願いよ届け、桃の樹へ。

@yaganekai_suzunonesiryoukan

願いよ届け、桃の樹へ。 上巻

 「ご決断を。民衆の不満はもうすぐそこまで迫っているのです!。」

黄金色の畳や、河沿いに根を張る1本の桃の樹の描かれた屏風は懐かしい香りを放っていた。しかし、今日もまたその懐かしきあの日はただ離れていくだけに思え、誰もが部屋に差し込むその一筋の光が最後の希望であると、そう信じていたかった。

 丘の上に建てたられたその武家屋敷からは、いつもと同じように武器を振る音だけが響いていた。中には凛々しい鬼が一人。数え切れぬほどの汗が彼の身体を伝い、それでもなお彼の目はまだ遠く朧な何かを見つめる。それがこの家でたった一つの光だった。

 昔々、真影25年。それは、日本をかつてない飢饉が襲った時代。特に此処、萬原藩よろづはらはんでの被害は、日本の歴史上最悪の飢饉であったという。そのあまりの悪夢に人は、誰一人としてこの時代の出来事を、綴ろうとはしなかった。

 武家屋敷の扉を叩いたのは、一羽の妖艶な雉であった。

「このふみ、姫様からか?」

雉は首を縦に振った後、器用にくちばしを操り、咥えた文を差し出した。

「…すまんが、我々鬼族ももう、…動物達を助けることが出来なくなるやもしれん…。」

雉は翼を大きく広げ空へ羽ばたき遠い彼方へ消えていった。鬼はおもむろに中へ戻り座り込んだ。

 真弥まや姫は屋敷の木に留まる雉へ一つのきびだんごを差し出した。雉はそれを実に美味しそうに啄み、そんな雉を真弥姫はじっと見つめていた。

「姫様、鬼神隊の邪斬じゃざん殿が参りました。」

「通してくれ。」

真弥姫は途端に一国の姫となった。しかし、彼女の目もまた遠く朧な何かを見つめていた。瞳に浮かんだ涙は、太陽の光を反射し、微かに綺羅めいた。

 後ろから刀の擦れる音が聞こえてくる。真弥姫は彼に向かって振り向いた。その目はまっすぐ邪斬を見つめる。しかし、彼女の瞳は確かに微かに震えていた。

「…来てくれて、ありがとう…。」

二人の間を静かで冷たい風が通り抜ける。

「邪斬…、どうか、お許しください…。」

「話さなくても分かっています。今は…………せめて、姫様のお辛い顔を見ていたくはございません。」

「ごめんなさい…、邪斬…。」

その時、真弥姫は静かに俯いていた。

 弥那平やたべい様、もう時間はありません。苦しいことは十分承知しております。」

「…樋口家のお前でさえなすすべがない、か…。」

「鬼族よりも、我々人間の生存が優先されるべきでありましょう。」

樋口盛親ひぐちもりちかの言葉はやはり冷たかった。しかし、それはいつもより冷たく、そして熱かった。庭園の大樹は少しずつ葉を散らし始めた。

 翌朝の、まだ太陽も昇っていないくらいの頃、萬原城の奥御殿の襖の奥から声がした。

「父上、入ってもよろしいでしょうか。」

真弥姫であった。

「…ああ…。」

ゆっくりと襖が開く。

「父上、一度、考え直してはいただけませんか。」

「…盛親も言っていた…。民たちの不満は共通の敵の存在によって打ち消されると…。」

「父上は!、盛親などという男の言いなりになると言うのですか!?。」

「…鬼族の男とのことなど、もう忘れろ。」

途端に真弥姫の瞳が揺れる。

「私は…、邪斬殿か盛親か、どちらが正しいかくらいは、見分けの着く人だと思っておりましたが…、もうこれまでのようですね…。」

真弥姫はすっと立ち上がり、素早く振り向き歩き出した。真弥姫により、再び開けられた襖は、ゆっくりと、彼女の影を残し閉められた。真弥姫は少し立ち止まるも、ほんの僅かに首を横に振り、涙を拭い歩き出した。

 ようやく太陽が昇った頃、真弥姫は邪斬の屋敷へ向かっていた。そして彼女の隣には、一頭の犬がつけられた。真弥姫は入口の前にある橋を渡り、その扉を叩いた。すると、何も言わずとも扉が開き、邪斬が出てきた。

