第三章 第二節 灰色の空の下で



南極の白い光が、ロンドンの灰色の空に切り替わるまで、一週間とかからなかった。


博士の意識がはっきりしたのは、救助から三日目が過ぎた朝だった。

極低体温、複合的な放射線障害の疑い、全身の打撲。

医療チームは、彼が目を開けた瞬間の記録を何度も再生した。


「——ボストーク湖は、、、」

「ツバキ君は……」


掠れた声は途中で途切れ、再び沈黙する。

その断片的な言葉だけが、観測基地の記録に残った。


診療ユニットの医師は、"奇跡的な生還"とだけ報告書に書いたが、

観測記録班は、"Qスーツ"の生命維持装置から抽出された波形を前に頭を抱えた。

救難ビーコンのログには、誰も説明できない一点が挟まっていたからだ。


——氷底湖からの信号が、一瞬で"地表"に跳んだ。

四千メートルの氷と水を、一秒未満の時間で。


救助隊の誰もがそれを見ていたが、その場では、誰も口に出さなかった。

口にした瞬間、「ありえない」と自分たちの行動まで否定されてしまいそうだったからだ。


解析会議は連日開かれた。

「機器の誤作動だ」「ノイズだ」「衛星経由の遅延では」

あらゆる仮説が挙がり、同じ数だけ否定された。


最終的な報告書の文言は、慎重な末にこう落ち着いた。


"位置情報の一時的な異常。原因は不明。"


そしてその末尾に、南極統計の項目がひとつだけ増えた。


『説明不能な生還』


その言葉は、数日のうちにニュースサイトの見出しに躍ることになる。



————————————————————————————————————



ロンドンの空は、相変わらず低い。

トウキョウより四百時間も日照時間は短いし、十二月の七割は曇り空だ。

太陽は一日のうち数時間だけ、濁った窓ガラスの向こうで存在を主張する。


テムズ川沿いの再開発地区。

ガラスと鉄で組まれた高層ビル群の中に、ひとつだけ古びたレンガ造りの建物が残されている。

ヴィクトリア朝風のファサードだけを保存し、内部構造はすべて入れ替えられたその建物は、

「IQOI(国際量子観測研究機構)」ロンドン支局。通称"ロンドン量観" 学生たちはみんなそう呼んでいる。


ロンドン量観の自動扉の前に黒塗りの「ハイブリッド水素四輪駆動車」が停まった。

水素燃料タンクと固体電池を併用した、四十年代初頭の旧型だ。

静かなモーター音と、排気口から水蒸気が吐き出されている。


車の扉を開け、ゆっくりと外に出た。

南極の夜に比べれば、ロンドンの冬は穏やかだと言い切れるが、

それでも、テムズ川を渡ってくる風は骨の芯に触れるように冷たい。

川面をなでる風には、古い石橋と新しい高架トラムのコンクリートの匂いが混じっている。


厚手のコートを着てきて正解だったようだ。


「体調に問題は?」と付き添いのスタッフが尋ねる。


「問題と言えるほどのものは、、、まだ観測されていないよ。」


苦笑いするしかない。


歩行補助用の外骨格が、足元で小さく軋んだ。

膝と足首に巻きつくカーボン製のフレームが、体重を半分だけ肩代わりしている。


南極での検査は"生命維持に支障なし"で終わったものの、

脳波、血中データ、骨密度、いずれも通常の範囲から僅かに外れていた。

外れてはいるが、"病気"と診断できるほどではない。


"「観測値としては異常だが、症例としては正常圏内です」"


