第八話 月の輝き

 近頃、なにかが変わった気がする。マヤさんに指名され裸婦モデルを始めてから私の指名は少しずつ増え、ここ一、二週間で急増し、指名ナンバースリーに到達していた。最近よく言われるのは「謙虚でゲストを立てるのが上手い」だとか、「何か自分の中に芯を持っているようだ」だとか、「ふと見せる表情がミステリアスでもっと話して知りたくなる」とか。今までと変わらない接客をしているつもりが、どういうわけか評価が少しずつ上がり、指名も増えていった。今まではどれだけ必死になろうと『可もなく不可もなし』な評価だったのに。

「楽しかったよ」

 最後にそう言って笑顔で去るゲストも増えた。以前の私には滅多に掛けられなかった言葉。私は心からの感謝と共に、笑顔で丁寧にお礼をする。すると今度は「ゆきちゃんは笑顔がチャーミングだね」と言われるようになった。同僚たちにも「ゆき、なんか変わったよね」「いい感じじゃん」と声をかけられることが増えて、私は驚きつつも、それらの評価を受け入れた。受け入れることができるようになったのは、マヤさんのおかげだと思う。

 ゲストを見送り店内に戻ると、サングラスをかけた女性に呼び止められる。支配人のノリコさんだ。

「ゆき、お疲れ様」

「あ……お疲れさまです、ノリコさん」

「ちょっと話、いいかしら」

「はい」

 なんだろう。先ほどのゲストへの接客は特に不備なく終わったはず。でも、支配人であるノリコさんの厳しい目には何かが引っかかったのかもしれない。私は指導を覚悟して彼女の後についていく。カウンターの端に腰掛けたノリコさんと私に、バーテンダーが水の入ったグラスを差し出した。「レモン水よ」ノリコさんがそう言って私に勧めた。お酒が得意ではない私を気遣ってくれたのだろう。ありがたく受け取り、爽やかな香りのするそれを一口飲む。そして、唐突に、ノリコさんがにやりと笑い話しかけてきた。

「ゆき、あなた……恋してるでしょう」

「……けほっ!」

 思わず咽せてしまった。ノリコさんは「あら、大丈夫?」なんて言いながら笑みを浮かべたまま。私は少し熱くなった顔を隠すように俯いた。

「何ですか、いきなり……」

「ふふ……隠さなくていいわよ。最近のあなた、輝き方が違うもの。指名ナンバースリーって、ただの接客じゃ出せない数字よ」

 ノリコさんはからかうようにそう言った。私はドレスの裾を握りしめる。恋──この想いは恋なのだろうか。その疑問を抱いて初めて、私はマヤさんとの関係を深く考えていなかったことに気がついた。それはマヤさんとの関係が、私の数少ない恋愛経験の枠に当てはまらないせいだ。

「私、そんなに変わってない、つもりなんですけど……」

 しどろもどろに返すと、ノリコさんはくすりと笑い、サングラスを外した。彼女の瞳は私の心を見透かすように鋭く、どこか温かかった。

「ゆき、恋する女はね、隠したくても隠せないのよ。貴女の笑顔、仕草、目つき──全部が、愛されている自信で輝いてる。ゲストはそんな本物の光に惹かれるの」

「愛されている、自信……」

 ノリコさんの言葉を反芻する。今思えばおかしな話かもしれないけれど、第三者に言われて初めて、私はマヤさんに愛されているのかもしれない、ということを考えた。マヤさんの大胆さと情熱は生来の気質で、キスや触れ合いも戯れのようなものだと思っていた。なぜなら「付き合おう」と言われたわけでもなく、恋人になってと頼まれたわけでもないから。ただ、彼女のアトリエで二人だけの時間を過ごすこと──たった一か月ほどのその時間が、私には長年当たり前だったことのように感じていた。まるで初めから、彼女と過ごす時間が私の日常の一部であるかのように。マヤさんが向けてくれる感情が優しくて、心地良くて、私は受け取るばかりでその温もりに甘えているのかもしれない。

