ウロボロスの輪

坂口衣美(エミ)

ウロボロスの輪

 



 まばたきをするのが怖い。あのまぶたが閉じる一瞬、途切れる視界に耐えられない。


 眠ることは恐怖だった。意識が止まること。今日と明日が区切られること。それが私の心臓を収縮させる。自らの尾を飲み込む蛇。循環する時間。私は目を見開いて夜を過ごす。


 それはあのことに気づいたときから。私が終わりを失ったときから始まった。






ーーーーー



「せんぱあい」


 呼びかけられて私は振り返った。昼休みの校内には、行きかう学生の姿が散らばっている。


 よく晴れた春の日、私に向かって駆けてくるのは部活の後輩。アトム、と呼ばれていた。本当にそういう名前なのだ。当て字で安登夢。一度聞けば忘れられない。高校を出てから、しばらくアルバイトをして過ごしていたという。


「メシ食いました? これから部室行こうかと思って」


 アトムはコンビニのサンドイッチを手に持っている。ひょろりと背の高い彼は、あまり食べない。そのかわり、ひたすら甘いカフェオレを飲む。


「私は食堂」


 演劇部の部室は、四年生が引退してから雰囲気が変わった。だらだらと漫画を読む者には白い目が向けられるようになり、中身のない論争が繰り返される。

 それになじめず、私は昼食を外でとるようになった。あの空気は息苦しい。先輩たちの笑顔が懐かしい。


「あー。じゃあついて行こっかな」


 アトムはサンドイッチをぶらぶらさせて言った。彼は何かと私にまとわりつく。


「それ、食べるんでしょ」


 持ち込み可能な食堂だったが、私は一人になりたかった。しかし、そんな内心をアトムに話す気にはならない。それほど親しくないと思っていた。


「食べますとも。わけっこします?」


 いい、とつぶやいて私は止めていた足を動かす。アトムがついてくる。


「せんぱあい。今度、台本読み付き合ってくださいよ」


「そのうち」


 食堂は人だかりがしていた。この大学の売りは、金をかけたランチなのだ。新入生はこぞってそれを食べたがる。うわあ。アトムが大げさに顔をしかめる。


「並んでたら昼休み終わっちゃいますよ」


 そうかもしれない。私はため息をついた。アトムはにこにこしている。手に持ったものを掲げ、


「ね?」


 ハムと野菜のミックスサンド。私はぐううと腹が鳴るのを感じた。



ーーーーー



「で、ゴウっちがもっと台詞つけてくれって。泣きながら」


「へえ」


 私たちは校舎の影に置かれたベンチで、それぞれの食事を口に運んでいた。コンビニのおにぎりは味気ない。


 しかし、まだ食堂の混み具合はおさまらない。もう六月なのだが、今年はメニューがリニューアルしたとかで、大々的に宣伝されていたのだった。


「先輩なら主役はれると思うんだけどなあ」


 アトムはカフェオレを飲みながら言う。いつからか、二人で昼休みを過ごすようになってしまった。


「別に。やりたくもないし」


 私はそれほど演劇にのめり込んでいるわけではない。ただ、入部の勧誘をしていた先輩たちが楽しそうだったから選んだだけだ。


「情熱がないのはけしからん」


 笑いながら、アトムは私に手を伸ばした。頬に落ちていた髪をすくい上げる。私はアトムの指先が触れたところに、ちりりとしたものを感じた。


「なんか熱くなること、ないんすか」


 アトムの服の袖が少しまくれ上がり、そこから何かが見えた。


「特に」


 私はそれを見つめる。アトムの手首に輪が彫り込まれている。


「じゃあ、熱くさせてもいいっすかね」


 その輪は、尾を飲み込んだ蛇だった。どこかで見たことがある。アトムが何を言いたいのかわからず、私は無言でその顔を見返した。


「名前で呼びたい」


 アトムはそう言って私の頬を撫でた。肌にアトムの体温が染み入ってくる。



ーーーーー



「アトム?」


 同窓会で、演劇部の同期は怪訝な顔をした。私たちは十人ほどのグループで、小綺麗なレストランにいた。懐かしい先輩の顔もある。


「そう。アトム。来てないね」


 私は同期の耳元を眺めて言う。パールのピアスがやわらかく光っている。ワイングラスを持ち上げて、同期は繰り返す。


「アトムって?」


 私はデザートのシャーベットを口に入れた。梨の香りが鼻に抜ける。


「覚えてない?」


「うん」


 あんな珍しい名前、そう簡単に忘れられるものだろうか。そんなものかもしれない。過去なんて、すぐに消えてしまう。


「ちょっと、お手洗い」


 そう言って立ち上がろうとしたとき、ぐらっと視界が揺れた。とっさにテーブルクロスをつかんだところまでは意識があった。



ーーーーー



「せんぱあい」


 呼びかけられて私は振り返った。そこにいるのはアトム。


 私たちは付き合っている。アトムは数年、他の人より遅く入学した。ここに至るまでのこまごまとしたことを語ったとき、アトムは少し泣いていた。


「おにぎり。鮭と梅干」


 アトムは私の分も食べ物を買ってきてくれる。私は微笑んでそれを受け取る。


「ありがとう」


「なんのこれしき」


 そして私たちはいつものベンチに向かう。しかしそこには黄色いテープが張り巡らされていた。


「工事っすかねえ」


 アトムは中途半端な敬語をやめない。それを楽しんでいるのだ。名前で呼んでくれればいいのに。私はそう思う。


「他んとこ、行きますか」


