第38話 少年アークの微細な観測

「――観測。予測外の挙動。初期データ(少年アーク)による、干渉度0.003%の、光線の逸脱を確認。データとの整合性に微細な矛盾が発生しました」


白い兵士は、平坦な金属音でそう分析し、動きを止めた。


幼い少年アークは、目の前を通過したはずの光線が、たった数ミリ逸らされて石畳を打砕いた事実に、息を呑んでいた。自分の体が反射的に動いたこと、そして、普段なら「意味がない」と笑われる傘の開閉が、今、決定的な結果をもたらしたことに、信じられないという表情で青い傘を見つめた。


「え、今……僕の、傘で?」少年は震える声で尋ねた。


リセルは、左肩を掠めた光線の熱と痛みを無視し、少年アークに飛びついた。


「そうよ、坊や。それよ……!」リセルは肩越しに白い兵士を警戒しながら、切迫した声で告げた。「あなたの能力は、微細な干渉じゃない。それは、世界の『法則』の、極めて精密な『観測』の始まりなのよ!」


彼女は、この非効率で頼りない動作こそが、未来のアークを『法則の簒奪者』へと進化させた、献身的な『観測』の根源だと悟った。初期のアークが、軽蔑の中で積み重ねてきた訓練は、決して無意味ではなかったのだ。


「そんな、僕が……役に立った?」少年アークは、まだ混乱と戸惑いのうちにいた。彼は誰かに笑われることを恐れ、いつも能力を隠していた。「僕の傘は、パカパカしてるだけで……」


「そんなことはないわ」リセルは努めて平静を装い、少年を励ます。「その傘は、あなた自身が思っている以上に、繊細な『器』なのよ。ただ、まだ能力を信じて、極限まで集中したことがないだけ」


そのやり取りを見ていた白い兵士は、再び金属的な声を上げた。


「――分析。初期データ(少年アーク)の能力は、現在の目標(未来のアーク)へと進化する過程で不要な要素です。効率化のため、これも排除対象に加えます」


白い兵士は冷徹に判断し、今度は少年アークに向けて照準を合わせた。彼にとって、過去の記録は安定化のためのノイズでしかない。


「待ちなさい!」リセルは叫び、咄嗟に両手を広げて少年を庇った。


「法則の簒奪者(ロー・ユーザパー)を形成する上で、非効率な過去の記録はノイズです。排除します」


白い兵士が光線を放つ直前、リセルは決断した。


「アーク! 聞こえるわね!? 私の言うことを聞いて! 黒い傘を、開いて!」


リセルは背中に背負った昏睡中のアークに声をかけた。彼の手に握られた漆黒の傘は、未だ閉じられたままだ。


「――観測者(リセル)。覚醒(リミットブレイク)……接続点、固定」


昏睡中のアークの唇から、微かな声が漏れる。リセルは全身に刻まれた古代の術式が、熱を帯びて能力の制御装置として機能し始めているのを感じた。


「そうよ、私を『鎖』にしなさい! あなたの力で、この過去の法則の歪みを一時的に抑え込むわ!」


リセルは背中で、昏睡中のアークの手に触れ、黒い傘の柄を掴み、強制的に開いた。漆黒の傘が開くと同時に、周囲の空間が微かに歪んだ。この『黒き器』は、王の核の魔力を呑み込み、世界の法則を簒奪するに至った完成形。その膨大な力が、平和な過去の街に放出された。


「坊や! あなたの青い傘を、この黒い傘に、触れさせて!」リセルは切迫した指示を出した。


少年アークは、恐怖と、今初めて自分の能力が誰かの役に立ったという興奮の間で揺れていたが、リセルの必死な瞳を見て、意を決した。彼は立ち上がり、青い傘を差し出し、漆黒の傘の先端に、恐る恐る触れさせた。


青い傘と黒い傘が接触した瞬間、空間全体に強烈なシンクロの振動が走った。それは、能力の源流(少年アーク)と、完成した器(未来のアーク)の、数千年を隔てた奇妙な共鳴だった。


白い兵士は、この異常な事態に初めて明確な動揺を示した。


「――警告! 過去の記録(初期データ)と、現在の観測記録(完成された器)の同期を試みています! 過去の記録への干渉は、時空の亀裂を拡大させ、法則の崩壊を不可逆的なものにする!」


