君と僕の融解
上葉てふてふ
君と僕の融解 前編
地球に残った人間はずいぶんと減ってしまった。
みんな火星に逃げたんだ。ロケットに乗れるのは金持ちだけのはずだったのに、みんなの「生きたい」という気持ちが、土壇場でようやく国の金を動かした。政府は、できる限り多くの人間を生かそうとした。
それでも、置いて行かれる人間はここにいた。もうすぐ隕石が降りしきり、先人たちの記憶も願いも融かされる。そんな地球に、私はいた。空を見上げた。青い空だ。賢人たちが命を縒って繋いできた、知識と経験に基づく絶対的な予測を否定するかのような、そんな美しすぎる青だ。
私から流れ出した時間が、胸を、腹を、足を伝って地面に零れる。そこには何も残らない。時の蒸発は早すぎる。
私だって、地球の終わりまでこうやって時間を浪費したいわけではない。ただ、やることがないのだ。夢や希望は、先に逝った。天国で会えるわけでもない。さて、どうしたものか。流石に何もせず最期を迎えたくはない。自力で走馬灯でも流そうか。
私が生まれたのは十六年前、夏。貧乏な家だった。食材は激安スーパーから、雑貨はリサイクルショップから。周りにある家具はすべて中古で、新品の喜びを知ったことはない。
それでも、幸せだった。母の手料理は地元で一番美味いと名高いレストランの味に
物心がついた頃から家の貧乏さに気づいていた私は、そのちいさな身体から溢れるほどの喜びと、わずかな申し訳なさを抱いていた。私がヒーローの変身道具のおもちゃが欲しいと言ったとき、ダンボールのハリボテを作ってくれた。本物を手に入れたかのようにはしゃいだ記憶が鮮明に残っている。商品よりも、その愛が嬉しかった。両親は、私が嬉しいと言えば喜んでくれた。私が不満そうにするといつも気にかけてくれた。
「幸せだなあ。」
それが、私の口癖だった。
そんな両親は、私の成人どころか、制服姿も見届けることなく亡くなった。私が小学校の修学旅行で留守にしていた間、内緒で二人だけのデートに行った帰り、居眠り運転に殺された。それは私が小学五か六年生と、そこそこ大きくなったときの話だったはずだ。遠い昔というわけではない。それなのに、人間の防衛機制とは優秀なもので、その最悪の記憶は黒というより白で塗りつぶされている。思い出せないというより、その記憶が抜け落ちた。
絶望の中、私は施設に預けられ、「愛」を奪われた。そして、この施設にもとにかく金がなかった。雀の涙ほどしかない親の遺産は、全部施設に吸われた。そしてつい先日、施設のスタッフが火星に行く金を捻出するために溶けた。当然、施設にいた他の子にも金は回らなかった。だから、施設の友だちも私も、火星には行けないはずだった。最後の最後になってようやくほとんどが政府に拾われたが。当然私にも政府から保護の声がかかった。
だが、私は生きることを諦めていた。火星に行ったところで、身寄りがないことも、金がないことも変わらない。再び誰かから愛を享受することも期待できない。それどころか、今よりも苦しい生活が待っているだろう。それなら、故郷とともに爆ぜたほうがきっと幸せだ。
そのはずだ。
「あっ、
その声がしたとき、私の思考は彼女への謝罪で満たされた。こんな希望の象徴がまだこの地球にいたのに、絶望の走馬灯を見て生を蔑ろにしてしまった。
「
小百合は私の幼馴染のボンボンだ。金だけじゃない。美貌も、才能も、私の欲しかったもの、全部持ってる。でも、あまりに優しいから、嫌いになれない。むしろ大好きな、たった一人、私に愛というものを与えてくれた第二の母だ。
「うん、由香里も逃げなかったって聞いてね。いや、私も逃げるか悩んだんだよ?火星には住んでいくのに十分な設備がある。娯楽も用意されてる。すでに逃げた友だちも、居心地がいいと言ってた。でもね、たった一つ、致命的な欠落があるの。」
そんなものはない。彼女が今自分で言った通り、火星には全てがある。これから地球が失うもの、全て。
