第七話 貪欲
「またおいで」
玄関で名残惜しく唇を離し、頬を撫でる。ゆきはほのかに赤らんだ顔でこくりと頷き「マヤさん、またね」とはにかんで、アトリエを後にした。彼女の乗ったタクシーが彼方に消えるまで、私は玄関を離れられない。
「帰らないで。ずっとここにいて」
彼女を抱きしめてそう懇願する代わりの、精一杯の妥協策だった。
あの日から、ゆきがこのアトリエに来た時、帰る時、挨拶のように唇に触れるようになった。「いい?」と聞く時もあるし、視線で訊ねることもある。触れる前に訊ねることにしたのは、
「でも今は聞いてくれるから……もういいの、大丈夫」
「本当? 時々驚いてると思ってたけど」
「……それは、なんていうか……マヤさんが……」
ゆきが気まずそうに目を逸らした。ほら、今みたいに。何か気掛かりがあるのなら言ってほしい。私はできる限りの真剣な表情になって、ゆきの顔を覗き込んだ。
「私が? なに、言って、ゆき」
「……美人すぎて」
「……は」
あんなに声を上げて笑ったのはいつぶりだろう。まさかゆきが、私に対して外見の美を感じていたなんて! ゆきも私が爆笑するとは思っていなかったのか、顔を隠すように完全にそっぽを向いてしまった。
「そんなに笑わなくてもいいのに……!」
「ごめん、だってそんな理由だとは思わなくて。私は美しい君をずっと見つめていたいけど……君は違うんだね」
「え、だって、美人なひとと一緒にいると緊張しない……?」
「全然。もっと知りたいと思う。もっと近づいて、君をずっと見ていたいと思う」
「私のことじゃなくて、もっと美人なひとのこと」
「うん? 君は美しいよ、ゆき」
首を傾げると、ゆきは口を開きかけて唇をもごもごとしてからきゅっと閉じた。
「ありがとう……私も知りたいよ、マヤさんのこと……でも、そうやって褒められると、やっぱり恥ずかしくて」
「うん」
「イヤなわけじゃないの……それだけは本当だから……ただ、勝手にびっくりしちゃうっていうか」
「わかった、驚かせないように努力するね」
「えっと……マヤさんがっていうより、私の問題だと思う」
ゆきが困ったように微笑んだ。でも、ゆきはこの日から私の言葉──ゆきの美しい色への賞賛──をぎこちなくも少しずつ受け入れようとしてくれるようになった。
八月某日。今日はマネージャーの鈴木奈々とアシスタントの桐原
奈々はゆきが描かれたスケッチブックを捲るたびに息を呑み、ごくりと喉を鳴らした。
「……素晴らしい、としか言いようがないわ。マヤ、これで次の個展の構想を練っているの?」
奈々曰く、スケッチの時点ですでにストーリー性を感じさせるタッチに、『Yuki』の新たな連作としてキャンバスに完成したらどうなるのかと想像せずにはいられないのだとか。服を纏う姿から徐々に服という鎧、殻を脱ぎ捨てていくにつれ、スケッチ上のゆきの表情は恥じらいから少しずつ自信を身につけた魅力へと変化している。線に乗った欲はあれど、モデルの熱までスケッチブックの上に表現する実力は流石だと。奈々がそこまで褒めるのは珍しい。
「うーん、どうしようかな。私はありのままのゆきを描きたいけど、大衆の目に晒したくない気持ちもあるんだよね」
「マヤ……」
奈々はため息をついた。私は時折こうして、描いたものを世に出したくないと思ってしまう。「我儘言わないの」と、奈々に何度も言われたことがある。
「あのねマヤ、そうは言っても、次の個展はあなたの新作を掲示することを条件に会場を押さえているのよ。『Yuki』シリーズの新たな連作として、愛をテーマにするのもいいんじゃない?」
「愛、ね……どうせ、アガペだとか……そういうのを求められるんだろうね」
「今までの『Yuki』の印象なら、そうね。それとも、次は『Yuki』で官能を追求することにしたの?」
私は無言でキャンバスを撫でる。アガペ──無償の愛とは異なる感情をゆきに向けていることは自覚している。だから、奈々が私の作品を見て変化の兆しに気づくのは必然だった。スケッチブックをパラパラとめくっていた奈々が探るように私を見る。私はムーン・ブロッサムで微笑むゆきに色を乗せながら肩を揺らして笑った。
「君には何も隠せないね、奈々」
