星を見つめる

 昨日の宣言通り、葛原は芦田を海に連れていってくれた。チーム名にあるように、みなとみらいがホームタウンだが、その実練習所は横浜市の内陸部にある。そのためマンションも高台の方のものを借りている。バルコニーからようやく海が見える程度で、そこまで海が身近ではなかった。

 葛原が適当な駐車場に停める。ここからは歩きのようだった。車を出て、葛原に着いていく。

「ちょっと歩きますけど、いいっすか」

「大丈夫ですよ! というか、体動かしてないと寒いですね……」

 そう言うと、葛原は振り返ってくしゃりと笑った。そして向き直って知ったように歩いていく。

 葛原は毎シーズンチームが違う。本人も、同じチームにいたのは大学とミニバスの四年間が最長と冗談めかしてインタビューに答えていたことがあった。神奈川のチームに所属したのは今季が初めてのはずなのに、葛原はどんどん進んでいく。

 日本丸を目の前にしたデッキで、葛原が立ち止まった。手すりに手をかけて、日本丸をじっと見つめている。横顔をちらりと見上げると、どことなく寂しそうに物思いに耽っていた。何らかの思い出があるのかもしれない。芦田は口を開いた。

「日本丸の資料館、入りますか?」

 はっとしたように葛原が芦田に視線を移した。

「いや、海です」

 思い出したように、葛原はまた歩みを進めた。

 葛原と違って、芦田の前の職場も横浜だったから、みなとみらいはよく遊びに来ていた。日本丸の資料館もなかなか良いところだけど、とも思ったが、今日は葛原に全てを任せているから、そのまま着いていく。

 案の定、身長差はそのまま歩幅の差になった。すたすたと歩く葛原を、早歩きで追いかける。いつもならそんなことはない。もっとも、プライベートの詮索を恐れて、並んで歩くことは滅多にないが、それにしたって今の葛原は彼らしくなかった。

 今日は芦田のために海に来た。一晩置いて、芦田はなんとなく察していた。昨日の練習終わりの話は、なかなかにセンセーショナルだった。おそらくぎこちないリアクションばかりで、葛原にも芦田の気持ちが手に取るように読み取れたのだろう。だから、励ますというか、平気だと伝えるつもりで今日は出かけているような気がしていた。

 ただ、迷わず進む葛原の背中を見ていると、葛原自身のために海に向かっているような気もしてきた。いつもの彼ならここまでマイペースではない。誰のペースがあっても、自分のペースを貫くのが葛原であって、誰かのペースに上塗りして自分のペースを出すのは違うはずだった。

 結局、みなとみらいから少し離れたところまで歩いてきた。

「あ、海。ビーチみたいなところ、みなとみらいにあったんですね」

 なんだかんだ、芦田にも横浜の知らないところがあった。こんないかにもな場所があるなんて。指をさしていると、葛原がふっと笑った。

「おすすめの場所があるんです」

 どうやら葛原の目的地は砂浜ではないようだった。段々と岩場から港に近づいていく。

 葛原が足を止めたのは、港のへりだった。柵もないから、うっかり足を滑らせてしまうとそのまま深い海に落ちてしまいそうだった。それでも引き込まれるような魅力があった。その場にしゃがんで、何も見えないのに覗き込んでみた。

 暗い青色は、どことなくミステリアスな葛原に似ている。もしメンバーカラーがあったなら、きっと葛原はこういう色なんじゃないのか。

「いい色ですね」

「そうですか」

 てっきり葛原もこの良さを分かって教えてくれたのかと思っていたが、そうでもないようだった。それに、そういえば、というレベルだがよくよく思い返してみると、車を降りてから葛原が楽しそうにしている様子はなかった。だからといって固い顔をしているわけではなかったから、特に気にはしていなかったが。

「……葛原さんって、海好きですか?」

「どちらかというと嫌いです」

 じゃあなんで連れてきたんだよ。思わず突っ込みそうになってしまう。

 もしかしたら、芦田が海好きに見えたのかもしれない。そう思うことにした。

「海好きそうに見えるかもしれませんが、私は金づちなんです」

「そうなんですか! 意外です」

 反対に、葛原は幼少期にスイミングに通っていたという。たいていのスポーツはできちゃうんすよ、と楽しそうに話してくれた。

 その後もぽつぽつと会話を続ける。どれも他愛もない話だが、昨日とはまるで違った温かさがあった。こういうのが好きだと、改めて実感した。中身のあるようでない会話をしながら、それぞれがそれぞれの景色を眺める。自分自身を確立させながらも、誰かと穏やかに暮らしていくという、芦田の理想がここにある気がした。

「――昨日の話ですけど」

 だいぶ温まったところで、葛原が話題を変えた。もう芦田が身を固くすることはなかった。

「俺は誰を抱くのも誰に抱かれるのも興味ないってのは、本当です」

「それは、分かります」

 きっと、葛原は芦田と同じアセクシュアルだろう。けれど、葛原が自身をそう言い表さないうちに、芦田の方から葛原のセクシャリティを指し示すのは違うと思った。

「それで、芦田さんにそういう気を持たないのも本当です」

「それも、分かります」

 パートナーという関係性になってから今まで、葛原からスキンシップを受けることはなかった。そもそも付き合い始めた頃に、お互いにしたいこととしたくないことは擦り合わせていて、葛原が嘘をついている様子なんてないままこの五か月を過ごしている。今さらの話だった。