「止められなかったのですね。」

彼はまるで冷静であった。しかし、その声は暗く重かった。

「少し、一人にさせてください。」

「待って邪斬!。…あなたの助けになればよいと、城の犬を連れてまいりました…。」

「…ありがとうございます…。」

そう言って邪斬は犬を受け取り扉を閉めた。そして屋敷の中からは、再び刀を振る音が響いた。真弥姫は、しばらくそこを動けなかった。心の中の何かが複雑に絡み合い、その音を聞くことしかできなかった。そしてそれは邪斬もまた同じであった。ただ刀を、気が済むまで振り続けた。

 「諸君らも知っているように、我々は今、これまで類を見ないほど大きな危機に直面している。」

街の中心で演説をする弥那平に、民衆たちは石やわらじを投げつけた。しかし弥那平は言葉を続ける。

「しかし、それは一体何故か!。全ては鬼族のためである!。緑鬼は野山の動物たちを駆逐し、青鬼は川の魚を食い、赤鬼は人間を陥れる!。我々の倒すべき敵は、紛れもない鬼族である!。今こそ、鬼共の呪縛から解き放たれる時が来た!」

民衆はどよめきつつも、一人の男が声をあげる。

「共に戦い、俺達の資源を取り戻そう!」

民衆は途端に一体となった。

「残らず鬼を攻め伏せて、分捕り物をえんやらや!」

「えんやらや!!」

弥那平が拳を突き上げ叫び、それに合わせて民衆も叫ぶ。その様子はまさに狂気そのものであった。

 その頃真弥姫は、彼女の雉の示す方へと走っていた。息が切れても走り続けた。そしてたどり着いたのは、枯れ葉の覆う森であった。森の中には神秘と不気味さが入り混じり、湿った風が吹いていた。真弥姫はおもむろに森の中を歩き続ける。彼女の耳には動物たちの鳴き声と踏みしめる木の葉の音だけが響いた。やがて水の流れる音が増え、それが絶壁の先に広がる大海原であると分かった。そしてその驚くべき絶景を、邪斬もまた見つめていた。

「邪斬殿。」

邪斬の首が僅かに動く。しかし邪斬は依然として黙ったままだ。

「…先程…父上が演説を行いました…。」

波の音が静かに揺れて、二人はますます離れていった。

「…今、民衆の怒りは鬼族へ向けられようとしています…。」

それから沈黙がしばらく続いた。だがどちらも動こうとはしなかった。そしてようやく、邪斬が口を開いた。

「…姫様に、この海の向こうが見えますか?」

「海の向こう?…確か…この先にあるのは岩波島…。」

「…流石ですよ、姫様…。」

そう言って邪斬は来た道を振り返り、歩き出そうと踏み出した。

「待って!、どういうこと!?一体何が言いたいの!?」

邪斬は一度立ち止まり口を開いた。

「…姫様にも…いずれわかる日が来るでしょう…。」

その時だった。

「見つけたぞ!奴らがお頭を!」

一人の男の声がしたのは。

「残らず鬼を攻め伏せて、分捕りものをえんやらや!」

「えんやらや!!」

彼らの掛け声は森中に轟き、その声は凄まじい勢いで近づいてくる。二人の連れていた犬や雉は激しく吠え、下草や落ち葉は音に震えた。邪斬は真弥姫の前へ出て、柄を握りしめ身構える。やがて木々が揺れ始め、人影が見えるようにまでなった。

「姫様は早くお逃げください。」

邪斬がそう伝えても、真弥姫はその場から動かない。彼女の目は、覚悟を決めた者の目だった。

 ついに奴らは現れた。しかしその群衆は皆やせ細り、手には工具や農具ばかりを握っていた。邪斬は握りしめていた刀を、彼らの前でゆっくりと鞘から抜いてみせた。途端に奴らは邪斬へ押し寄せた。だが邪斬が刀を振ることはできなかった。彼の手は確かに震えていたのだ。しかしその震えが大きくなればなるほど握る力は強くなり、最後には彼の掌は血を流してしまっていた。しかし民衆の歩みと怒りは止まるところを知らず、先頭の男は邪斬を射程距離圏内に捉えた。大きく振りかぶられたくわが邪斬の元へまっすぐ落ちようとしたその時、犬が男の腕に噛みついて、男は悲鳴をあげて倒れた。それに遅れを取るまいと雉もまた翼を広げ、空から奴らを突き刺した。森からは一頭の猿が現れて、奴らを殴り、引っ張り、引きちぎった。犬たちは猛攻を受けながらも、二人のことを護るため戦う。しかし民衆が皆倒れた時には、彼らも深い傷を負い、地面に倒れ込んでいた。邪斬は短刀を取り出し、自らの指を僅かに切った。