「あら……あなたがそんなふうに笑うなんて。相当ご機嫌ね?」
「うん、最近とても気分がいいよ」
キャンバスの上で微笑むゆきの唇と目元に桜色を乗せる。少し照れながらはにかむゆきを思い出すと、胸がじんわりと温かくなった。
「でもね、マヤ、『Yuki』の魅力は可憐な乙女……裸婦画は究極の美なのは分かるけど、あなたのこれは少し……エロティックすぎるわ」
「そう? 別に、意識して描いてるわけじゃないんだけどな」
とはいえ、他でもない奈々が見てそう思うのなら事実なのだろう。美憂は逆に目を輝かせながらスケッチを眺めていた。
「そうですか? とても綺麗じゃないですか! 私もYukiのモデルに会ってみたいなあ……マヤさんがずっと描いてきた女性……ほんとにモデルがいたんだ」
「その言い方……ゆきのこと、私の妄想の存在だと思ってた?」
「あ、いえ! そういう意味じゃないです! 憧れの『Yuki』のモデルが本当に存在するってことが実感できて……感激しちゃって」
えへへ、と照れくさそうに体を揺らす美憂は、私の『Yuki』連作を見てアシスタントに名乗りをあげた経緯がある。特にアシスタントを募っていなかった私は断ろうとしたけれど、奈々が珍しく「話だけ聞いてみたら」と言ったので、面接の体で会うことにしたのだ。
「私が描きたいのはまさに、先生の『Yuki』みたいな作品なんです」
キラキラと眩しいくらい輝く瞳で、興奮しがちに語る美憂に圧倒されたのを覚えている。彼女は幼い頃から絵を描くことが好きで、小学、中学の頃は市や県の絵画コンクールで何度も受賞していたらしい。更に絵の勉強をしたいと、美大への進学を見据えて選んだ都内の高校で、彼女は周囲の才能に圧倒されつつも技術を吸収して成長していった。第一志望の美大にも受かり、全てがうまく進んでいると思ったらしい。ただ、美大で描く絵は今までのような絵では到底及ばないことを叩きつけられた。
「君の絵の色彩は美しいが、内面の美が見えてこない」
伸び悩んでいた頃、外部から招かれたとある講師にそう評されたことが美憂の初めての挫折だった。そして、転機でもあった。当時、自分の描きたいもの、描く表現を悩んでいた時期に、美憂は私の個展に足を運んだ。そこで『Yuki』に出会い、雷に打たれたらしい。それまでの悩みが一気に晴れ、目指す道標を照らしてくれたと言っていた。私に師事したいと思ったこと、アシスタントとしてなんでもする代わりに制作中の様子を見せてほしいことを情熱的に語ってくれた。そこまで言うなら、と半ば気圧されるように了承してから、美憂は大学の授業が空いている日や休日にアトリエに来るようになった。当初しばらく『先生』と呼ばれていたが、特に指導することもなく柄でもないから先生呼びはやめてもらった。美憂が奈々の姪だと知ったのは彼女をアシスタントにすると決めた後のことだ。奈々曰く「できるだけフラットにあなた自身の目であの子を見て判断してほしかった」だそうだ。
私が『Yuki』を描いていると、手を止めてじっと美憂に見られることが多い。「モデルがいるんですか?」と聞かれて頷いたことがあるが、詳しく話したことはない。ゆきと過ごした思い出は私だけの至宝だから。
「ゆきには久しぶりに会えたんだ、機会があれば紹介するけど……もう少し独り占めさせて」
「あっ……すみません」
美憂が固まり、頬が赤くなった。奈々はため息をついて「美憂をからかうのは程々にね」と言った。
「からかう? 本当のことだよ」
「ひゃー……あのう、本当にマヤさんですか?」
「どういう意味?」
「えっと、なんて言えばいいんだろう……奈々さんならわかりますよね? 『あのマヤさんがそういうこと言うんだ!?』って感じ」
両手で赤い頬を包む美憂に話を振られた奈々は、スケッチを眺めながら苦笑した。
「ええ、言わんとしていることはわかるわ」
「私にはさっぱりわからないよ」
首を傾げながら再びキャンバスに向き合う。そういえばゆきも『まさか、マヤさん!?』と言って驚いていたな。再会の日を思い出して口元が勝手にゆるんだ。奈々が穏やかに続ける。
「少なくとも私や美憂と出会ってから、マヤは一人の人間にそこまで執着したことはないでしょう? だから、美憂は驚いているのよ」
「ふぅん、そうなんだ」
