第3話 先生の傷痕

 幼いころから、誰にも必要とされなかった。それは、大人になっても変わることはなかった。ただただ日々が過ぎ去ってくれればいいと願っていた過去の自分はとうに消え去り、物事を傍観するだけになった機械がいた。本当の自分は透明人間のように形も実態もなく、人の目に映らなかった。


 新任の教師として学校に赴任した朝の空は、息をのむような青だった。僕が生まれた日もこんな日だったと姉の日記に書いてあったのを思い出す。その日僕は初めてリストカットをした。亡き姉を想いながら、ゆっくりと皮膚に線を引いていく行為をしたのは、しっとりとした雨が降ってきた時のこと。姉も同じような喪失感と闘いながら、同じように人とも線を引いていったのだろうか。僕はそれを助けられなかったのだろうか。黒い世界に囚われた姉は、僕のことを必要としてくれなかった。


慣れたと思っていた孤独がこんなにもあかく焼かれていくような苦痛だということを久しぶりに思い出していた。


「もう今更、だけれど」


 いつも通り何事もなく過ぎていく日々の中に、君はいた。眠そうに見える厚い二重と気だるげな雰囲気が印象的な君を見た時、何となく支配者だと感じた。何故だかはわからない。表立って姿を現すことはなくても、時折見せる僕を射抜くような視線は、その直感を裏付けているように思えた。流れていく日々のある放課後、君が空き教室で寝ているのを見た。その傍らにはたくさんの数学の参考書と古びて背のテープがほつれ年月を経たと思われるノートが散らばっていた。開いているページにはびっしりと数式が書き込まれていた。その数式を見たことがあった。姉の日記にも書かれていた文字と酷似していたのだ。思わずページを捲ろうとしたとき、君の閉じた瞳から涙が伝っていた。


「ああ、君も同じなんだね」


  君が温かい夢を見られることを願いながら、僕は自分のジャケットをそっとかけた。その日以降、君は僕に話しかけてくるようになった。君が気づいてくれますようにと祈りながら、君が望むのなら笑顔も見せた。笑ったのは何年ぶりだろうか。姉にできなかった分まで、というのは僕の自己満足だと分かっている。それでも、願わずにはいられない。君が幸せであることを。漆黒の世界から抜け出すことができることを。


「大丈夫、まだ間に合うよ」


  それは君に向けた言葉だっただろうか。それとも、自分に向けた言葉だっただろうか。 数式が繋いでくれた奇妙な縁は、僕の心をも色付け始めていた。今日も空は青く染まる。まだ漆黒の世界にいる君にそう伝えたい。

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