鏡の館編

第5話 一通の依頼

 十一月の雨は、まるで誰かの記憶を洗い流すかのように静かに、しとしと、退屈の空気を塗り潰すように降る。窓硝子を伝う雫の向こうに、東京の街はぼやけて見えた。煎れたばかりのコーヒーの香りが漂う中、一通の封筒を持った葛西が扉をノックした。


「お嬢さま、速達でございます」


 扉を開ける。

狼が遠吠えする姿、珍しい紅崎くれざきの家紋が押印された封書が差し出された。

差出人は『紅崎陽一郎くれざきよういちろう』。

 封蝋ふうろうの跡はべったりと重く、インクの香りがわずかに漂っているように思えるほどだ。昨日に封をしたのだろう。それぐらいに新しい。

 葛西は、「何かあれば仰ってください」そう言って、廊下へと下がった。


 息を押し殺し、封を切ると整った短い文章が書かれてあった。


 ――「父の容態が悪く、最後に君に会ってほしい」。


 麗子は長いまつ毛を伏せ、唇を指でなぞりながら、ゆっくり息を吐いて黙りこんだ。婚約者候補の一人でもあった紅崎陽一郎、昔、彼の邸宅に招かれたことがあった。そう、あれは中学生の頃、私は鮮明に覚えている。私の日常を破った出来事が起きた、あの屋敷で『初めて遺体を見た』のだ。


あの事件はどうなったのだろう。

 奇妙な鏡の間、あそこで、事件が起きて、葛西が迎えに来た。麗香を屋敷に連れ帰った。


「葛西!」


 扉を開けて叫ぶと、少し離れた廊下から葛西は飛んできた。


「紅崎陽一郎のお父上さまの容態が悪いそうです。すぐに行きます。薪尼まきにに準備をさせなさい!」


「ははl」

 頭を下げる。


「まず、霧谷先生の事務所に向かうから、すぐ入口に車を回して頂戴!」


「霧谷? あの探偵ですか、なぜ、紅崎邸に向かうのに、寄り道をされるのですか。一体、どういうことでしょう」


 麗香は頷く。


「もう、何年前になるかしら、私が中学時代、紅崎邸で事件が起きましたね、葛西、貴方が迎えに来てくれたのを覚えていますか。あの事件を再び、私が解きに参ります。そのために、霧谷先生の助力が必要です。私は彼の全てを学び、あの人の元に近づく必要があるのです!」


 葛西は頭を下げた。


「なるほど、『ぬらり』……さまに会うために、未解決事件の解決をお嬢様がなされるというのですね」


「……、やはり、あの事件は未解決なのですね」


 葛西は、はっきり答えはしなかったが、麗香にはそれで十分であった。薪尼まきにが呼ばれ、護衛として麗香に付き従うことになった。





 板橋区にある古い町並みが残る場所、その小さなアパートの周りは人通りも少なく寂しく活気はない。その場所に、不釣り合いな何とも似つかわしくない黒塗りのレクサスが到着する。


 運転席から降りて来たのはラグビー選手のような屈強な身体の持ち主である薪尼であった。いつものように後部座席の扉を開けようと反対側に回り込むが、今日の麗香は自ら扉を開け駆け出した。


「あっ、お嬢様」


 薪尼は見たことの無い活発なお嬢様の様子に、驚く。鉄の階段をカンカン、と音を鳴らせ、三階まで駆け上がった。今日の麗香はヒールでなく運動靴を吐いている。


 築五十年は経った所々補修痕のある壁の前を走り、壊れたぐらつく手摺を掴んで一番奥の部屋にやって来た。『霧谷透真探偵事務所』と看板があがっている。小さいブザーだけの呼び鈴を見つけ、指で叩くように押すと、外からでも聞こえる、ブーという音が鳴るが返答はない。


「先生、事件の依頼に来ました」


 麗香は子供のように、はしゃいでいた。返事がないので、ノブに手を掛けると簡単に扉は開いたので、お構いなしに室内に入ろうとした。クシャと靴が何かを踏む。足元を見ると、扉の隙間から放り込まれたのだろうか、一通の封書が落ちていた。


 麗香は一瞬でそれが何かに気づいて目を輝かせる。


「先生! 大変です、手紙が来ています」


「うるさいな、朝っぱらから誰だよ」


 上半身半裸の霧谷が、腰にバスタオルを巻き、濡れた髪の毛をタオルで、わしゃわしゃと拭きながら現れた。


 麗香の悲鳴に、薪尼が扉を越えて室内に入って来た。

 半裸の霧谷と、赤面し顔を隠す麗香がいた。


「きさま、お嬢様に何をした!」


「おいおい、勝手に入ったのは、そっちの女だ。今、被害に会っているのは俺のほうだぞ」


「うるさい、とにかく服を着ろ!」


 霧谷探偵事務所は、彼が住む自宅と兼用である。その方が、生活の一切を経費で落とせるからという理由でそうなっている。入口から入ったリビングは土足オッケーの探偵事務所オフィスになっているが、その隣室は、寝室と浴室になっている。