「もう。他人事みたいに言って」
「他人事っていうか、そこに驚くものなんだなって思っただけ」
私が肩をすくめると、奈々はスケッチブックから視線を上げた。
「崇拝の域に達する執念──とも言えるわね。この二年、あなたはYukiばかり描いてきたでしょう。Yuki以外の作品は……お得意先にどうしてもって言われた二、三回くらいで」
「そうだったね。気乗りしなかったけど……あれは君と悠玄の顔に免じて描いたようなものだよ」
私の得意先というよりは、悠玄の得意先だ。いずれもゆきと出会う前から私の作品を好んで買い求める顧客で、それまでの作風とは全く異なる『Yuki』連作を描き始めてからも、定期的に作品を買い求めているらしい。その顧客の中で「西園寺マヤの新作抽象画が欲しい」と希望する者が数人いた。悠玄は私に対して「描く作品の方向性に対して意見するつもりはない」と言ってくれていたし、顧客にも「マヤに顧客の希望のものを描かせることはできない」と言って断ってくれたのだ。しかし、顧客に「ダメ元で頼んでみてほしい」と何度も強く依頼され、仕方なく奈々を通して話が来た。彼が話を持ってきた時も、丁寧に詫びてくれた上で「断ってくれても構わない」と言ってくれた。万が一受けてくれるのなら購入価格は通常の倍以上を約束すると。悠玄はそう言っていたが、奈々によるとその顧客はかなり私の作品を購入しているようで、無碍にもできない相手らしい。学生時代から今までずっと自由に描かせてもらったぶん、親孝行のつもりで今回限りとして受けることにした。結果、倍どころかプレミア価格がついて相当な高額で売却された。
「渋々描いたのがよくわかるタッチだったわね……それでもあなたの作品は圧倒的。先方は満足していたわ」
「彼らは私のネームバリューがほしかっただけでしょ。描くからには真面目に描いたけど、昔ほどこだわりはなかったかな」
「こら、そういうことは言わない約束」
はいはい。と心の中で返事をして、私は意識を目の前のゆきに戻した。美憂が奈々の持つスケッチブックを覗き込む。
「執着っていうか……私は愛だと思いますよ。だってこれって、マヤさんと一緒にいる時のYuki──ゆきさんを描いたんですよね?」
「うん、そうだよ」
「それならもう、絵が答えじゃないですか! これまでの『Yuki』も優しい笑顔で素敵だったけど、新作のYukiは優しいだけじゃないっていうか……その、奈々さんが言うみたいに官能も確かにあるんですけど、信頼感も感じるっていうか。こっち側を見つめる構図は特に」
「信頼感……ね。確かに美憂の言うことも一理あるわ。ただ暴かれているだけじゃない彼女の強さ、とでも言うのかしら」
奈々が神妙な顔で頷く。彼女たちが言うように、ゆきは私を信頼してくれているのだろうか。
「マヤさん、次の土曜日、アトリエに来ちゃだめですか? ゆきさんに会ってみたいです」
「だめ。まだ独り占めさせてって言ったでしょ」
「でも、ほら、絵を描くなら優秀なアシスタントがいないと! キャンバス運んだり、画材やセットの移動とか──」
「スケッチブックに描いているから、優秀なアシスタントがいなくても問題ないよ。それに……ゆきは恥ずかしがり屋だから」
「あ……ええっと」
美憂も大学で裸婦画をスケッチする機会はあるだろう。しかし、ゆきは正式な裸婦モデルではなく私が依頼した一般モデル。私の前で全ての衣類を脱ぎ去ることさえ時間がかかったのだから、他の人間がいてはまた萎縮してしまうだろう。ゆきを描く時のアトリエは平時よりも厳格に、侵し難い聖域となる。
──そんな尤もな理由はすべて建前だ。言葉どおり、私はゆきを独り占めしていたい。ソファに座ったゆきの首筋の影、緊張で結ばれた唇、ほうと吐き出される吐息……全てに釘付けになってしまう。彼女のすべてを自分だけのものにしたいと思ってしまう。『Yuki』を神聖視している美憂に、私がゆきに対して感じる暗い部分を見せたくなかった。
軽い打ち合わせを終えて、帰宅のため奈々と美憂は車に乗り込んだ。アトリエの駐車スペースに置かれた奈々の愛車の色は、燃えるようなソウルレッド。随分と派手な色を選んだと家族や知人友人からは驚かれたと言っていたけれど、私は奈々に似合うと思う。彼女ほど絵に対して情熱を燃やす人はそういないから。それに、真っ赤な車は遠くから見ても目立ってわかりやすい。