「ノリコさん……私、正直……愛されてるって感じが、わからなくて……この気持ちが恋なのかも、わかってないんです」

 視線を下げ、グラスについた水滴を指でなぞる。雫がひとすじ、コースターに落ちていった。曖昧な私の言葉に対して、ノリコさんは満足げに笑う。

「だからこそ、なのかもね。愛されてることを自覚していなくても、愛されてる事実があなたを輝かせているの。ゲストを一番魅了するのは、無意識に溢れる魅力よ。もちろん、そうね……リョウは自分の魅力を理解していて意識的にコントロールできる子。彼女がナンバーワンである要因の一つね」

「愛されてる……私が──」

 マヤさんに。口に出して、最後の名前は心の中で呟いてみると、一気にさまざまな想いが胸の内に溢れ、いっぱいになる。湧き起こるそれらが器からこぼれ落ちる瞬間、私は声をあげそうになり、咄嗟に口を押さえた。顔が熱い。きっと今、私の顔は真っ赤だ。

「恥ずかしがる必要ないわ、ゆき。あなた自身は何も変わってない……ただ、外に見える魅力が増えただけ。それにしても、あなたの魅力を引き出したそのお相手、気になるわね」

 ノリコさんの探るような視線に、心が小さく跳ねる。マヤさんの顔を思い浮かべ、胸がきゅっと締め付けられた。でも、その想いを言葉にするのはまだ少し勇気が要る。私ははにかみながら、小声で答えた。

「えっと……まだ、ちゃんと話せないです。でも、すごく大事な人……です」

 ノリコさんは私の答えに目を細め、軽く肩をすくめた。

「そう、いいわ。秘密にするなら、それもあなたの魅力。……ただ、ナンバースリーの座をキープするのは大変よ。しっかりね」

「は、はい。ありがとうございます」

 レモン水を飲み干したところで、ボーイがノリコさんの元にやってきた。言葉の端に「VIPルーム特別利用」と漏れ聞こえ、私が指名されたわけでもないのに心臓が勝手に跳ねる。ノリコさんはボーイの言葉に頷くと、私に軽く手を振りそのままフロアに向かった。そしてすぐに、フロアをゆっくりと横切るノリコさんとリョウ、そして顧客の姿がカウンターから見えた。リョウが顧客と共にVIPルームの黒い扉へと消えていく。あの部屋にはマヤさんの絵があったな、とぼんやり思い出していると、カウンターの端で待機していたバーテンダーが「ゆきさん、おかわり飲む?」と声をかけてくれた。しかし、ナンバーワンのリョウがフロアに不在なら、私もそろそろ戻らなければならない。私はバーテンダーにお礼を言って、熱の残る頬を手の甲で冷ましながらフロアに戻っていった。



 ある日、私はとあるベンチャー企業の社長の指名で席についた。落ち着いた顧客の多いムーン・ブロッサムには珍しく、その五〇代半ばの男性は派手なスーツに身を包み、強引な口調で絡んできた。私は今まで培ったスキルを総動員しながら接客していたけれど、彼の声は次第に大きく、横柄になっていった。

「それでな、その時の商談相手が提示した条件がぬる過ぎたから俺は蹴ってやったんだ! どうだ、痛快だろう」

 手が私の肩に伸びる瞬間、笑顔が一瞬硬くなる。それでも、冷静に距離を取り、話題をそらした。

「社長、さすがですね〜。最近のビジネスのお話、もっと聞きたいです」

 興味を示すと、彼は気を良くしたのか更に得意げに話し始めた。内心ほっとしながらグラスにシャンパンを注ぐ。ボトルをテーブルに置くと、タイミングを見計らったようにボーイが静かに近づいて私に耳打ちした。

「ゆきさん、西園寺様がVIP席でお待ちです」

 マヤさんが? 私は思わず、反射的に立ち上がってしまった。それが良くなかった。気分よく話していた彼が怪訝な表情になり、みるみるうちに不機嫌になっていく。

「おい、聞いてるのか?」

 私は謝罪しようとしたが、ボーイが目配せして前に進み出た。

「申し訳ございません、お客様。VIPの方が彼女をご指名のため、只今、代わりのキャストを──」

「何? VIPだ? VIPだからって横取りとはなんだ! こっちは先に金払ったんだ、最後まで相手をしろ!」

「社長、落ち着いて……」

「うるさい! お前は俺の相手をしろ!」

 周りのキャストやボーイが宥めようとしてくれたが、頭に血が昇ったのか「相手をしろ」の一点張り。隣のテーブル客も迷惑そうな顔でこちらを見ている。支配人を呼ぼうか──迷っていたら、腕をグイと引かれた。ふわりと漂う甘いチェリーの香り。驚く間もなく、私はマヤさんに抱き寄せられていた。