ある人は今の火星をこう評した。「科学者たちの努力の天体」。またある人はこう言った。「先人たちの記憶と願いの結晶」。賢人たちが知恵を振り絞って、地球の自然環境を火星に再現した。地球に隕石が落ちると予測されるずっと前から、いつか温暖化や人口増加等によって訪れる崩壊の未来に備え、火星への移住を計画していた。インフラはもちろん、通信環境さえもとっくに整備されている。今の火星に欠如はない。これから地球に隕石が落ちることによって、完全な地球の上位互換と化すのだ。欠落なんて――
「由香里がいないでしょ。」
今までのぐちゃぐちゃとした思考が、彼女の声で白紙に戻る。そして新たに、彼女に対する疑問が白を塗りつぶしだした。脳が司令を放棄して、制御の効かない口が勝手に動く。
「えっ、と、ばっ、馬鹿じゃないの?私は、小百合みたいな善い人間が、命を手放す理由を持っているほど価値のある人間じゃない!」
「確かにそうね。傍から見たら愚かで仕方がない。中学からもう疎遠の友だちのために命を手放すなんて。でもね由香里。私はあなたのこと、“中学からもう疎遠の友だち”なんて思えないの。」
「だとしても、ここで死ぬなんて馬鹿げてる!まだロケットの打ち上げは間に合うらしい。現に今も――ほら、空を見て。ロケットが幾つも飛んでるよ。貴女も……」
「もう遅いよ!確かに打ち上げは間に合う。今からでも手配はできる。でも、たった一つ、もう間に合わないものがあるの。私の気持ちよ!誰にも動かせない。あなたの言葉でも。私はここで、あなたと一緒に死ぬの。それが私の、青春なの!」
青春。その言葉が引き金を引いた。私の記憶の。最悪の現実の中で埋もれてしまった、幸せな記憶。
「私たち、ずーっと一緒にいようね!」
三年前の、中学一年生の小百合がそう言って微笑みかけてくる。確かこれは夏休みの記憶。そうだ、夏祭りの帰り道、塾や習い事を一切してこなかった箱入り娘の私が、初めて子供だけで歩いた夜道で誓わされた約束。私はなんて返したのだっけ。
「本当に?約束だよ?」
ああ、そうだ。孤独だった私にとってその言葉は、懐中電灯だった。私のそばで、私の手元で、私にだけ光を与えてくれる、そんな存在。
「うん、約束だよ!絶対に、ぜーったいに!由香里といると、本当に楽しいんだ。由香里は可愛いし、頭良いし、面白いし、最高の友達だよ。だから、死ぬまでずっと一緒にいてね。」
「……しょうがないなぁ。」
困ったような笑顔でそう伝えた。よく覚えてる。ただ心を、嬉しいという感情だけが支配していた。
「学生のうちはたーくさん青春して、大人になったら支え合って、おばあちゃんになるまで仲良くしてね。ずぅっと一緒にいてね!」
「青春、できるかなあ。」
「できるよ!私と由香里、2人いること。それ自体が何よりも美しい“青春”!」
言ってる意味はよくわからなかったけど、すごく嬉しかったのを覚えている。でも、小百合、あなたはその青春を捨てたよね。
そう、私は由香里との青春を捨てた。
中学一年生のとき仲が良かった私たちだが、二年生からはクラスが別れてしまった。更に、二年生のときの私のクラスには、小学生のころの親友が転校してきたせいで、由香里よりもその親友と時間を共にすることが多くなった。だから、由香里とは同じ中学にいながら疎遠になってしまった。部活が違うから、一緒に帰ることはなかったし、朝練のせいで一緒に登校することもできなかった。私が勉強と部活を両立させるのに忙しくて、一緒に遊ぶことも少なくなってしまった。休み時間はその親友がいたから、わざわざ違うクラスの由香里に会いに行く必要もなかった。そしてそのまま、距離が遠くなったまま、私は私立の、彼女と別の高校に行くことを選んでしまった。学力は同じくらいだったから、同じ高校を選んでいたらまたあの頃のように仲良くできたかもしれない。あの親友は全く別の、遠くの高校に行ったから、乗り換えるようになってしまうけれど。
でもね、違うの。あなたは私に騙されているの、由香里。
これは、成り行きじゃなくて、偶然じゃなくて――。
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