「あーあ、今週のマヤさん交渉も失敗に終わりました……」
「ふふ、残念だったわね。マヤ、それでも一度は私たちに挨拶の機会を作って頂戴。ゆきさんの都合が良ければ、だけれど」
「聞いておくよ」
「約束ですよ! マヤさん!」
助手席から身を乗り出す美憂に手を振り、私は車を見送った。
また土曜日がやってきた。真夏の日差しの中、いつものようにゆきがアトリエに来る日。玄関で出迎え、すぐにドアを閉めた。ゆきの汗ばむ額にくっついた前髪を指で撫でる。「いい?」と口に出す前に彼女が目を閉じたから、私はそっと唇に触れた。柔らかな唇をもっと堪能したい衝動を堪えて離れると、ゆきは「今日も暑いね」と照れたように笑った。
夏本番を迎えてから、ゆきはシャワーを浴びてからモデルをするようになった。衣服を一つも身に纏わないから、清潔な状態で臨みたいと。以前、私自身もシャワーを提案したし、ゆきがそう言うならと、ゆき専用のバスタオルとバスローブを新調して毎週用意した。シャワールームから出てきたゆきがバスローブを脱ぎ、ソファに寝そべり集中する。ゆきはもう身体を隠すことなく、リラックスしてソファに身を委ねている。私はスケッチの手を止めずに聞いた。
「次の個展で、愛をテーマに君の裸婦画を展示するのはどうかって打診されたよ」
「えっ」
ゆきの集中が途切れ、顔が赤らんだ。二人きりのアトリエでは『芸術』と割り切れるようになったのか、最初の羞恥は無くなったゆきだが、それが衆目に公開されるとなれば話は別のようだ。ゆきはソファに敷かれたシーツを手繰り寄せ、身体を隠してしまった。
「私の……ら、裸婦画を?」
「うん。私はあんまり気乗りしないけどね。マネージャーが熱心でさ」
「え……? マヤさんは気乗りしないの? やっぱり、相応のモデルじゃないと……?」
「うーん、そうじゃなくて」
カランと鉛筆をイーゼルのケースに放り、ゆきに近づく。シーツからのぞく白い肩や胸元、脚に目を細めて「触れてもいい?」と聞いた。今までスケッチ中にゆきに触れたことがないせいか、ゆきは戸惑っていた。けれど、すぐにこくんと頷いてくれた。私はゆきの流れる黒髪を手ですくった。
「こんなに美しい君を、衆目に晒したくないんだよね」
「!」
真っ直ぐに彼女の目を見つめながら伝えると、ゆきの頬に赤みが差した。
「わ、私は……モデル体型でもないし、素人だよ?」
「うん、素人だろうが、プロだろうが……それは関係ないかな」
「え、あっ……」
シーツを手繰り寄せているゆきの手に触れる。指を絡め、腕を外すとシーツが容易くはだけた。胸元から下が再び露わになる。彼女は自分自身をモデル体型ではないと謙遜するが、あまりに過小評価すぎる。程良く引き締まった身体は健康的で、それでいてまろやかな曲線は彼女の優しさを際立たせる。もう片方の手で彼女の身体に触れると、ぴく、と僅かに震えが伝わってきた。
「いや?」
「……ううん、ちょっと恥ずかしい……だけ」
微笑むゆきを見て、描きかけのキャンバスに乗せたあの桜色を思い出した。やはり、彼女の色は誰よりも何よりも美しい。彼女の色を絵に描き出して、永遠に残したい、二年前からずっと変わらない想い。私がゆきを描く上での原点であり、根底にある不変の信念のようなものだ。腕がもう一本、いいや、体がもう一つ欲しいと思った。
「君は……こんなにも美しい」
今、この瞬間の彼女を描きたい。でも、彼女に触れていたい──決して同時に叶わぬ願いに歯痒さを感じた。私はどこか恍惚とした気分になっていた。声色にもそれが滲んでいたかもしれない。ゆきは小さく震えつつも「ありがとう」と私の言葉を受け取ってくれた。
視線と指先は胸元のやわらかな丸みをなぞり、窪んだ臍のふちを撫でて、閉じられた下腹部の脇を辿る。時折、ゆきの吐息混じりの声が耳に届いた。腰の曲線に触れ、太もも、つま先まで行く頃には手のひら全体で彼女の身体を確かめた。この目と手で、彼女の美しさを覚えていられるように。
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