「彼らに…、鬼の血を飲ませます。」

邪斬は、犬、猿、雉のそれぞれの前に座り込み、口を手で抉じ開けて、指から滴り落ちる血を飲ませた。

「この猿は、なぜ私たちをお助けになったのでしょうか。」

「実は、ここへ来る途中、弱っているのを見つけて咄嗟に姫様から頂いたきびだんごを食べさせたのです。」

「そうでしたか…。…邪斬殿は…、いつでもお優しくあられる…。」

「昔から、鬼族は自然、文明両方と共に生きてきました。私は、その鬼族の長として、当然のことをしたまでです。」

「本当に…なんと謝ればよいのか…。」

「姫様は何も悪くはありません。それに、申し上げたはずです。もう二度と、姫様のお辛い顔を見たくはないと。」

邪斬は力強く立ち上がった。

「弊害はあれど…、彼らは必ず良くなります。姫様、どうか早く逃げるのです。」

「……邪斬殿……」

風に揺れる森の木々のざわめきがその夜をより深くする。

「……私のお腹の中には今、赤ん坊がいるのです……。私と……あなたの子供です……!。」

「……そうでしたか……。」

それは、汚れた、綺羅びやかで、近くて遠い、とある一夜のことだった。

 「そうか……。真弥が……。」

弥那平は目を閉じて、しばらく動くことはなかった。

「……真弥を……捕まえてくるのだ……。邪斬は……好きにすれば良い……。」

再び弥那平はまぶたを瞑る。

(真弥……一体何故なのだ……。……一国の姫として育っていてくれさえすれば……どれほど嬉しかったろう…………。)

弥那平の目から涙がこぼれていたことは、その場にいた全員が分かった。しかし、それでも弥那平は、涙をこらえ、立ち上がり、大きく声を張り上げた。

「それぞれの仕事に戻れ……!。」

 川沿いに根を張る一本の桃の樹の前に、二人はひっそりと訪れた。

「赤ん坊を……この桃の樹に預けましょう……。」

「そんなことをして……良いのでしょうか……。」

「どうか……鬼の魔力を信じましょう……。鬼族の中では…………何もおかしなことではありません……。」

邪斬の辛い顔を見るたび、真弥姫もまた辛くなった。一国の姫として、また、邪斬に味方する者として。邪斬は桃の大樹をめがけ両手を掲げる。

「桃の大樹よ、いつか世界が平和になれば、この赤ん坊を落とし給え!。」

瞬間、激しい光が走った。それはまるで稲光のようだった。

 「なんだあの光は!。」

騎馬隊の男が叫んだ。

「桃の樹の方からではないか?。」

「我々は真弥姫様を捕まえることが任務なのだ。」

「しかし、あの光、単なる稲妻とも思えない。」

先頭の武士が大樹へ向かい、他の者達もそれに続いた。やがて馬の蹄と地面がぶつかり合う音は、二人にも聞こえるようになった。騎馬隊はやはりまっすぐこちらへ向かってくる。背の高い草の生い茂る中にもその巨大な影は鮮明に見えた。しかし、二人はもう何も言わず動かない。その立ち姿は恐怖の一切ないただ堂々たるものだった。

