第2話 彼女の限界
翌日。
昨日の気まずさを引きずったまま、俺は朝から落ち着かなかった。授業中も上の空で、教師の声が遠くのスピーカー越しのように響くだけだった。
スマホには、凛からの返信がない。
昨夜送った 「ごめん」 のメッセージは既読すらついていなかった。
胸の奥が、絶えずざわついている。焦燥と不安が、授業の終わりを待つ間、ゆっくりと広がっていった。
放課後のチャイムが鳴った瞬間、俺は誰よりも早く教室を出た。
友達が何か声をかけてきたが、耳には届かない。
ロッカーに鞄を押し込み、自転車の鍵を外す。
ペダルを踏み込んだ瞬間、胸の奥で小さく鼓動が跳ねた。
凛の学校まで、十数分。
今日こそちゃんと話そう。昨日は言い過ぎた。
謝って、仲直りして――また、いつもの笑顔を見せてほしい。
その一心で、俺はただ必死にペダルを漕いだ。
凛の学校の校門が見えたのは、ちょうど日が傾き始めた頃だった。
夕暮れの光が校舎の壁を赤く染め、吹き抜ける風が制服の裾を揺らす。下校する生徒たちが、まばらに歩いている。
その中に――見覚えのある後ろ姿があった。
凛だ。
昇降口の前、男女六人ほどのグループの中心に彼女がいる。
男子の一人が何かを言い、グループ全体が笑いに包まれた。凛も笑っていた。屈託なく、楽しそうに。
その光景を目にした瞬間、視界がわずかに歪んだ。
昨日、あんなに言ったのに。
『すぐ帰るね』――そう言っていたのに。
なのに、また。また他の男の隣で笑っている。
胸の奥から、黒い感情がゆっくりとこみ上げてくる。理性が警告を発する。
――落ち着け。
――ただの友達かもしれない。
――話しているだけだ。
けれど、そんな声よりも強い衝動が、俺の体を動かしていた。
自転車を降り、校門へ向かって歩く。砂利を踏む音が、やけに大きく響く。
グループの一人が俺に気づき、会話が途切れた。凛が振り向く。
その瞬間、彼女の表情が凍りついた。
「……湊?」
「凛」
自分でも驚くほど、声が低く出た。
「帰ろう」
「え、でも――」
「帰ろうって言ってるんだ」
一歩、また一歩と近づく。男子たちが警戒するように俺を見た。
「あの、藤原くん……だっけ?」
女子の一人が遠慮がちに言う。
「今、みんなで明日の準備の話してて――」
「関係ない」
俺は凛の腕を掴んだ。
「ちょっと、湊!」
凛が抵抗する。けれど、手は離れなかった。
「昨日も言っただろ。すぐ帰るって」
「だから、これは学校行事の――」
「言い訳はいい」
強引に引っ張ると、凛がよろめいた。
「湊、やめて! 痛い!」
彼女の悲鳴に、グループの男子が立ち上がった。
「おい、ちょっと待てよ。彼女、嫌がってるだろ」
俺はその男を睨みつけた。
「お前に関係ない。凛は俺の彼女だ」
「関係あるよ。友達が困ってるんだから」
――友達。
その言葉が、頭の中で反響する。
友達なら、なぜあんなに楽しそうに笑うんだ。なぜ、あんな表情を見せるんだ。
胸の奥で、感情が軋む音がした。
「湊!」
凛の声が鋭く響く。
「もう、やめて!」
その声には、明確な怒りがあった。俺は思わず手を離した。
凛は数歩下がり、俺を見上げた。その瞳には涙が浮かんでいる。
「……なんで、こんなことするの」
「凛……」
「昨日も言ったよね。業務連絡だって。今日だってそう。明日の学校の仕事の話してただけなのに」
「でも――」
「でも、じゃないよ!」
凛の声が校門に響く。
「湊は、いつもそう。私が誰かと話してるだけで、勝手に嫉妬して、勝手に怒って、勝手に連れ出そうとする」
「それは……お前を心配してるからで……」
