青春の仮住まい

石野 章(坂月タユタ)

青春の仮住まい

 春という季節は、人類の半分を利口にし、残りの半分を愚かにする。残念ながら、私の周りには後者しかいないようだった。


 私はいわゆる地方の中堅大学に通う一年生だ。そして、誰にも言っていないけれど、私はこの大学に長居するつもりはない。


 なぜなら私は、もっと上に行く人間だからだ。


 この大学ほどぬるま湯という言葉が似合う場所もない。キャンパスの中心には芝生があり、学生たちはそこに寝転び、昼からタピオカを啜り、そして寝る。ゆるくて平和で、私はそれを見ながら「こんなとこで満足してる場合じゃない」と心の中で舌打ちしていた。


 私は、彼らとは違う。私はこの呑気な学園を仮の住まいとし、来年にはもっと刺激的な場所、すなわち東京の名門大学に入学するのだ。


 そのために私は、昼は涼しい顔で「この授業、眠いよねー」と言いながら友人とサンドイッチをかじり、夜には机に向かって英単語を詰め込む二重生活を送っている。


 四月の終わり、私は文学サークル「ペンギン文芸会」に入った。なぜペンギンなのか。部長曰く「ペンギンは空を飛べないが、泳ぐのは得意だから」とのこと。


 意味がわからない。だがそれが大学サークルの真骨頂だ。そこで私は、どうにも抜けた先輩たちに出会った。


 哲学科の三上先輩は「人間とはつまりカレーライスみたいなものだ」と言い、文学部の千秋先輩は「私の魂は常に徹夜明けなの」と言い、ある男子は「論理的に言えば、僕の遅刻は地球の自転のせいだ」と言った。


 全員が自分の愚かさを学問的に正当化している。私は内心思った。「こういう人たちにはならないようにしよう」と。


 しかし不思議なことに、彼らといると楽しかった。無駄話をして、どうでもいいことを考え、駅前のうどん屋で「このうどんには哲学がある」と言い張ってみたりする。

 夜風が柔らかく、笑いが絶えなかった。


 その時の私はまだ、笑いながらも心のどこかで冷めていた。これは仮の交友関係だ。私はここを出て行く。そう思っていた。



 六月のある日、三上先輩が言った。


「君、最近どうも本気で笑ってないね」


「え? 笑ってますよ」


「いや、口角は上がってるけど、目の奥が試験前みたいに焦っている」


 私はぎくりとした。なぜバレたのか。いや、バレてなどいない。ただ私が勝手に動揺しているだけだ。


「人はね、未来のために今を犠牲にするとき、だいたい未来も犠牲にしてるものだよ」


「それ、なんか良い感じに聞こえますけど、つまりどういう意味ですか」


「つまり、カレーを冷ます間に、腹が減るってこと」


 なんだそれは。けれど、そのとき私は少しだけ胸を突かれた。もしかして、私が生きている今は、夢に見る未来よりも大切なのではないか。そんな考えが、一瞬、頭を掠めた。


 しかし、私の決意は揺らがなかった。七月の模試で好成績を取り、私は勝利の余韻に酔っていた。


 でも夜、窓を開けて「私はいつかここを出るんだ」と呟いたとき、なぜか少し涙が出た。それはたぶん、喪失の予感だった。



 秋になり、サークルでは文化祭の準備が始まった。屋台で「文学的わたあめ」を売るという企画だ。「文学的」とは何かという議論に三時間費やし、結論は「ピンク色に染めれば文学だ」ということになった。


 私はもう、笑いながら議論に加わっていた。仮の交友関係は、いつしか本物になっていたのかもしれない。しかし、それを認めるのは怖かった。なぜなら私は、彼らを見下してきたのだから。


 文化祭の前日、千秋先輩が言った。


「ねえ、あなた、来年いないんでしょ?」


「……え?」


「わかるよ。なんかね、あなた、いつも遠くを見てるから」


 私は言葉を失った。千秋先輩は笑って続ける。


「でもね、遠くを見すぎると、足元の石に転ぶんだよ」


 私はその夜、勉強の前にサークルで撮った写真を取り出した。笑っている私がいる。それを見て、胸がぐっと締めつけられた。



 そして春。

 私は合格した。

 あの名門大学に。


 だが、報告に行くと、誰も驚いてはくれなかった。


「ふーん、じゃあ送別うどんでも食べるか」と三上先輩が言い、全員で駅前のうどん屋に行った。


「おめでとう」と、みんなが言う。どう返したらいいのかわからなくて、私は箸を持ったまま黙り込んだ。湯気の向こうで、三上先輩がぽつりと口を開く。


「でも、行ってもいいし、行かなくてもいいと思うよ」


「……え?」


「君が何を選んでも、君が誰なのかは変わらない。だから、自分を誇張しすぎない方がいい」


「誇張、ですか」


「そう。人はいつも何かを演じてる。でも、演じることをやめる瞬間が、本当の意味で生きてる瞬間だと思う」


 私はうなずいた。出汁の匂いがやけに沁みた。


「どう? 勝利の味?」と千秋先輩。


「……しょっぱいです」


「それは涙の味だな」と三上先輩が笑った。


 私も吹き出しそうになって、でもやっぱり涙が出てきて、結局泣き笑いになった。

 そのとき初めて、ああ、私この人たちが好きなんだな、と思った。



 今になって思う。あのときの私は、ずっと「特別な人間」になろうとしていた。でも、本当に特別だったのは、何でもないあの日々のほうだったのかもしれない。笑い声とか、うどんの湯気とか、そんな取るに足らないものたちが。


 人はきっと、何かを装いながら生きている。でも、装いを脱ぎ捨てて笑えた時間が、人生で一番眩しいのだ。


 春の風が吹く。私は顔を上げた。目の前には、まだ知らない日々が並んでいる。そのどれもが、きっと、少しずつ本当の私を作っていくのだ。

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