「何か探偵の依頼だとか言ったが、そもそも、探偵業は十一時からだ。今は、まだ営業時間外だから出て行ってくれるか」


 麗香は唇を結び、「先生……」と意を決し、顔は下をむきながら、視線は半裸の男を見つめながら封筒を差し出した。


「なんだ、その封筒は?」


「扉の所に落ちていた手紙です。ぬらり様からのようです!」


 霧谷が手を伸ばした瞬間、バスタオルが落ちた。

 再び、麗香の悲鳴が響き、今度は薪尼がタオルと霧谷を掴んで、隣室へ放り込んで押し込んだ。

「早く、召し物を着なさい!」

「それより、その封書を……」

「服を着ろ」

「封筒を見せてくれ」

「うるさい、早く着ろと言っている霧谷透真!」

 しばらくやり取りが続いたが、舌打ちした霧谷が折れて、ジーパンにTシャツというラフな霧谷が現れた。


 落ちていた封書を再び渡された霧谷は、裏面の『ぬらり』という差出人を見て、クスリと笑うと、一切気にせずに指で千切って封を開けた。


 一通の手紙を取り出す。


『ほどなく、麗子より招待状が届くだろう。百面鏡ひゃくめんきょうの間で会おう  ぬらり』


 横から封筒を覗き込んだ麗子が、眉をピクリと上げた。


「ぬらり様~、私に手紙をくださるなんて……」

「いや、これは私への手紙だぞ」


「でも、私は霧谷様の助手になりました。その霧谷様への手紙ということは、私への手紙と同じです」

「助手と言っても、まだ数週間だ。しかも、事件に協力もせず、ここに来ては茶を飲んで帰るだけじゃないか」


 実際、麗香は毎日のようにやって来ては、何もせずに帰る。もう一人の助手の本多は、日々、依頼を熟しているというのにだ。


「霧谷先生、私、行方不明の飼い犬探しや、旦那さんの浮気調査などをするために、助手になったんじゃありません」

 探偵業に勤しむつもりはあったが、麗香にとって、通常の依頼に興味はなかった。

「探偵業の大半はそんなものだ」

「いいんです。そんなお仕事は、本多さんにやってもらい、私たちは、この事件を担当しましょう」


 麗香は一通の招待状を取り出した。

 そこには、紅崎陽一郎を名乗る男からの短文の手紙が入っていた。


『父の容態が悪く、最後に君に会って欲しい』


「なんだ、これは、事件というより、君に個人的にきた手紙の様だが……」

 ただ、はしゃいでいた麗香の瞳が色を帯びたように濃く見えた。僅かに口元が上がる。


「先生、『百面鏡ひゃくめんきょうの間』とは、紅崎家の別邸『翠霞荘すいかそう』にあります。そして、現在、陽一郎の父、紅崎宗典さまが養生に利用しています。私は共を連れて、宗典さまの拝顔に伺うと同時に、あの建物で昔起きた事件を解こうと思っていました」


「昔、起きた事件?」


「私が中学生の頃、あの館で事件が起き、遺体を見ました。人が死んだのです。未解決事件となっていますので、霧谷先生と私で解いて差し上げようというのです」


 霧谷は、淹れた珈琲を自分で口にしながら、振向いた。


「なるほど、それが麗香が言う依頼か、助手が自分で依頼をするのはどうかと思うが……」

「別に宜しいでしょう。依頼金は払います。それに、今回は、ぬらり様も来られるということなので、これは、霧谷先生も行くしかないですよね」


 霧谷は、封書を閉じながら、「それが、招待状ということか……」と首を捻った。


「霧谷先生が来てくれるなら、一人増えると伝えておきます」

「本多も連れて行くから、二人だ」

「だめ、薪尼も連れて行くんだし、お供は三人までね、それ以上は駄目」


 霧谷は黙ったまま、「出発はいつだ」と聞いた。


「今からよ、先生の用意が出来たら、すぐに出発です」

 少々呆れ気味に息を吐くと、

「準備をしてくる」と霧谷は再び自室に消えた。


 麗香の押しの強さに参ったのか、やる気がないのか、と薪尼は心配したが、

「大丈夫よ、先生、凄くわくわくしているようだし、凄い乗り気よ」


 薪尼は気づかなかったが、淹れた珈琲は、一口すすっただけで、まだ湯気が昇っていた。


つづく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

霧谷透真と怪盗ぬらり 七刻眞 @sinichifujita7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