 私は歩き出すアトムの手をそっと握る。ちらりとのぞいた手首に、輪が見えた。



ーーーーー



「アトム?」


 同窓会で、演劇部の同期は怪訝な顔をした。私たちは十五人ほどのグループで中華料理店にいた。知らない顔がちらほらとある。私が引退してから入部した後輩だろう。


「彼氏だよ。私の」


 私は同期の胸元を眺めた。一粒ダイヤのネックレスが光っている。


「何言ってんの」


 同期は紹興酒の入ったグラスを持ち上げ、咎めるように言った。


「あのまま篠田と結婚したじゃん。すぐ別れて……ご祝儀返してほしいよお」


 私はふと違和感を覚えた。結婚式ではウエディングドレスに赤ワインのソースをこぼして慌てたんだった。そうだった。


 アトムって、誰だっけ。


「ごめん、待ってて」


 アルコールを飲むとトイレが近くなる。立ち上がると、視界が揺れた。ガチャンと食器が割れる音が聞こえた。



ーーーーー



「せんぱあい」


 隣の席からアトムが小声で呼びかけてきた。講義中だ。ホワイトボードの前で助教授が話している。


「ブロック宇宙論では、過去、現在、未来が同時に存在すると考えられており……」


 なぜか哲学のテーマから脱線したのだ。話が長いと、いつも学生たちは文句を言う。時計を見ると終了時刻が迫っている。


「全部がここにあると思ったら、なんか、すごいことできる気がしません?」


 言葉を重ねるアトムに、私はしいっと指を立てた。少人数のクラスだ。私語は目立つ。助教授は話し続けている。


「本のようなものです。

 読んでいるページが現在、初めの一ページ目が過去、最後のページは未来……」


 アトムが手首を撫でている。そこにはあの輪。



ーーーーー



「アトム?」


 同窓会。怪訝そうな同期の顔。アンティーク調のブローチが鈍く光っている。


「……なんの話だっけ」


 私は聞き返した。ふと意識が途切れたような気がする。手元のシャンパンを見る。

 飲みすぎたのだろうか。カジュアルなイタリアンレストランだったが、演劇部の顧問が出席していたので盛り上がったのだ。


「あんたが言い出したんじゃない」


 同期はラザニアをフォークに乗せたまま言った。そうだっただろうか。


「で、誰?」


「ええと」


 よくわからなくなってきた。私は誤魔化すために、トイレに立った。そこでめまいに襲われる。

 ちょっと、という同期の焦った声が聞こえた。



ーーーーー



「せんぱあい」


 私はアトムと腕を組んでいた。アトムは私をからかうとき、いつもそう呼ぶ。せんぱあい。もう何度も聞いた。何度も。何度も。


「そろそろさあ、考えません? 将来のこと」


 アトムは左手の指輪を見せて笑う。安物だが、私たちは真剣にそれを選んだのだ。いつかダイヤのはまったものを、と、そのときに話し合った。


「あれ」


 いつも座っていたはずのベンチがない。影も形も、ない。


「別のとこでいいかあ」


 アトムがなんでもないことのように言う。その手首には、輪が。



ーーーーー



「アトム?」


 同窓会。怪訝そうな同期の顔。銀色のチェーンが首にかかっている。


「……え?」


 私は声を漏らした。和食のコースを提供する店。同期は日本酒を飲んでいる。


「え、って何よ」


「……鉄腕アトム?」


 言いながら、私は思う。何かがおかしい。私は立ち上がった。ぐるんと視界が回る。畳が目の前に迫ってくる。



ーーーーー



「せんぱあい」


 私は駆けだした。ここはどこだ。大学の校内。まばらな人影。あのベンチがあったところに向かって走る。


 そこには警察の非常線が張られていた。数人の関係者らしい男女が低い声で話している。


「いまどきねえ」


 それはいやに鮮明に耳に届いた。


「男のほう、薬やってたんだって」


「それでナイフで女を」


 私は息を切らせてそれを見つめた。背後から誰かが近づいてくるのを感じる。それは私に呼びかけた。


「せんぱあい……ずっと一緒にいましょうね……」


 そのとき非常線の周りの声が突然、大きくなったように感じた。


「死んでも死にきれないだろうな。無理心中なんて」


 そっと私の体に腕が巻き付く。その手首にはあの輪。


 ウロボロスの輪。

 

 永遠、自己完結、生成と破壊の一体性。意識が途切れる。



ーーーーー



「アトム?」


 同窓会。同期が怪訝な顔を。


 私は気づいた。あのとき止まったのだ、私の時間は。それなのに輪は回り続けている。

 

 アトムがそうさせているのか、私自身がこれを選んだのかはわからない。どうすれば抜けられるのだろう。

 勢いをつけて立ち上がる。そこでやはり視野が暗転する。



ーーーーー



「せんぱあい……」


 耳元でアトムがささやく。あの輪を手首に刻んで。


 永遠に循環する時間。もはやまばたきさえできない。ほんのわずかな切れ目で始まりと終りがつながってしまうのだ。私はひたすらに目を見開く。


 アトムの手首で蛇がぐるぐると回っているように見える。目を閉じてはいけない。暗くなっていく視界で、アトムが何かを取り出した。


ベンチに腰掛けた私にそれを向ける。痛みを感じる前に意識が飛んだ。



ーーーーー











「アトム?」

 同窓会。同期が怪訝な顔を……

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