「心配じゃない! 束縛だよ、それは!」
その言葉が胸を貫いた。昨日と同じ言葉。けれど今日のそれは、明確な拒絶の重みを持っていた。
「凛……」
「湊は、私のこと好きって言ってくれるけど……本当に好きなら、もっと信じてよ。私の友達も、私の時間も、私の気持ちも」
凛の頬を、涙が伝う。
「このままじゃ……私、湊といるのが……辛くなっちゃう」
世界が止まった。
――辛い。
俺といるのが、辛い。
凛が、俺を……。
喉の奥から、かすれた声が漏れる。
「あ……」
頭の中が真っ白になり、足元がぐらりと揺れた。
「……ごめん」
凛は涙を拭き、グループの方を振り返った。
「みんな、ごめんね。また明日」
「あ、うん……気をつけてね、凛ちゃん」
凛は小さく手を振り、校門を出ていく。俺の横を通り過ぎるとき、彼女は一度も俺を見なかった。
ただ、小さく呟いた。
「……もう、無理」
その一言で、何かが崩れ落ちた。
凛の背中が夕陽に溶けていく。
俺は、ただ立ち尽くすしかなかった。体は動かず、声も出ない。
ただ、凛の後ろ姿が小さくなっていくのを見ているだけだった。
どれくらい、そうしていたのだろう。気づけば、周囲の生徒たちはみな散っていた。
グループの一人が、遠慮がちに声をかけてきた。
「……大丈夫?」
大丈夫なわけがない。俺は何も言わず、ただ首を横に振った。
「凛ちゃん、本当にいい子だから。ちゃんと話せば、きっと……」
その言葉に、胸が締め付けられた。
いい子だって、知っている。
凛は優しくて、明るくて、誰にでも平等で。
だからこそ、怖かった。誰かに奪われるのが、怖かった。
だけど――もう、限界だったんだ。凛の、我慢の。
「……ありがとう」
それだけ言って、俺は自転車に跨った。ペダルを踏みしめる。どこへ向かっているのかもわからないまま、ただ風を切って走った。
気がつけば、河川敷に辿り着いていた。
夕陽が川面を赤く染め、冷たい風が頬を撫でる。俺は自転車を降り、堤防に腰を下ろした。
スマホを取り出し、凛との会話履歴を開く。
『今から掃除当番。終わったらすぐ帰るね』
『ごめん、部活で忙しくて!』
『湊くん、また始まった』
全部、俺が原因だった。
凛を縛って、凛を苦しめて、凛を泣かせた。
守りたかっただけなのに。失いたくなかっただけなのに。
結果的に、俺は凛を傷つけていた。
「……もう、やめよう」
声に出してみる。風に溶けるように、その言葉が消えていく。
「束縛、やめよう」
もう一度繰り返した。凛のためにも、自分のためにも。
このままじゃ、本当に凛を失ってしまう。それだけは、絶対に嫌だった。
スマホの画面を見つめ、震える指でメッセージを打ち込む。
『ごめん。本当にごめん。もう束縛しない。約束する』
送信ボタンを押すと、数秒後に既読がついた。けれど、返信はこなかった。
それでもいい。今は、それでいい。
俺は、変わらなきゃいけない。凛を信じて、凛の時間を尊重して、凛の友達も認めて――そうしなければ、本当に彼女を失ってしまう。
夕陽がゆっくりと沈んでいく。
堤防に座ったまま、俺はその光景をただ見つめていた。
胸の奥はまだ苦しかった。けれど、ほんの少しだけ、決意が固まった気がした。
――束縛を、やめよう。
凛のために。俺のために。この関係を守るために。
空が、深い藍色に染まり始めていた。
新作だから感想聞かせて欲しいです!
束縛をやめたはずなのに、彼女が俺の影を追ってくる。 Mogger_陰毛ソムリエ @Kira1368
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