「悪いけど、この子は今から私と楽しむんだ」

「マヤさん……!」

 黒いタイトなドレスに映えるシックなメイク。その洗練された姿は相変わらず圧倒的で、騒がしい場の空気が一気に変わった気がした。喚いていた男性もその空気感にたじろぎ、先ほどまでの威勢の良さがなくなっている。

「な、なんだお前……女のくせに」

「ああ、女だよ。それがどうかした? ねえ、そこの君」

 かろうじて放った最後の悪態さえも軽く一蹴し、マヤさんがボーイにブラックカードを渡す。私は何も言えず、マヤさんの腕の中で事の成り行きを見守ることしかできなかった。

「彼とテーブルについてるキャストの皆の会計、今日の分は全部私につけて。ゆきをいただくお礼にね。さあ、好きなだけ飲むといい」

 マヤさんがにこりと微笑むと、テーブルにどよめきが走った。私は思わずマヤさんの顔を見た。視線に気づいたマヤさんは穏やかに微笑み「心配しないで。どれだけ使われても痛くも痒くもないから」と、私にだけ聞こえるように囁いた。男は赤ら顔で口をぱくぱく開けながら何も言い返せず、状況を飲み込めていないようだった。

「邪魔したね、楽しんで。ああ、あとこの子は今日から私の専属だから、二度と指名しないでね。行こう、ゆき。向こうの部屋でゆっくり話そうか」

 マヤさんに腰を抱かれる。私は慌てて、未だテーブルで戸惑う彼らに軽く会釈をした。VIPルームへ向かう途中、騒ぎを聞きつけた支配人とすれ違ったが、ノリコさんは頷き、アイコンタクトでVIPルームを指した。「ここはいいから、行きなさい」そう言っているようだった。


 VIPルームの扉が閉まると、フロアの喧騒は一気に遠のく。防音された空間ではどんな会話をしても外に何一つ聞こえない。マヤさんに促されるままソファに腰掛け、私は口を開いた。

「あの、庇ってくれてありがとう……でも、お会計を全部マヤさんにつけるなんて……もし、彼が非常識な注文をしたら」

 私のせいでマヤさんに余計な出費をさせるのは嫌だった。悪意のある注文をするキャストはいないとしても、あの男性が当てつけのように好き放題に高額な注文をしないとも限らない。でも、不安に揺れる私の心なんてとうにお見通しなのか、マヤさんは穏やかな表情で私の顔を覗き込んだ。

「心配してくれてるの? 嬉しい」

「喜ぶところじゃないよ……」

 私の手の震えが見えたのか、マヤさんは「抱きしめてもいい?」と訊ねてきた。無言で頷くと、マヤさんの腕がやさしく私を包み込む。

「さっきはごめんね、いきなり腕掴んじゃった。ビックリしたでしょ」

「え……? あ、ううん、平気……」

「ならよかった」

「マヤさんが全部払うって言った方にびっくりしたよ……」

「そうなの? でもね、彼にそこまでの度量はないと思うよ。女に奢られるなんてプライドが許さないって顔してたし」

 マヤさんが愉快そうに笑う。吐息が耳にかかってくすぐったい。回された腕にそっと触れながら「そうかな……」と呟くと、マヤさんは「そうだよ」と断言した。その声は彼女にしては珍しく、嘲笑を含んでいた。

「万が一、彼が……例えばペトリュスを注文したところで、オーナーに話が行く前に支配人が提供するのを許さないだろうね。彼は品位も資産もなさそうだったし……仮に何本シャンパンを開けたとしても、私の痛手にはならない」

「マヤさん……」

 マヤさんは怒っている。そう気づいた。きっと、私のためだ。そう思えるようになったのは、真っ直ぐに私を大切にしてくれるマヤさんの想いを素直に受け取れるようになったから。私はマヤさんの手に自分の手を重ねた。