「姫様だ!。邪斬もいるぞ!。」

騎馬隊は脅しをかけるかのようにゆっくりゆっくりと近づいてくる。しかし、彼らは河原の手前で止まり、先頭の男だけが馬から降りて、小さな斜面を下ってきた。

「姫様、こちらへ投降していただきたい。」

真弥姫は、自ら一歩前へ出た。

「弥那平からの命であるか。」

「よくお分かりで。」

朝焼けの河原の中に三人の影が映し出された。それはうんと長く伸び、河の水面に揺れていた。

「邪斬殿に手を出さぬと言うのなら、大人しくそちらに投降をしましょう。」

男や他の騎馬隊は明らかに顔をしかめた。それは、弥那平の演説の為だけであるとは、到底言い難いほどの、深く、重く、積み重ねられた怒りだった。

「……承知いたしました…………。」

真弥姫は一切の抵抗をすることなく、ただゆっくりと彼らに連れられ、太陽の奥へと消えていった。邪斬は力強く天を見上げ、口を開いた。

「……姫様のご意思、この鬼族で必ずや受け継いでみせましょう…………。」

 「お嬢様が捕まったそうですな。」

樋口盛親はゆっくりと立ち上がりながらそう言った。

「このままでは、弥那平様の後を継ぐ者がおりません。困ったものでありましょう。」

「盛親……我々の考えるべきはそれではなかろう…………。」

「しかし、常に先を読めと!……ッ!」

その時、部屋の中には真っ赤な血が飛び散った。弥那平は静かに刀を鞘に納めた。

「……残念だよ……全く…………。」

弥那平はまるで冷酷であった。しかし、確かにその目は震え、揺れていた。

 真っ暗な森にぼんやりと明かりを灯す一つの集落に続く小さな道を邪斬は独り歩いていた。その明かりが確かになり、家屋の一軒一軒が姿を見せるにつれて、一人、また一人と傷ついた邪斬を見つめた。そんな中一人の老いた赤鬼が邪斬の方へ向かってくる。

「邪斬様、その傷はやはり人間につけられたものなのですか!」

邪斬はゆっくりと首を縦に振った。

「皆の衆よ!私の話を聴いてくれ!」

その声は力強いものだった。しかし、その奥には確かに疲労と悲壮が見えた。

「確かにこの傷は人間によりつけられたものだ!しかし、我々は人間たちと戦うべきではない!人間にも善人と悪人がいて、その様子は我々鬼と同じである!それなのに同じことをしてもよいのか!鬼族は常に誠実で善の力が勝るはずだ!」

観衆は大声で野次を飛ばした。

「今夜私は海を超え岩波島へと渡るつもりだ。この私に賛同をしてくれるものがいるのなら私のあとに続いてくれ。」

邪斬とともに海岸へと向かったのはたったの数十人であった。村に残った約百人はもどかしい思いを強くこらえて武器を握った。しかし、誰一人として自ら人間の街へ向かおうとはしなかった。

 真弥姫は何も言葉を発さない。誰も姫を見ようとしない。しかし真弥姫は一人の男が独房のろうそくを消しに来たあともなお眠らずにいた。そんな中でたった独り真弥姫に声をかけた武士がいた。

「姫様、私が護衛いたしますから、今すぐここをお逃げください。」

「あなたの身分はどうなるのです。」

「私は……小姓頭こしょうがしら金甲斐崔勇かながいのさいゆうでございます。我が職務を全うし……なぜ名誉の心配をすることがございましょう…………。」

「大変……感謝いたします…………。」

二人は無我夢中に街の外へと走った。しかしその逃げ道は明確であった。崔勇が切った者たちの遺体が道を示していたのだ。その話はすべてすぐに弥那平の元へ伝えられた。しかし弥那平は天井を虚ろに見つめるばかりで顔色ひとつ変えることがなかったという。

 波の音の揺れる砂浜には幾隻ものいかだが組み立てられていた。そんな荒々しい大海原の前にただ一つ美しくあったのは他でもない真弥姫であった。邪斬は確かに彼女を見たがすぐに目を海の先へと戻した。しかし、一人の鬼が真弥姫へ話しかけた。

「……我々は……岩波島へ急ぎます……。姫様は…………どうなさいますか。」

真弥姫はゆっくりと頷き、そして崔勇に目を向けた。

「私はこの海岸に残ります。姫様の御意志を妨げるような逆賊が現れてしまってはなりませんから……。」

真弥姫はゆっくりと背を向け筏に乗り込んだ。その後、邪斬は大きく声をあげた。

「今こそ壁の外を目指して旅立とう。人間の支配の及ばぬところへ。正解も間違いもない我々の意思の決める未来へ進むのだ。もう怖がっている暇などない!我々はあまりに重い代償のもとに学んだはずだ。例え神の定めた運命にも逆らうことができることを!」

邪斬は背中を向けたまま何も言わずに大きく拳を突き上げた。鬼も真弥姫も崔勇も、皆拳を突き上げた。そして空を切る音だけがその砂浜に響き渡る。邪斬達は森や城を背にして、それぞれの筏を海へと押した。鬼たちの足には砂や塩水が纏わりついた。しかしただ独り崔勇だけは、海に向かってその大きな背を向けていた。

 その夜、月明かりを拒み輝く黒い大海原の真ん中を幾隻もの筏が埋め尽くした。誰も越えることはできないとされたその波も、何故かこの今だけは皆乗り越えられると信じられた。その先にある静かな日々は今なお近く、遠かった。

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