 それに、芦田が憮然としてしまったのはまた別の話で、葛原のセクシャリティが原因ではない。

「……まぁ、完全に性欲がないかと言われるとそうでもないんですけど」

「そういう人はいますよ」

 あくまでも他者に性的に惹かれないだけで、欲求を持つ人はいる。説明するように伝えると、葛原は曖昧に微笑んだ。もしかしたら、それでもないのかもしれない。

 広義のアセクシュアルはスペクトラム状、つまりグラデーションがかかっている。全く他者に性的に惹かれない人もいれば、親密さを感じれば性的に惹かれる人もいる。芦田は前者で、葛原は後者なのかもしれない。

「付き合い始めた頃、芦田さんがアセクシュアルのことを教えてくれたじゃないですか」

 芦田は頷いた。懇親会の夜、付き合うと決めたその週の土曜日に、芦田の家で様々な擦り合わせをした。そのとき、アセクシュアルだけでなくアロマンティックの話をして、自分がそうだとカミングアウトした。

「俺もあれから調べたんです。もしかしたらそうかもしれないって思ったから」

 でも。葛原は逆接を打った。一度切った葛原を見上げる。

「芦田さんのように、自分はこうだと言えないです」

 アロマンティックとアセクシュアルのどこかにはいるんでしょうけど。葛原は突き放すように続けた。

 別にそれは悪いことではない。何かにならなきゃいけないことはないし、セクシャリティのラベルが何かをしてくれるわけではない。

「芦田さんは優しいですね」

 そう話すと、葛原はいつもの年不相応の笑みを浮かべてこちらを見つめた。目は合ったが、すぐに葛原は海の向こうに視線を向けた。

「俺はずっとそうなんです。性別の感覚も薄いし」

「性別の感覚?」

「芦田さんはありますか、自分が女性だという意識」

「……ありますけど」

 ただ、芦田だってきちんと意識しているかと言われれば別だった。前職のような飲み会マナーは大嫌いだったし、結婚と出産が女の幸せと言われても全く意味が分からない。

「『女性らしさ』という言葉には疑問を覚えるんですけど、自分自身が男性だとは思わないです」

 簡潔に伝えると、葛原は大事なものを受け取るように頷いた。芦田がそうであることを尊重すると伝えるような頷き方だった。葛原は表情よりも目や態度が豊かな方だと思う。そのまま葛原が口を開いた。

「俺は、自分のことが男性とも女性とも考えたことがないんです」

 たぶんそれって、と芦田の中で思い当たる性自認の言葉が出てくる。けれど、これもさっきのセクシャリティの話と一緒なので、聞き役に徹することにした。穏やかな相槌を打つと、葛原は話を続けた。

「俺が男子リーグにいるのは、『ガワ』が男だったからです。ただそれだけ」

 芦田は、歓迎会の帰りの葛原を思い出した。あのときは、周囲と同じ熱量で恋をしない、それ以上でもそれ以下でもないと語っていた。あのときのようだと思った。葛原自身の大切な話を分けてくれているのに、どこかでシャッターが下ろされている感覚。

「……まぁ、だから、佐々木さんの言ったことには何も返せないです。俺はどこかでちゃらんぽらんだから」

「そんなことないです! ……怒って良かったんですよ!」

 思わず立ち上がってしまう。でも、そうでもしないと、葛原は分かってくれない気がした。自分自身のことを、ほとんど誰も分かってくれないようなことを、勝手にラベル付けされて笑われるなんて、誰もされてはいけないはずなのに。

 案の定、葛原はいつものような笑みを浮かべている。その実諦念で笑っているような気がしてならない。

「芦田さん」

「はい」

「俺は大丈夫です」

 何が? 信じられなくて、そのままの表情で葛原を見つめる。

「あれにイラつき続けるほど、俺は安くないんで」

 そう言って、葛原はいつものような笑みを浮かべた。この人はだてにプロバスケ選手をやっていない。活躍次第で次の契約が決まるようなシビアな世界で生きているのだから、あんな言われ方のいなし方も分かっているのだろう。

 そうか、とも思う。葛原がよく浮かべる実年齢以上の笑い方も、そういうメンタルからきているのかもしれない。

 ひとりでに納得していると、でも、と葛原が呟いた。

「芦田さんが俺のためを思ってそうなってるの、ちょっと嬉しかったです」

「……え」

 悪いわけじゃないのに、葛原らしくないと思ってしまう。責めるつもりもないが、何も言えないでいると、そのまま葛原は続けた。

「いいですね、パートナーって」

「……そうですね!」

 やっぱり間違ってなんかいなかった。芦田の考える理想の関係性なら、パートナーを救うことができる。それは、恋愛に興味がない自分を肯定してくれるような気がした。

「葛原さんがパートナーで良かったです」

 葛原を見上げて微笑むと、くしゃりと笑い返してくれた。これがふたりの関係性の答えだと思った。

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