君と僕の融解 後編

「由香里、地球に残るんだって」


 一ヶ月前、地球に隕石が落ちると世界の有力な科学者の何人もが予測した。それは99%確実な予測だった。だから我々は、前々から進んでいた火星移住計画を早めに早めた。人間の火事場の馬鹿力というものは、我々の想像よりずっと大きな奇跡を孕んでいる。二週間もすれば、人口のうち金を持ってる方の半分は逃亡に成功してしまった。そんな時だった。地元の道を歩いていたとき、恐らく由香里と同じ施設の子の会話から、由香里が逃走をやめたことを知った。

 元々、ぼんやりとこの星に残りたいと思っていた。だが、決定打がなかった。だから両親に引き摺られて火星に行くはずだった。でも、由香里が残るなら。由香里の気持ちも、中一以来なにをして、何を考えていたのかも、何も知らない。でもね、由香里。私、謝りたかったの。私、後悔してたの。私、ほんとはあなたから離れたくなかった!でも、離れなきゃいけなかったから、“成り行きで疎遠”を演じてたけど、ほんとは、ほんとは……!


 ロケット発射予定日の朝。母は私に尋ねた。

「それで、火星に行く決心はついた?」

「行かない決心がついたよ、お母さん。私、由香里との約束を守る。」

「約束?それは、命より大切なものなの?」

「ええ、大切よ。お母さんにもあるでしょ?命よりも大切なもの。命がいちばん大切とか、命がなきゃ何も始まらないとか、そんなことを言ったって、存在をなくすことはできないものがこの世にはある。綺麗な言葉で蓋をしたところで、その器の中にそれが存在することは変わらない。私はこの約束を守る。お母さん、ごめんなさい。でも私は、この約束を破ってまで生き延びたいと思えない。」

「……母としてあなたの意志は尊重したい。でも、母としてあなたの意志は尊重できない。」

「言うと思ったよ。でも私のこの決心はお母さんにも変えられないから。死ぬ前に喧嘩なんてしたくなかったけど、仕方ない。お母さん、ごめんなさい。お母さん……大好き。」

 私は、どこか物寂しそうな顔をしていたと思う。財布とスマホと、ずっと前から死んだら棺に入れて貰おうと決めていた熊のぬいぐるみを抱えて。


 母は追ってこなかった。なのに私は誰かに追われているかのように、最新の自転車を、陸上部女子の最強の脚で漕いで、漕いで、漕いで、無心で漕いだ。それは本当は、揺るぎのない決心だった訳ではなかった。だから「何も考えない」を考えて、数秒前の思考を道に落として行くようなスピードで漕いだ。そこは人を失った星だった。誰とも事故を起こしそうにもならなかった。寂しくなりそうだった。寂しくなりそうになる度それを振り落として、光も驚く速さで、これから見慣れるはずだった通学路を駆け抜け、たった一人の元へ走った。そして。


「逃げなかったんだ。」

 それは、すでに知っていたはずの事実。ただ、再会の言葉をつなぐためだけに出た咄嗟の挨拶。彼女は、シニカルな青空の下、思い出を宿す草原の上で黄昏ていた。



 

「私はここで、あなたと一緒に死ぬの。それが私の、青春なの。」

「……どうして、そこまで?」

「どうしてって、何が?」

「どうして私なんかに、そこまで賭けるの?」

「それは由香里が大切だから……」

「大切なら、どうしてあのとき、私を離したの?どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの?」

「それは……。」

「もっと、別の理由があるんでしょ?」

「……。」

「小百合、ほんとのこと話してよ。」

「……。」

「最後の、最期なんだよ?」

「……ううん。」

「なんで!」

「……お墓まで、持ってくよ。」

「私たちのお墓は立たないよ!」

「そうだね、あはは。」

「なに、笑ってんの。おかしいよ。ふふ。」

「ねえ、そんな話より、もっと他のこと聞かせてよ。」

 笑顔。最期には相応しくない、不謹慎な笑顔。あなた達にとっては。私たちにとっては、ようやく会えた大好きな人に、やっと見せれた大切な笑顔。他にもたくさん話した。最後に話したあの日の続き、高校での話。口から出るのは思い出だけ。ないものを語っても仕方がないから、未来の話はしない。女子高生が電車の中とかでする、傍から聞いたら何が面白いのかわからない、身内ノリでしかない談笑。

 この時間が永遠に続くと思った。でも。


 命の終わりって、本当に存在するんだね。


『地球にお残りの皆様、隕石はあと五分で地球に衝突する見込みです』

  