医師のそのコメントは、研究者たちの間で一種のジョークになっていた。

"「ボストーク帰りの人間は、統計上“正常の外側にいるが、正常のうちに入れる”」"——そんなブラックユーモアがラボの端で囁かれる。


センターのロビーは静かだった。

どこかの大聖堂のようで、また"比較的モダン"な雰囲気が混ざり合う空間。


床は静電気防止処理を施された合成石材で、足音が無駄に響くことはない。

高い天井から吊るされた円筒形の照明は、調光AIが外光と同期して色温度を変えている。


壁一面に埋め込まれたディスプレイから、世界の観測データが流れる。

宇宙線、中性子フラックス、重力波の微細な揺らぎ。

太陽系外から飛来する高エネルギー粒子のマップの隣に、ボストーク湖上空の磁気異常分布が重ね合わされている。


その右隅に、ニュースチャンネルのウィンドウがひとつだけ小さく開いていた。


《南極調査員、説明不能な生還》

《国際量子観測研究機構が記者会見へ》


いくら宇宙産業が花形だとしても、今回のトラブルは少々世間をにぎわしているようだ。

軌道エレベーターの開通記念式典よりも、"説明不能な生還"のほうが、今朝のニュースサイトの閲覧数では上回っていた。


自分の顔写真が、少し古いプロフィール写真と共に映っている。

こんな形で昔の自分に出会うとは、思いもしなかった。


「博士、先に医師のチェックを済ませてから、、、」とスタッフが言いかけたとき、

ロビーの奥のソファに座るひとりの少女が目に入った。


長い黒髪を肩口で結び、"安物のダッフルコート"の前をきっちりと留めている。

膝の上には分厚い参考書と、端が擦り切れたタブレット。

"黒いチェルシーブーツ"には若干の年季を感じる。ソールの側面には、ささやかな修理の跡があった。


ロビーの空調の風が彼女の髪をわずかに揺らす。

吹き抜けの上階からは、ホログラム広告の光がかすかに漏れていた。

"「STUDY IN ORBITAL CAMPUS」「火星季節実習プログラム」"