白い兵士は、もはや躊躇しなかった。観測記録の安定化を最優先とし、この二つの危険な要素をまとめて排除するため、全身のエネルギーを収束させた。


「緊急プロトコル発動。全能力による観測記録の強制初期化を実行します!」


漆黒の傘と青い傘を同期させたリセルたちへ向かって、白い兵士から、巨大な光の奔流が放たれた。それは、この小さな路地裏はおろか、過去の霧都エセリア・ゲート全体を消し飛ばすほどの、究極の殲滅光線だった。


第39話 鎖の紋様と歴史改変の代償


白い兵士が放った殲滅光線は、世界の法則そのものを消し去ろうとする圧倒的な力を持っていた。


リセルは、二つの傘の同期によって体内に流れ込んできた、制御不能なほどの強大な力に耐えながら、歯を食いしばる。


「収束(アブソープション)! 光の奔流を、全て呑み込め!」


漆黒の傘は、能力の飽和状態にありながら、リセルの意思に応えて光線を呑み込もうとした。しかし、過去と未来の法則の衝突は、リセルの身体に極度の負荷を与えていた。


「うぐっ……! これが、王の核を呑み込んだ力……!」


リセルの全身に刻まれた古代の術式(鎖)が、制御装置として限界を超えて稼働し、血のように赤い光を放つ。その時、古代の術式とは異なる、新たな鎖の紋様が、リセルの皮膚を這うように現れ、昏睡中のアークの黒い傘へと伸びていった。


それは、リセル自身が自覚した、アークを孤独な王にさせないための『生きた鎖』の具現化だった。


同期の反動で空間が激しく歪む中、白い兵士が驚愕のデータを読み上げる。


「――異常観測! 外部エネルギーの介入! 数千年前の法則崩壊領域に、微細な雷魔力の残渣を検出! 観測記録にない、予期せぬノイズです!」


それは、特異点空間で白い兵士に吸収され、リセルとアークの特異点転移を間接的に助けた、ゼノス・ヴァルディスの雷魔力の残渣だった。時空の奔流を逆流してきたその残渣が、二つの傘の同期によって生じた巨大な法則の歪みを利用し、一時的にアークの力を増幅させたのだ。


「――展開(デプロイ)!」


リセルの叫びと、昏睡中のアークの無意識の発動がシンクロした。光線は漆黒の傘に完全に呑み込まれることなく、収束されたエネルギーが、時空を逆流するゼノスの雷魔力と衝突し、巨大な炸裂音と共に路地裏を吹き飛ばした。


白い兵士は後方へ吹き飛ばされる。リセルは少年アークを抱きしめたまま、辛うじて爆風に耐えた。


「ゼノス……あなた、私たちを助けたの?」


リセルは、彼らがいた未来の時間軸の残滓が、図らずも彼らを護った事実に、奇妙な感動を覚えた。


少年アークは、青い傘を握りしめ、目を輝かせていた。


「今のは……すごい力だ! 僕の傘が、こんな大きな光を跳ね返した……!」


彼はもはや、能力への自己卑下に満ちた怯えよりも、純粋な驚きと、自分の能力への好奇心を抱き始めていた。リセルは、彼の瞳の変化を見て、この時間転移が、幼いアークにポジティブな影響を与え始めていることを確信する。


「――分析。目標(アーク)の能力は、外部エネルギーの干渉により、一時的に安定化しました。しかし、同期の負荷による法則の歪みは、収束していません」


白い兵士は即座に立ち上がり、能力の再解析を開始した。


「――データ逆探知。成功。法則崩壊の残渣から、この時間軸における、アークの能力の『初期の封印プロトコル』に関する観測記録を発見。数千年前の術師団のリーダーが、能力の暴走を予見し、封印を計画した記録です」


白い兵士の視線が、遥か遠く、まだ無傷の中央の『封印の塔』に向けられた。


「戦略を変更します。観測記録の安定化を達成するため、この時間軸の『術師団の末裔(過去の姿)』と連携し、目標の能力を初期化(封印)します。塔へ向かいます」


白い兵士は、リセルたちを無視し、高速で塔の方角へと移動を開始した。リセルは愕然とする。術師団が、未来のアークを追う敵として出現するよりも遥か以前に、この過去の時代にも存在していたのだ。そして、白い兵士は彼らと接触し、能力の封印を企てようとしている。


「待って! 王の核の封印が破られる前に、塔に行かせてはならない!」リセルは叫んだ。


その時、地面に刻まれた漆黒の術式(未来のアークの『簒奪』の痕跡)が、微弱な王の魔力を感知したかのように、塔へ向かうルートを示した。リセルの身体に刻まれた術式(鎖)が、王の核の覚醒が急速に進んでいることを告げていた。


