされている』と感じることは、思い返せばそうなかった。

「抱きしめてもいい?」

 衣擦れの音が、静かな部屋に響く。私は答える代わりに体を寄せた。マヤさんの腕がそっと回されて、彼女の匂いに包まれる。

「キスしてもいい?」

「……いいよ」

 今度は口に出して承諾すると、マヤさんは少し驚いたような表情になった。実際は暗くてほとんど見えなかったけれど、そんな気がした。暗闇の中、気配が動く。マヤさんはこんなに暗くても周りが見えるのか、迷いなく、唇に柔らかな熱が触れた。目を閉じなくても気にしなくていいはずなのに、私は反射的に目を閉じてしまう。少し離れて、また触れて。深い口付けではない、啄むのとも違う、本当に唇を重ね合わせるだけのキス。ただ、二、三度では終わらなかった。

「ゆきが私の家にいる」

 長い口付けのあと、そっと囁くようにマヤさんが言った。まるで存在を確かめるように、彼女の手が私の背筋を撫でる。吐息が触れ合う距離で抱きしめられたまま、マヤさんの指先が私の髪を撫でた。

「うん、ここにいるよ」

 私はその胸に寄り添うことで答えを返した。背に触れた腕にほんの少し力が入る。私がそばにいることが「夢みたい」だと──時折思い出したように呟くマヤさんは、いつもどこか不安そうだった。私が突然消えていなくなるとか、実は幻なんじゃないかとか、そんなことを考えているように。その度に「ここに居る」ことを伝えられるように、抱きしめ返しているのだけれど。安心してもらえるようにと思いながら背をさすると、マヤさんが甘えるようにますます身を寄せた。香水とは違う、マヤさんの肌の匂いが私を包む。マヤさんは私を抱きしめたまま、ぽつんと呟いた。

「……ねえ、ゆき。私の専属になって」

 囁かれた言葉の意味がすぐに理解できなかった私は、思わず背をさする手を止めた。苦しくはないけれどきつく抱きしめられていて、マヤさんの顔は見えない。

「専属……指名とか、モデルのこと?」

「ん……それもあるけど」

 マヤさんの腕が緩む。私は顔を上げて彼女を見た。暗闇に慣れた目に映った彼女はどこか切なげで、安堵しているようでもあり、不安が晴れないような、複雑な表情をしていた。マヤさんの顔が近づき、額がコツンと合った。星に願うように瞼を伏せたマヤさんが、秘密を搾り出すような声で私に囁く。

「君のすべてを、私だけの専属にしたい」

 すべて。その言葉に私ははっと息を呑んだ。その囁きは小さくも真っ直ぐで、譲れない意志を感じるような響きだった。

「それって……」

「ゆきとずっと一緒にいたい。ここにいて欲しい。ゆきと、ここで一緒に暮らしたい」

 マヤさんは何かが決壊したように捲し立て、再び私をきつく抱きしめた。マヤさんに好意を向けられていることは自覚していた。けれど、ここまではっきりと強く願われたのは初めてかもしれない。何も返せずにいると、マヤさんは言葉を続けた。

「生活なら心配しなくていいよ、私が全部用意する。ムーン・ブロッサムを辞めても、君が困ることはない」

「あの、でも、私……」

 私にはまだ奨学金の返済義務が数年残っていた。それらを清算しないことには、マヤさんの元になど来れるわけがない。言い出しづらさに躊躇っていると、マヤさんの声が低くなった。

「……もしかして、恋人とか婚約者がいる?」

「い、いないよ! いたら、毎週ここに来れないよ……」

「じゃあ、お金のこと?」

「……うん。私、高校からの奨学金がまだ残ってて、支払い続けないといけなくて」

 尻すぼみに声が小さくなる。当時頼らざるを得なかったそのお金は結局のところ借金で、毎月支払っても終わりが見えないのが現状だった。マヤさんが私とずっと一緒にいたいと思ってくれているのはとても嬉しい。私も、週末の穏やかな時間が日常になるのならどんなに幸せだろうと思う。マヤさんは生活に心配は要らないと言うけれど、負債の完済は必要になる。マヤさんに応えたい。でも、今すぐには応えられない。ギュッと目を閉じた私に、マヤさんは「ああ、そのこと」と思い出したように呟いた。

「そんなの、この前私が清算したよ」

「えっ……? 清算って」

「あ、ごめん……説明してなかった。君の負債はもう私が一括で支払い済みなんだ。今月分は先方から払い戻されるはずだよ」

「支払い済みって……マヤさんが!? え、ど、どういうこと……?」

 とんでもないことをあまりにもさらりと言われ、脳が混乱する。目が一気に冴えてしまい、私はベッドから起き上がった。そういえば、マヤさんが入院していた頃、何かの折に「看護師になれたのは奨学金の助けもあったけど、返すのが大変」とこぼしたことがあった。その時マヤさんが「私が払おうか」と何の躊躇いもなく口にしたことがある。突然の提案に驚いたけれど、当たり前のように冗談だと思った私は「ありがとう。でも、自分で選んだことだから自分で頑張って返すね」と笑って返したのだ。

「ゆきがそう言うなら」

 当時、マヤさんはどこか残念そうに首を傾げてからゆっくり頷いていた。あれがまさか本気だったなんて。

「なぜって? ゆきの光を曇らせる障害は取り除きたいから。最初は育英会の人たちも困ってたけど、別口で寄付したらスムーズに話が進んだね。安心して、君からの返済も不要だから」

「でも……あんな金額……」

 どうしてそこまでしてくれるのだろう。呆然としていると、衣擦れの音を立ててマヤさんも起き上がった。ヘッドボードの照明を一段階点け、照らされた彼女の顔はどこか沈んでいた。

「迷惑だった? 勝手に払ったのは謝るよ」

「迷惑だなんて! 謝らなきゃいけないのは私の方だよ……私のためにそこまでしてくれるなんて」

「このくらい何ともないよ。私はゆきのためなら何だってできる」

 真っ直ぐに強い瞳が迷いなく語る。初めて出会った日から、マヤさんの言葉は強がりでもなんでもなく、事実だけを語っていた。だからその言葉もまた、疑いようがなく事実であり真実なのだろう。私は、ベッドの上で握られた彼女の拳をそっと包んだ。

「そこまで思ってくれてありがとう……」

 言葉だけでは返しきれないものを受け取りすぎているのはわかっている。到底、等価交換では返しきれないことも。マヤさんは返さなくて良いと言うけれど、私に向けてくれる想いは、私も返していきたいと思った。

「……本当にお金のことはなんともないんだ。気にしないでほしい」

 そう念押しするマヤさんを落ち着かせるようにそっと抱きしめた。時刻は深夜一時をとうに過ぎていて、目は冴えているのに頭の奥がずんと重くなっている。「続きは明日話そうか。もう寝よう?」そう囁きながら手探りでヘッドボードに触れると、部屋は再び闇に包まれる。暗闇に慣れていた目は、光によってまた何も見えなくなっていた。今の私に感じられるのは、手と体に触れるマヤさんの温もりと、ふわりと漂う彼女の甘い匂いだけだった。

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ムーン・ブロッサム ルイ @ramble25

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