——世界は確かに前に進んでいるように見える。


少女は顔を上げた。目が合うと、ゆっくりと立ち上がる。


「、、、ユリ君。」


「お久しぶりです、博士。」


彼女は深く頭を下げた。

それは丁寧すぎるほどの礼で、むしろ必死さを隠そうとしているようにも見える。


スタッフが何かを言いかける前に、一歩前に出た。

「検査は後回しでもいいだろう。少しだけ時間をもらえるかね。」


スタッフは迷った様子を見せたが、結局「十五分だけです」と言って奥に消えた。

壁面スピーカーから低い電子音が二度鳴る。どこかのラボで実験が始まった合図だ。


ロビーの隅、窓際の席に向かう。

ガラスの向こうでは、テムズ川を跨ぐ橋をトラムが滑るように走っていく。

架線はとうに撤去され、磁気浮上レールの上を光のラインだけが走っていた。


「、、、元気そうだね、ユリ君。」


「それは、こちらの台詞です。」

ユリは静かに答えた。

声は驚くほど落ち着いていて、取り乱した様子はない。

ただ、指先だけがタブレットの角をぎゅっと掴んでいる。


彼女のタブレット端末は廉価版の旧世代機だが、画面の角には細かな付箋アイコンがびっしりと並んでいた。

教科書よりも、その端末のほうが彼女の生活を支えているのだろう。


「ニュースで見ました、、、南極で、"説明不能な生還"をされたそうですね。」


ひどい見出しだ。「本人の前で読むものじゃないよ。」


「でも、、、」ユリは一瞬言いよどみ、それから小さく息を吸った。


「生きて帰ってきてくれて、本当に良かったです。」


言葉はそれだけだった。

涙も、感情的な詰問もない。


けれど、その一言に一週間分のニュースと、数え切れない「もしも」が凝縮されていることを、私は理解しなければいけない。


「座ろうか。」


二人は向かい合って腰を下ろした。

窓の外で、細かい雨が降り始める。

ロンドン特有の、空気と境界のない雨だった。

ガラスに当たる雨粒は、センターの外壁に組み込まれた自動撥水フィルムに弾かれて、不規則な軌跡を描く。


しばらく、沈黙が続いたが、ユリも急かさなかった。

ロビーの片隅に置かれた"古いアナログ式の掛け時計"だけが、秒針で時間を刻んでいる。

壁一面スクリーンと量子時計の時代に、わざわざ機械式時計を飾っているのは、この施設の主任の趣味だ。


断片的な言葉の集まりを、必死にまとめる。


「、、、ツバキ君のことだね。」


「はい。」


ユリはまっすぐにこちらを見ていた。

責めるでも、すがるでもない。

ただ、知ろうとしている目だった。


「報道では、、、」


ユリは視線を落とし、手元のタブレットを軽くタップした。

国家機関の公式発表が映る。


《ボストーク湖において調査中の事故が発生。調査員一名が行方不明》


「"行方不明"とだけ。詳細は非公開。IQOIからは安全対策の強化声明だけが出て、、、

 連絡が来たのは、昨日。『担当教授として、お話しいただけますか』って。」


最後の一文だけ、わずかに声が震えた。


脳裏によぎる景色。ブザー音。短く息を吐く。

窓ガラスに映る自分の顔が、南極に行く前よりわずかに老けて見える。


「公式に話せることは、多くない。」


「、、、そうですね。」


ユリはうなずく。

「覚悟は、できています。」


涙で視界を曇らせる年頃だ。

感情の行き場を失って暴走しても、おかしくはない。

だが、ユリは静かだった。静かすぎるがゆえに、その内側に渦巻くものが透けて見えるようでもあった。


「まずは、事実だけを話そう。」


教壇に立つ自分を思い出す。冷静になるために。

淡々と、だが言葉の一つひとつを選び取るように。


「氷底湖への降下は、計画どおりに進んでいた。

 放射線防護も、生命維持も、すべて基準内。君のお兄さんは、、、いつもどおり、よく働いていたよ。」


日常を思い出すと、口元がわずかに緩んだ。


「むしろ、私より落ち着いていたかもしれない。

 私が"未知の物質"の話をすると、いつも少しだけ呆れた顔をしてね。」


ユリの口元にも、ごく薄い笑みが浮かぶ。

「、、、想像できます。」


「だが、あの瞬間——何が起きたのかを、私は完全には説明できない。」


記憶を辿り、言葉を探す。無限の時間と一瞬の光の中。


天井パネルの隙間からは、冷却配管のわずかな振動音が伝わってくる。

この建物全体が、ひとつの巨大な測定器のようでもあった。


「地震ではなかった。計器は、そう告げている。

 だが、世界そのものが"揺れた"ように感じた。

 光が格子状に崩れ、時間の順序が、、、一瞬だけ、意味を失った。」


「、、、。」


「私はそれを、"観測が壊れた瞬間"だと表現したい。あくまで個人的な感覚だがね。」


ユリは頷いた。

その言葉の意味を、完全に理解したわけではないだろう。

それでも、賢明な彼女に真意は伝わるだろう。


「"兄"は、、、そのとき、どこに?」


その問いに即答できなかった。

わずかな沈黙のあとで、静かに答える。


「最後に視界に入ったツバキ君は、私のほうを振り返っていた。

 次の瞬間、彼の姿は、、、"そこから、いなくなっていた"。」


ロビーの外を、小型配送ドローンが横切る影が走る。

雨粒を撥ねながら、無人の機械だけが正確にルートをなぞっていく。


ユリの指先が、タブレット端末の角をぎゅっと押しつぶした。


「彼の生命維持装置の信号は、わずかな時間だけ継続していた。

 だが、それも——私が意識を手放す直前に途切れた。」


「それは、つまり、、、」


「公式には、『行方不明』だ。」


今は不正確な憶測にしがみつくタイミングではない。


「そして非公式には?」


ユリの声は、驚くほど冷静だった。

泣いている場合ではないと、どこかで判断している声だった。


ロビーの反対側で受付を行うスタッフに一瞥を送る。

自分自身も無意識に冷静さを求めている。


「非公式には—— "説明不能な消失"だ。」


ユリは目を瞬かせた。

その言葉は、南極で自分に貼られたラベルと対になるものだった。


「私は、"説明不能な生還"

 彼は、"説明不能な消失"