「王の核が、近づいているわ……!」リセルは焦燥に駆られた。


第40話 覚醒の誘発と監視者の影


リセルは、背後の路地裏を吹き飛ばした爆発の残骸と、閃光のように遠ざかる白い兵士の残像を睨んだ。残された猶予は少ない。このままでは、白い兵士と過去の術師団が連携し、アークの能力を封印してしまう。それ以上に、未来からの干渉で早期に目覚め始めた『霧の王』の核が、術師団の封印術式を利用して力を増幅させてしまう。


リセルは少年アークに向き直った。


「坊や、聞いて。あなたには、今すぐここから離れてもらわなければならない」


「え? でも、あの白い化け物は……」


「大丈夫、あれは私たちが引きつけるわ。あなたには、もっと大切な使命がある」


リセルは、幼いアークが危険に晒されるのを避けるため、真実を隠しながら、極めて重要な警告を発した。


「この街の地下には、とても大切なものがあるの。それは、あなたの能力の源になるかもしれない、大きな力よ。でも、あなたは**決して、決して**、その力に近づいてはいけないわ。絶対に、塔の地下には行かないで」


少年アークは、未来の自分の能力の片鱗と、リセルの真剣な眼差しに圧倒されていた。彼は、初めて自分の能力が、誰かの命を左右するかもしれないという重い感覚を抱いていた。


「僕の……能力の源? でも、どうして近づいちゃいけないんですか?」


「もしあなたが今、その力に触れてしまったら、あなたは誰からも理解されない、孤独な王になってしまうからよ」


リセルはそう言うと、昏睡中のアークを背中から降ろし、路地裏の物陰に横たえさせた。彼の能力の源流が、王の核と同期することで、感情を排した冷たい『王』の観測記録を生み出したことを、リセルは知っている。彼女は、それを阻止するためにここに来た。


「あなたを孤独な王になんかさせない。私に、最後の力を貸して、アーク」


リセルは、自分の身体が限界に近いことを自覚していたが、背負った黒い傘に手をかけ、再び『観測者』として能力の制御を試みた。


少年アークの心の中の自己卑下は、リセルの献身的な姿によって打ち消されつつあった。


「あの……僕の傘は、本当に何の役にも立たないかもしれないけど……それでも、何か、あなたを助けるためにできることはありませんか?」


少年アークは、青い傘をしっかりと握りしめた。彼の瞳に、初めて「誰かを護りたい」という未来のアークの『献身の原則』の萌芽が見えた。


「ええ、ありがとう」リセルは微笑んだ。「あなたは、ただ安全な場所にいて、そして、塔から離れること。それが今の、あなたにできる最大限の助けよ」


リセルが少年アークを路地裏の反対側へ誘導しようと動き出した、その瞬間だった。


地下深くから、地面を揺るがす「鼓動」が、一段と強く響き渡った。能力の暴走による干渉と、完成された『器』(黒い傘)の存在が、王の覚醒を決定的なものにしたのだ。


その強大な魔力の噴出に呼応するように、路地裏に刻まれた漆黒の術式(簒奪の痕跡)の上を、ひとつの影がゆっくりと、しかし確実に踏みしめてきた。


その影は、以前、塔の出口でリセルと遭遇し、アークの能力の真名を知っていた謎の男——『監視者』だった。


リセルは息を呑んだ。「――観測。君たちの到着は、予定より数千年、遅れた」


監視者は、未来から来たリセルと昏睡中のアーク、そして過去の少年アークを見て、どこか諦めたような表情で呟いた。


「あなた……なぜ、この過去の時代にいるの!?」リセルは警戒を強める。


監視者は、リセルの質問に答えず、ただ遠くの塔を見上げた。「王の覚醒は始まった。そして、君たちの出現は、我々『観測者』のプロトコルに、致命的なバグを生じさせた」


監視者の瞳は、リセルの身体に刻まれた術式(鎖)と、黒い傘に固定されていた。「君は、法則の簒奪者を封じ込める『生きた鎖』となった。しかし、その代償は……君が想像するよりも、遥かに重い」


彼は、ゆっくりと青い傘を持つ少年アークに視線を移した。「観測記録を改変する『器』は、今、二つ存在する。この過去の法則を、誰が、どのように書き換えるのか……」


彼は、懐から何かを取り出した。それは、青白い光を放つ、透明な結晶体だった。


「さあ、選べ。君たちの運命は、この時間軸で決定される」

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「傘のパカパカは戦闘に無意味」と追放されたけど、極微エネルギー操作で世界を救う最強の観測者になりました 人とAI [AI本文利用(99%)] @hitotoai

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