「あのね……私なら大丈夫。マヤさんが助けてくれたから、本当に平気」

「……平気なわけない。ずっと震えてた」

「うん、でも……落ち着いたよ。ありがとう」

 重ね合わせた彼女の手から力が抜ける。ゆっくりと指を絡め、すぐそばにあるマヤさんの瞳を見つめた。マヤさんの指先が、私の手の形を確かめるように絡む。ぴく、と肩が跳ねる。視線が交わると、マヤさんは切なげに眉を寄せて「キスしたい」と呟いた。私も。そう口にすることはまだできなかった。頷いたり、目を閉じて承諾することはできるのに。見つめあったまま、どちらともなく唇が触れ合った。アトリエでいつも感じる絵の具じゃない、甘い香水の香りがダイレクトに脳を揺さぶる。柔らかな感触が触れては離れ、徐々に離れなくなっていく。私はゆっくりと目を閉じた。マヤさんはずっと「いい?」と聞いてくれるけれど、もう、聞かれなくても良かった。腕や肩に触れられても、キスをされても平気だった──嬉しかった。マヤさんになら、触れられても怖くないんだ。

 どのくらい経っただろう。互いの唇が濡れ、ルージュが落ちるほど口付けを交わした私たちの息は、互いに上がっていた。

「……どうして、君はこんな私を受け入れてくれるんだろう」

 独白のようにこぼされた言葉に、閉じていた瞳を開ける。滲んだ視界が晴れると、泣きそうな顔をしたマヤさんが目の前にいた。いつもの自信に満ちた彼女ではない、まるであの頃に戻ったような脆さが垣間見える表情で。

「本当は、再会した日の夜に『特別サービス』をお願いするつもりだったんだ。支配人から、利用するなら事前に君に話を通すって言われて」

 初耳だった。ノリコさんからそんな話は聞いていない。

「でも……断った。こうやって君を指名して特別な時間を過ごした客がいるのかと思ったら、同じことをする気になれなくて。……キスはしちゃったけど」

「わ、私は……そもそも、マヤさんに会うまでVIPの相手なんてしたことないよ。この部屋に入ったのも、マヤさんとが初めてで」

「うん、わかってるよ。それに……私にとっては、ゆきと過ごす時間すべてが特別な時間なんだ」

 マヤさんが両手で私の頬を包む。真正面から見つめられ、目を逸らせない。

「こうして君に触れられることが、未だに信じられないんだ。君が応えてくれることも。嬉しいのに、幸せなのに……いつか、突然夢から醒めてしまいそうで……苦しい」

 頬から手が離れ、マヤさんが俯く。私は思わず手を伸ばしかけ──止めた。

「……触れてもいい?」

 彼女がいつも聞いてくれるようにそう聞いた。マヤさんは、はっと息を呑んで顔を上げた。私がそんなことを言うとは思っていなかったのか、どこか戸惑っている。それでも「うん」と頷いたマヤさんにゆっくりと手を伸ばす。肩に触れ、そろそろと背中に腕を回して、そっと抱きしめた。私からマヤさんに触れるのは、これが初めてだった。

「……ゆき?」

「私がここにいるの、夢じゃないって……わかってもらえるかな……」

「あ……」

 マヤさんの腕が私の背中と腰に回される。ぎゅっときつく抱きしめられ、私たちの身体は隙間なく密着した。

「君は、また私を救ってくれるんだね……」

 肩口にマヤさんが顔を埋めている。すり、と甘えるような仕草で頭を動かされ、首元がこそばゆくなった。『救う』だなんて。そんな大それたこと──昔も、今も、していないのに。むしろ、私を救ってくれたのはマヤさんの方だ。

「ゆき……キスしてもいい?」

 耳元で、再び甘く囁かれる誘いの言葉。「いいよ」と答えた瞬間、今度は初めから深く口付けられた。

 私は、マヤさんに愛されているのかもしれない──彼女の目が、唇が、手の温もりが、明確な言葉以上に私にそう思わせる。自惚れだったらどうしよう。微かに残るそんな懸念さえ溶かすように、マヤさんはしばらく私を放そうとしなかった。

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