 機械の無機質な声が、人を失った無機質な街に響き渡る。十分前からずっと、一分ごとにカウントダウンされていたが、私たちは二人で耳に入らないフリをしていた。


「由香里、あのね。」

 小百合がついに、重い口をこじ開けた。

「なあに?」

「私、由香里のことが……好きなの。」

「私も好きだよ?」

「えっ、いやあの、そうじゃなくて、その、魔王に連れ去られたヒロインが主人公に助け出されたみたいに、授業中にペン落としたとき隣の男子も拾おうとしてくれて手が触れ合っちゃったみたいに、そういう風に……」

「……え?」

「ごめん、ごめんね、由香里……」

「もしかして、私から離れていったのは……」

「……うん。私は普通じゃないから。由香里は多分、これから普通に男性を好きになって、男性と付き合って、男性にフラれて、それでもまた男性を好きになって、最後には男性と結婚して……。それを邪魔する資格なんて、私にはないから……。」

「小百合なら、よかったのに。」

「……え?でも、由香里は……。」

「確かに、私はこれまで男性に恋をしてきた。中一のときも多分、同じクラスの男の子が好きだったと思う。けど……。」

 

『地球にお残りの皆様、隕石はあと五分で地球に衝突する見込みです』


 アナウンスに遮られた会話を、小百合が繋げる。

「けど?」

「けど、私、誰かに『好き』って言われたら、その人のことを簡単に好きになっちゃうと思うんだよね。それが男の子でも、女の子でも。」

「ちょろかったの?」

「ちょろかっんじゃない、ちょろいの、今も。私は、愛が欲しかった。私にはそれしかなかったのに、それすら取り上げられてしまったから。恨むよ、小百合。もしあなたがちゃんと告白してくれていたら、私たちは今よりずっと幸せだったのに。」

「……まあ、恋愛って、そういうものだよね。」

「逃げないでよ。」

「逃げてないよ。事実を言っただけだよ、事実。」



 

『地球にお残りの皆様、隕石はあと二分で地球に衝突する見込みです』

 

 小百合が手を握ってきた。それは、私の心を強く揺さぶるように震えていた。

 

「生きていたかったなあ」

 

 その言葉が、私の中の大切なものに強く体当たりをする。その衝動であふれ出したものを涙と呼ぶのだろうか。いつか諦めたはずの生が、心の金庫の中で蠢きだす。

 

 早く殺してくれ!

 この邪魔な本能が、悪あがきして奥底から這いずり出てくる前に!

 私たちの愛が後悔に変わる前に!


『残り一分』


 早く尽きてくれ、いや永遠に尽きてくれるな。

 死と直面する人間はみなこんなことを思っていたのだろうか。いや、違うだろう。私はこの死を自ら選んだではないか。選べただけ幸せなのではないだろうか。

 ――そんなことはない。私にはこれ以外の選択肢などなかったのだ。たとえ故郷を捨てて生き延びたとして、火星で待っているのは幸せなどではない。残酷なの続きなのだ。だから故郷と爆ぜることを選ばざるを得なかったのだ。

 自殺をという言葉には語弊がある。選んだのではない。そうするしかなかったのだ。追い詰められた人間に選択肢があると思っているうちはわかりあえない。”選ぶ”余裕のある人間は自死のほうに流れない。


「大丈夫だよ。大丈夫。」

 何が大丈夫なのかはわからない。ただ、彼女と幸せに融けたかった。そのために彼女に笑ってほしかった。

「うん、そうだよね。今更どうしようもないんだよね。」

 彼女の震えを押さえつけるように強く抱きしめる。そこには天国のような心地よい温かさと甘い香りがあった。なんとなく、大丈夫な気がした。このまま二人、ずっとこの聖域で呼吸をしていくような気がした。


「ん……」


 突然、小百合に唇を奪われた。それでも別に、大して驚きはしなかった。むしろありがたい。これでもう未練はない。あの日から探し続けていた愛が、口腔に侵入して、喉を伝い、私の身体でいちばん温かいところに届いたから。


 私たちはもう苦しまなくていい。愛を探し求めてゾンビのように腐った身体を引きずることも、愛を隠し通すために自分と自分の心とが喧嘩して勝手にすり減ることもない。

 四年ぶりの言葉が落ちた。

 

「幸せだなあ。」


 そのとき、聞いたこともない轟音が耳を裂く いた。従来の震度では物足りないほど大地が揺れる。生命を根こそぎ奪わんとする熱波が身を融かす。動物も植物も、無機物も有機物も、なにもかもが焦げるにおいが鼻を突く。自分の融けた肉が最後の晩餐となって口に流れ込んでくる。目をつむっても貫通してくる白い光が視界を焼く。私と彼女の皮膚が液体になって混じり合う。

 二人は抱き合ったまま融けた。二人の身体の境界を示す線はもうない。それが、今まで享受したどんな幸福より濃厚だった。


 私たちは一つになった。私たちの聖域を侵す者が再びその星に現れることは決してなかった。

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君と僕の融解 上葉てふてふ @ChoChoKawakam1

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