 少なくとも現時点では、そう表現するしかない。」


ロビーのテレビから、遠くでニュースキャスターの声が聞こえてくる。

《……ボストーク湖での前例のない事象について、各国の専門家からは——》


テロップの下には、ボストーク湖上空の衛星写真と、過去の発掘ドキュメンタリーの映像が交互に流れている。

古い氷掘削機のエンジン音と、最新型量子センサーの説明図、高速エレベーターの稼働式典が一本のニュースの中で雑に編集されていた。


世界はざわめいていた。

SNSのトレンドには、事故現場の衛星画像や、古いボストーク湖の文献が流れ続けている。

あるニュースサイトの見出しには、こう書かれていた。


《ボストーク湖の呪いか、それとも新たな物理法則か》


ユリは、そのどれにも目を向けなかった。

目の前の事実だけを見ている。


「博士は、、、」彼女は慎重に言葉を選んだ。

「それでも、兄が"死んだ"とは、言いませんでした。」


折れないのではない。折れる場所を、自分で選んでいるように思えた。

それがわかった途端、口元にかすかな笑みが浮かんだ。


「科学者は、観測されていないことについて断定を避ける習性があってね。」


「それは、慰めですか?」


「慰めではない。」


「現時点では、というだけだよ。」


窓の外を、小型ドローンが音もなく横切る。

テムズの水面に、薄い波紋が広がる。

対岸のビルの壁面スクリーンには、また別のニュースサイトの見出しが遅延表示されていた。


「ありがとうございます。」


またしばらくの沈黙の後、ユリはそう言った。


「兄がどういう状況でいなくなったのか、教えてくれて。

 "わからないことは、わからない"と言ってくれて。」


言葉のあいだに、小さな呼吸が挟まる。

ロビーの空気は静かで、遠くのAI受付端末が書類をスキャンする音だけが続いていた。

紙ではなくデータなのに、あの機械は昔の複合機のような駆動音をわざと鳴らす。

落ち着くと評判なのだと、誰かが言っていた。


「怒らないのかね? 私を責めることだってできる。」


問いかけにも、すぐには返事がない。

ユリは視線を落とし、膝の上のタブレットの縁を親指でなぞっていた。

端の保護フィルムが少し浮き、そこだけ銀色に擦り減っている。


「責めても、、、兄が戻ってくるわけではないので。」


その言葉には、冷たさではなく、静かな現実感があった。


「それに、博士が一週間で南極からロンドンに戻ってきたのは、

 "私に話をするため"でもあるんだろうな、って思いましたから。」


少しだけ肩の力が抜けるのを自覚する。

彼女の方が、こちらの行動を合理的に整理してくれている。


「、、、君は、ツバキ君よりずっと賢いかもしれない。」


「いえ、兄のほうがずっと優秀です。」


ユリはそこで、ほんの少しだけ声を柔らかくした。

こわばっていた手が、タブレットの上からそっと離れる。


「だから——簡単には"死んだ"とは思えません。」


胸の奥で何かがほどけていく。

その言葉を、ずっと誰かに代わりに言ってもらいたかったのかもしれない。


「私も、そうであってほしいと願っている。」

口にした瞬間、それが単なる感情で終わってしまうことに、うっすらとした恐れも覚える。

この世界では、願いだけでは何も動かない。


「願いじゃなくて、仮説にしてください。」


ユリは淡々と言う。

「"ツバキはどこかでまだ観測されていないだけ"——そういう仮説なら、私も勉強を続ける理由になります。」


今度は心からの笑みがこぼれる。

今度ははっきりと、胸の底から。


「、、、君は本当に、お兄さんに似ている。」


ロビーの向こうから、スタッフが歩いてくる気配がした。

足音そのものより、腕時計のホログラム表示が空気を震わせる微かな音で、その接近を知らせてくる。

ガラス窓には、浮かび上がった時刻表示がうっすらと反射していた。


ユリの方へ向き直りながら、椅子から立ち上がる。


「ユリ君。君が望むなら、ここでの勉強を続けるための推薦状を用意しよう。

 ツバキ君が背負っていたものを、全部そのまま渡すつもりはない。

 だが——、、、一部なら、君にも持てるかもしれない。」


ユリも立ち上がり、深く頭を下げた。

長い黒髪が前に流れ、ダッフルコートのボタンが小さく触れ合う。


「ありがとうございます。でも、兄の代わりになるつもりはありません。

 私は私のやり方で、、、"説明不能"を、少しでもましな言葉に変えたいだけです。」


その答えに、思わず深く頷いていた。

誰かの代わりではなく、自分自身の観測者になろうとしている。

その決意は、どんな研究テーマよりも確かなものに思えた。


スタッフが声をかける。

「博士、そろそろ——」


「ああ。すぐ行く。」


短く返事をしてから、もう一度だけユリを見る。

彼女の瞳はまだ赤くなっていない。

代わりに、何かを測ろうとする光だけが宿っている。


「何か変化があれば、君には真っ先に知らせると約束しよう。

 たとえそれが、良くない知らせであっても。」


ユリは一瞬だけ目を伏せ、それからしっかりと顔を上げた。


「はい、、、"観測結果"は、全部教えてください。」


ロビーの扉が閉まりかけたとき、

外の街路スクリーンが、ちょうどニュース速報を映し出した。


《南極ボストーク湖調査事故——行方不明の研究員について、新証言》


行き交う人々の誰も、足を止めない。

広告とニュースと娯楽が同じ光度で流れるこの街では、

ひとつの"新証言"など、数あるコンテンツの一つにすぎない。


テムズの上空には、低軌道プラットフォームに向かうシャトルの光跡が、薄く弧を描いている。

人類は宇宙には気軽に行けるようになったが、

氷底湖から消えたひとりの青年の座標すら、まだ特定できずにいた。


ざわめきは、まだ始まったばかりだった。


灰色の空の下で。

一人の少女と一人の老科学者が、それぞれのやり方で、

ひとりの青年の"不在"を、世界のどこかに繋ぎ止めようとしていた。

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鋼鉄の華 @StudioNeil

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